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第234話 名もなき小夜曲

 メイとキャサリンの合わせの練習が終わり、すべての準備が整った。

 俺達はキャサリンを伴い、王都の一角にあるダミアン邸の門をくぐる。


「次に会うときは曲を聴かせてもらうときだと言ったはずだが……『幻の楽譜』は見つかったのか?」


 姿を現したダミアンは、開口一番そんな言葉を投げてきた。相変わらず、鼻持ちならない尊大さだ。


「……『幻の楽譜』は見つかっていない」

「ふん。やはりな」


 ダミアンは肩をすくめ、わざとらしい落胆を隠そうともしない。そして、後ろに控えるキャサリンへと鋭い視線を向けた。


「それなのにここに来た……ということは――キャサリンを私に差し出す気になった、ということか?」


 ぞっとするほどいやらしい響きを含んだ声音。

 俺は咄嗟に一歩前へ出て、キャサリンとダミアンの視線の間に割って入る。そして、まっすぐに奴を睨み返した。


「『幻の楽譜』は見つかっていない。だが――俺達とあんたとの約束は楽譜を見つけることじゃない! 『幻の楽譜』に記された曲――ローランがセーラに贈った『名もなき小夜曲(セレナーデ)』を、あんたに聴かせることだったはずだ!」

「確かに私はそう言ったが……『幻の楽譜』を見つけてもいないのに、曲を聴かせることができるというのか?」


 ダミアンの瞳が鋭く光る。まるで矢のような視線が俺を射抜こうとする。だが俺は怯まない。胸を張り、むしろ挑むように言葉を発する。


「ああ! そのために俺達はここに来た!」

「……いいだろう。部屋を用意しよう。ついて来たまえ」


 ダミアンは軽くうなずくと、踵を返した。

 意外なほどあっさり受け入れられたことに、逆に拍子抜けする。

 てっきり「楽譜を見つけていないのに歌えるわけがない」とか、「どうせ適当な曲を持ってきただけだろ」とか、難癖をつけられ、ここまでの経緯を事細かに説明する必要が出てくると思っていた。

 言い争うよりも曲を聴いたほうが早いということなのかもしれない。

 あるいは、楽譜がなくても『名もなき小夜曲』が再現できることを最初から知っていたのか――


 ダミアンの真意は読めない。

 だが、俺達がすべきことは一つ。彼に『名もなき小夜曲』を聴かせること――ただそれだけだ。

 俺達は静かに彼の背中に続いた。


 案内されたのはダミアンの私室の一つだった。広さは学校の教室ほどあり、壁には音楽室のように無数の小さな穴が刻まれている。確かこの壁は、有孔吸音板といって、音を適度に吸収して響きを整える役目を果たしているはずだ。部屋の中に並べられた数々の楽器といい、この部屋全体が音楽のために作られた特別な空間なのだと一目でわかった。

 楽器の中には、ひと際存在感を放つピアノもあった。キャサリンの屋敷にあったものより格段に格調高く、黒々とした艶を湛えている。

 メイはその前に腰を下ろし、コトリと木質的な音を響かせて鍵盤蓋を開いた。

 キャサリンはピアノから二メートルほど離れ、伴走者と視線を交わせる位置に静かに立つ。

 ダミアンは当然のように、部屋で最も響きの良い場所に置かれたソファに腰を下ろした。おそらく、彼のために設計された、音楽を聴くための特等席なのだろう。

 だが、悲しいことにこの部屋にソファは一つだけ。俺達は仕方なくその後ろに立つしかなかった。まるでモブのような扱いだが、今この空間の主役が誰かは明らかで、文句を言う気にもならなかった。


 やがて室内が静まり返る。

 視線を交わしたメイとキャサリンが、深くうなずき合った。

 次の瞬間――

 メイの指先が鍵盤に触れる。柔らかな音が波紋のように広がり、ローランがセーラへ贈った『名もなき小夜曲』の前奏が流れ出した。


 ――それは、彼が言葉にできなかった想いをすべて音に託した旋律。

 希望と切なさ、願いと後悔。矛盾するはずの感情が一つに溶けあい、一つの音楽となって空気を震わせる。

 そこに、セーラの孫であるキャサリンの歌声が乗っていく。

 歌詞だけ見れば少し甘酸っぱい恋の詩。だが、ローランとセーラの物語を知る俺達には、その端々に潜む真実の想いが透けて見えてくる。

 愛する人を強く求める激情。叶わぬことへの悔しさ。そして――たとえ自分の隣にいなくとも、幸せになってほしいと願う純粋な祈り。


 次第に、歌うキャサリンに誰か別の人の面影が重なって見えてくる。

 ここにいる誰も吟遊詩人時代のセーラの歌を知らない。でも、今のこの瞬間だけは、ここに当時のセーラが舞い戻っている――そう確信できた。


 やがてキャサリンが最後のフレーズを歌い終える。メイが後奏の最後の和音を叩き、その余韻が静かに空間に溶けていった。

 二人の完璧な演奏、ローランとセーラの想い、そして俺達がこのクエストで積み重ねてきた数々の苦労――そのすべてが胸の奥で一つに重なり、熱いものが胸にこみ上げてくる。


 当のダミアンはこの曲を聴いて、何を感じているのだろうか。

 彼の表情はソファの背に隠れて見えない。けれど、この曲を偽物だとは言わせない。物的証拠はなくても、これは間違いなく『名もなき小夜曲』なのだから。

 俺はダミアンの反応を静かに待った。

 やがて――


 ぱちぱちぱち


 ダミアンはゆっくりと手を叩き始め――


 パチパチパチパチパチ


 その拍手の音が力強く激しいものへと変わっていく。


「見事だ! 『名もなき小夜曲』――確かに、この耳で……いや、この全身で聴かせてもらった!」


 歓喜に震えるようなダミアンの声が、静まり返った空間に高らかに響き渡った。


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