第239話 嵐の夜
落ち着け、俺。まだ慌てるような時間じゃない。
これは俺の冗談に、クマサンもまた冗談で返してきただけにすぎない。
彼女のような若くて可愛い女の子が、俺の部屋に泊まるなんて――いくら外が嵐だろうと、冷静に考えてあるはずがない。
……とはいえ、ここで「またまた~」なんて俺から日和るのも、妙に負けた気がして悔しい(何の勝負かは不明だが)。
だったらさらに強めの冗談で、クマサンを慌てさせてやりたい。
「じゃあ、今からお風呂沸かすし……入る?」
セクハラ認定のリスクもある一撃を繰り出した。これを言われては、さすがに「ごめん、冗談だよ~」と白旗を上げるだろう。
――そのはずだったのに。
「……うん。汗かいちゃったし……」
クマサンは、なぜか恥ずかしそうにうなずいた。
日中に自転車で来て、配信中もあのテンションだったのだから、汗をかいているのは事実だろう――って、重要なのはそこじゃない。
……え? まじでうちの風呂に入る気なのか?
…………
いや、クマサンは我慢比べを仕掛けてきているに違いない。どちらが先に恥ずかしくなって降参するかという、精神を削るチキンレースを。
ならば俺も退くわけにはいかない。
「じゃあ、風呂を沸かしてくるよ」
正直、時間も遅いし、俺一人ならシャワーで済ませるつもりだった。だが、勢いで「沸かす」と口にしてしまった以上、もう後戻りはできない。
静かに立ち上がり、浴室へ向かう。壁の操作パネルの前で、大きく息を吐いた。
「……止めてくれるかと思ったんだけどな」
内心では、立ち上がったときに「冗談だよ」って言ってほしかった。けれどそんな言葉はなかった。
ここまで来てしまった以上、自動湯はりボタンを押すしかない。これで何もせずに戻ったら、それこそ俺の完敗だ。
「……まあ、朝になってクマサンを送ったあとに俺が入ればいいか」
指先でボタンを押し、しばし湯音を聞きながら小さく苦笑する。
戻ったときに「もう、本気にしないでよ」なんて言われたら、すぐに浴室に戻って湯はりを止めればいい。多少お湯が無駄になったとしても――それは俺の勝利のための安い犠牲だ。
部屋に戻ると、クマサンはPCの前に座ったまま、ややうつむき気味でこちらを見ようとしなかった。
「なーんて、冗談でした~」と笑う気配もなく、その横顔は、むしろ恥ずかしがっているようにも見える。
けれど、演技派のクマサンのことだ。本当に照れているのか、それともそうやって俺にプレッシャーをかけてきているのか、判断がつかない。
対抗できる演技プランも浮かばず、俺も腰を下ろして同じように黙り込む。
「…………」
「…………」
沈黙が部屋を支配する。
普段ならクマサンとの会話は不思議と途切れないのに、今夜ばかりは違った。
――気まずい。とにかく気まずい。
「風呂に入る?」なんて、聞かなければよかったのだろうか? いや、冗談とはいえ、俺の中にほんの少し期待があったのがいけなかったのかもしれない。
『お風呂が沸きました』
浴室から流れる無感情な音声が、永遠にも思えた沈黙を破った。
「…………」
「…………」
だが、二人とも無言のまま。
……そもそも、こういう場合ってどっちが先に入るべきなんだ? 立場的にクマサンがお客さんなんだから、やっぱり彼女が先か? ……ていうか、俺が使った残り湯にクマサンに入ってもらうなんて、どう考えてもダメだろ。
「……クマサン、お先にどうぞ」
乾いた喉を押し開き、ようやく声を出した。
もしクマサンが冗談で「泊まる」なんて口にしたのなら、さすがにここで種明かしをしてくるはずだ。
だけど――
「……着替えって、貸してもらえる?」
「――――!?」
それって俺の服を着るってこと?
でも、俺はクマサン用の服なんてもっているわけがない。
世の男性どもは、こういうときのために女性用の服を常備してたりするのか?
「……ジャージとかでいいんだけど」
……ああ、そういうのでいいんだ。
多少落ち着きを取り戻す。
これから着替えて出かけようというわけじゃない。一晩過ごすだけなら、とりあえず着られるものならなんでもいいってわけだ。
……一晩過ごす。
その言葉を反芻して、思わず心臓が跳ねる。
……やばい。ここで一人で舞い上がってどうする。
俺は呼吸を整え、自分を落ち着かせる。
「わかった。シャツとジャージ……適当なのを用意するよ」
慌ててタンスへ駆け寄る。
新品があれば喜んで献上するのだが、残念ながら都合よくそんなものはない。洗濯済みとはいえ、一度は俺が着た服を渡すしかないのが、なんとも申し訳ない。
「……ホントは下着も変えたいんだけどなぁ」
クマサン、その独り言、聞こえてますから……。
顔が熱くなるのを自覚する。
とはいえ、こんな台風直撃の中、コンビニまで買いに行かせるわけにはいかない。
……だったら、俺が行けばいいのか? クマサンにそんな危ないことはさせられないけど、俺が危ないだけならさして問題ではない。
「……コンビニまで買いに行ってくるけど?」
タンスを開いたまま、背中越しに声をかける。
振り返っては、とても言えなかった。
「……あっ、聞こえてたんだ」
少し上ずった声。どうやら本人も独り言のつもりだったらしい。
それをスルーせずに拾ってしまったのは失敗だったかもしれない。
「外は風も雨もすごいし、危ないよ」
「いや、俺だけなら大丈夫だよ」
根拠は何もないが、男としてはそう答えるしかあるまい。
「……でも、一人で女性用のを……買える?」
「…………」
そこまでは考えていなかった。
台風の中、ずぶ濡れでコンビニに突撃し、女性用の下着だけを買って帰る男――ダメだ、店員の間で絶対に噂になる。
今の天候を考えると、一番近いコンビニまで行くのがやっと。そこでへんなレッテルを貼られたら、もうその店に顔を出せなくなる。……それはあまりにもダメージがでかすぎる。
「……ごめん、無理そう」
俺は素直に降伏宣言をした。
……なんというか、いろいろと恥ずかしい。
俯いた視線の先で、タンスの奥に未開封の袋を見つける。
そういえば、自分用に買っておいた下着の新品がまだ残っていたっけ。
「俺の下着なら新品があるんだけど……穿く? ボクサーパンツだけど」
恥ずかしさを誤魔化すように、後先考えず口走ってしまった。
……まずい。今の空気でこの冗談は致命的かもしれない。慌てて取り消そうとしたそのとき――
「……じゃあ、お願い」
背中越しに返ってきた声に、息が詰まる。
……マジですか、クマサン。
俺はタンスから、紺色のシャツと黒いジャージの下、それに新品のボクサーパンツを取り出して重ねる。
――本当に、これをクマサンが身につけるのか。
その事実にドキドキが止まらない。
俺はゆっくりと立ち上がると振り返り、彼女の方へ歩み寄る。
「……どうぞ」
「……ありがと」
両手で抱きとめるように受け取るクマサン。その頬がわずかに赤いのを見て、胸の奥がもぞもぞと熱を帯びる。
「じゃあ、先にお風呂使わせてもらうね」
「……ああ、ごゆっくり」
クマサンは俺の渡した着替えを胸に抱え、そのまま浴室へと消えていった。
本当に――行ってしまった。
……もうこれ、冗談じゃないよな。
クマサン、本気で俺の部屋に泊まっていくつもりなんだ……。
 




