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第230話 キャサリンの歌

 メイの指が鍵盤を叩くたび、柔らかく繊細でありながら、奥底に熱情を秘めた旋律が紡がれていく。

 俺には音楽の才能なんてない。だから、それが曲そのものの力なのか、メイの技術によるものなかはわからない。だが――少なくとも「ピアノに触るのは久しぶり」なんて予防線を張る必要はないと思えるほど、彼女の演奏は確かだった。


 目を閉じ、音の作り出す豊潤な世界に身を委ねる。

 ――だが、これからというところで、不意に音が途切れた。


 メインディッシュが出る前にコース料理が終わってしまったような、そんながっかり感が胸を占める。

 何かあったのかと目を開けて顔を上げると、メイがぽつりとつぶやく。


「……楽譜にあるのは、ここまでだ」


 ああ、そうだった。

 あの楽譜は未完成だった。

 メイが悪いわけじゃない。

 書かれているのがそこまでなのだから、先を弾けるはずもないのだ。


「いいところで終わっちゃいましたね」

「……そうだな」


 ミコトさんもクマサンも、同じく名残惜しそうに肩をすくめている。

 吟遊詩人であるキャサリンなら、きっと俺達以上に物足りなさを感じているだろう――そう思って視線を向けると、彼女は口を半開きにして、驚きの表情を浮かべていた。

 どうかした?――そう尋ねるより早く、彼女のつぶやきが耳に届く。


「どうして、その曲を……」


 はて?

 彼女の漏らした言葉に俺は首を捻る。

 あまりの曲の美しさに感嘆したのか、逆に期待外れで落胆したのか――そんな反応ならわかる。

 だが、この言葉は違う。「どうしてその曲を」とは、この曲を知っている者の言葉だ。

 『幻の楽譜』と呼ばれ、作曲者のローランと、それを贈られたセーラしか知らないはずの曲を、なぜキャサリンが知っている?

 もちろん、未完成の下書きが何らかの経路で漏れた可能性はある。だが、あのイザークの管理体制を考えれば、王都から遠く離れたこのメロディにまで広まっているとは思えない。

 ――考えても仕方ない。ここにはキャサリンがいるのだ、聞けばいい。


「キャサリン、もしかしてこの曲を聴いたことがあるの?」


 俺の問いに、彼女は戸惑いながらもうなずいた。


「……はい。小さい頃、祖母が私に歌ってくれた曲と同じなんです」


 ――なんだって!?

 どうして彼女の祖母が、この曲を?

 たまたま似た曲なのか、あるいは原曲が別にあって、ローランはそれをもとにしたのか、それとも――


「……キャサリン、その曲を歌ってくれないか?」


 ピアノの前に座ったまま振り向いたメイが、神妙な面持ちでキャサリンに促した。

 ……そうだ。彼女に歌ってもらえば、似ているだけの曲なのか、同じ曲なのかがわかる。俺には判別できないかもしれないが、メイならきっとわかるはずだ。


「……わかりました」


 キャサリンは背筋を伸ばし、そっとまぶたを閉じる。

 胸の奥で大きく息を満たし、静かに吐き出すと――鈴を転がすような、透明で澄んだ声が空気を震わせた。


 一音目が響いた瞬間、世界が変わった気がした。

 まるで部屋の中の色や空気までもが、その歌に染められていくようで、意識のすべてが彼女の声に引き寄せられていく。


 言葉ではとても追いつけない。

 その響きはただ耳で聞くだけでなく、胸の奥を撫で、指先や背筋の先まで震わせていく。

 声が旋律となった途端、心の奥底にしまいこんでいた感情が一気に解き放たれ、呼吸すら忘れるほどだった。


 ――音楽とは、これほどまでに人を揺さぶるものなのか。


 俺の耳に届く限り、それはメイが奏でた旋律と同じに思えた。

 だが、どうしてこの曲が彼女の中にあるのか――そんな疑問すら、今はどうでもよく思えてくる。

 今はただ、目の前で紡がれている世界を、全身で受け止めることだけに心を奪われていた。


 …………。


 ――やっぱり、いい曲だ。

 だけど、この歌も未完成のはず。サビの前で終わってしまう――そう思った、瞬間。


 歌は止まらなかった。


 澄み切った歌声が、そのまま先へと流れ込み、今まで聞けなかったサビを俺達へと届けてくれる。


 ――どういうことだ!?


 下書きにないはずの旋律を、なぜキャサリンが歌える!?

 やっと聴けたという充足感と同時に、鋭い疑問が胸を満たす。

 そんな感情を残したまま、彼女の歌は静かに幕を閉じた。


「……どうして最後まで歌えるんだ? たまたま似た曲を知っていたってことなのか?」


 感動の余韻も、拍手も忘れ、俺は問いを投げた。

 答えたのはキャサリンではなく、ピアノの前にいるメイだった。


「いや――キャサリンの歌と『名もなき小夜曲』は、同じ曲だ。メロディだけじゃない。この楽譜に書かれている歌詞と、キャサリンの歌詞まで一緒だった」


 ――――!

 思わず息が詰まる。視線を巡らせると、クマサンもミコトさんも同じく目を見開いていた。

 キャサリンは、まだ下書きを写した楽譜を見てない。

 それなのに―――

 彼女は最初から、旋律も、そして歌詞まで知っていたのだ。

 ――これは、一体どういうことなんだ!?


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