第229話 ピアノとメイ
そもそも今回のクエストの始まりは、エルシーから届いた一通の手紙だった。
王都での下書き探しが徒労に終わった今、六姉妹から何か新たな情報が得られるのではと期待してメロディアに戻ってきた俺達は、まず彼女達の家を訪ねた。――が、成果は得られなかった。
ならば、キャサリンのほうに何か進展があるかもしれない。そう考えて彼女の屋敷を訪れたが――
「……そうですか。『幻の楽譜』の下書きにはたどり着けたものの、未完成の楽譜だったのですね。残念ながら、こちらも目新しい情報は得られていません……」
俺達の報告を聞いたキャサリンは、静かに顔を伏せ、沈んだ声でそう言った。
「そうか……」
大丈夫だ――そう声をかけてやりたいが、わずかばかりの手がかりもない今、簡単にはその言葉が出てこなかった。
「王都でまだやり残していることがあるのかもしれないですね」
ミコトさんがぽつりとつぶやく。たしかに、その可能性はある。
メロディアへ向かう前に、念のためバーバラさんのところにも立ち寄って下書きを見せてもらったことを話したが、彼女も未完成の楽譜だとは知らなかったようで、がっかりした様子だった。
彼女から第二の下書きについての情報が得られるなんてこともなく、結局、そちらの線も行き止まりだった。
となると、残された手は――
「やっぱり、王都の図書館の蔵書を全部当たってみるしかないのかな……」
確証のない手がかりを求めて、ひたすら本を探す。
このメロディアで同じことをやったが、あれは本当に骨の折れる作業だった。
まだ、「このどこかにヒントがある」とわかっていれば気力も湧くが、あるかどうかもわからないとなると……正直、気が重い。
「――ところで、その『名もなき小夜曲』、サビが抜けているにしても、どんな曲なんですか?」
俺達が肩を落としていると、不意にキャサリンが問いかけてきた。
一人の吟遊詩人として、『幻の楽譜』と呼ばれるその曲に興味を抱くのは当然だろう。
俺だってどんな曲なのかな、とは思っていたけど――よく考えたら、楽譜を見ただけで、実際に曲を聴いたことはなかった。だから、曲のイメージさえまったくわからない。
そんな俺の沈黙を察したのか、後ろにいたメイが代わりに口を開いた。
「緩やかなリズムの中に、優しさと深い愛情が感じられる――そんな曲だよ。まあ、私も楽譜を読んだだけで、実際に聴いたわけじゃないけど」
……さすがだ、メイ。
俺にはただの線と記号にしか見えなかったものが、彼女には情感を帯びた音として見えていたってわけだ。
それは俺が持っていない能力、そして見えない世界――それだけに、そのレベルで音楽に触れられる人にはマジで憧れる。
「下書きは写させてもらったんですよね? うちにはピアノがありますし……よければ弾いてもらえませんか?」
キャサリンの申し出に、俺は思わず顔を上げた。
正直、ありがたい。未完成とはいえ、このタイミングで曲を聴けるなら、それに越したことはない。
だが、悲しいかな俺にピアノが弾けるはずもなく――
「……えっと、キャサリンが弾いてくれるっていうのじゃダメかな?」
「それでも構いませんが――下書きの写しを手に入れたのは皆さんですし、本来なら皆さんが奏でるのがふさわしいかと」
……そんな大げさなことなのか!?
何億もする楽器を弾くとかいうのならわかるけど、写してきた楽譜の曲を弾くだけなのに――と思ったが、よく考えれば知る人ぞ知る『幻の楽譜』の曲だ。吟遊詩人にとっては、それくらい特別で、神聖なものなのかもしれない。
けど、俺は楽器がまったくダメだし、メイが弾けるのはベース。クマサンやミコトさんがピアノを習っていた可能性もなくはないが……そうだとしても、果たして現役吟遊詩人の前で演奏する勇気があるだろうか?
俺が二人へと視線を向けると、クマサンとミコトさんは申し訳なさそうに、そっと首を横に振った。ピアノ経験の有無はわからないが、少なくともここで弾けるほどのレベルでないのは確かなようだ。
となれば、やはりキャサリンに弾いてもらうしかないか――そう思った矢先。
「じゃあ、私が弾くよ」
メイが静かに名乗り出た。
「……え? メイはベーシストだろ?」
「ベーシストだって、最初からベースしか触ってないわけじゃないよ。ちゃんと音楽をやってきた人間なら、大抵ピアノは通ってる。もっとも、最近はあんまり触ってないから、腕は落ちてるだろうけどな」
……なるほど、そういうものなのか。
音楽やってる人の常識といったものは、俺にはわからないが、なんというか――メイがやけに格好良く見える。
「……じゃあ、お願いしてもいいか?」
「もちろん。……でも、ミスっても笑うなよ」
照れ隠しのように笑ったメイの横顔には、少しだけ嬉しそうな色が浮かんでいた。
キャサリンに案内されて、俺達は屋敷の奥の練習室へと通された。
部屋の隅には、年季の入った木製ピアノが置かれている。
俺が学生時代に音楽室で見た黒光りするグランドピアノと比べると、ずいぶん素朴な見た目だったが、それでも確かに、そこにはピアノがあった。
この世界の中世的な雰囲気において、パイプオルガンならまだしも、ピアノが存在することに、違和感を覚える人も、もしかしたらいるかもしれない。
なにしろ、ピアノが誕生したのは、たしか1700年頃。現実世界では近世と呼ばれる時代の産物だ。俺は歌も楽器もからっきしだが、知識だけはある。音楽の実技が苦手な分、筆記試験で点を稼ぐしかなかったからな。
だけど、そんな薄っぺらな知識をひけらかして、「この世界にピアノがあるのはおかしい」なんて言うつもりはない。ここは魔法だって存在する現実とは異なる世界だ。楽器の発展が現実と違っていたって、何も不思議じゃない。
とはいえ、ピアノが高価な楽器であることは、この世界でも同じようだ。
少なくとも、六姉妹の家には置かれていなかった。
キャサリンの家系は、今でこそ経済的に苦しくなっているらしいが、かつては音楽の名門と謳われた家柄。その誇りが、この古びたピアノを今もこの部屋に留めているのだろう。
――このピアノを売れば、多少の足しにはなっただろうに。
そう思わないでもなかったが、それ以上に、音楽家としての矜持がこの楽器を守ってきたのだと感じた。
「……作曲のときにキーボードは使っているけど、本物のピアノに触るのは、久しぶりなんだよな」
メイが、鍵盤の前にそっと腰を下ろしながら、少し照れくさそうに言う。
ライブのときのようにベースを肩に掛けているわけではないが、ピアノに向き合うその姿にも、不思議と風格があった。
――ちなみに、ピアノと同じような鍵盤楽器として、オルガンやチェンバロがある。
オルガンは、中世にはすでに存在していた。空気をパイプに通して音を出す構造上、巨大にならざるを得ず、主に教会や城のような、広く裕福な施設にしか置かれていなかった。
一方、チェンバロはピアノに似た外見を持つが、弦を弾くことで音を出す仕組みだ。そのため、どちらも音の強弱をつけることはできず、一定の大きさの音しか出すことができない。
しかし、ピアノは違う。
ハンマーで弦を叩く構造により、鍵盤を押す力の加減で、音の強さをコントロールできる。
実際、ピアノという言葉は「クラヴィチェンバロ・コル・ピアノ・エ・フォルテ」――すなわち、「強弱をもつチェンバロ」の略だと言われている。
広い音域を持ち、旋律と伴奏を一人で同時に奏でられ、そして何よりも、感情の機微を音の強さで表現できる――
それがピアノという楽器の最大の魅力であり、だからこそ「楽器の王様」とまで称されるのだと思う。
そんなピアノの鍵盤に、メイの細くしなやかな指が、静かに触れた。
そして、彼女の指先から、『名もなき小夜曲』の音色が、そっと紡がれ始める。
俺は、息を潜めて、その音色に耳を澄ませた。
 




