我なすことは我のみぞ知る
違う。全然違う。
あれではなかった。あの血ではなかった。やはり鳥の生き血などでは私の渇きは満たせない。特にあの黒い鳥。あれの血はちっとも美味しくなかった。
もう諦めるほうがよいのだろうか。私の飢餓を癒やすものは見つからないのかもしれない。
……いいや、そんなことはないはずだ。探し求めているものは近くにある。そんな気がするのだ。
私の忍耐は一体いつまで持つのだろう。いつになったら求めるものを手に入れられるというのか。
真っ赤な血。甘くてふくよかで芳醇な香りのする血。
早く欲しい。ああ、喉が渇いてたまらない。
……おや。ちょうどよさげな獲物がこちらに近づいてくるではないか。
馬鹿な男。何を喚いている? 私の姿を見て腰を抜かすほど驚いて。恐ろしいなら近づいてこなければいいのに、人間とはどうしてこうも頭が悪いのだろう。その手の刀で私を切れるとでも思っているのだろうか。
男が私に刀を突きつけ、何かを叫んでいる。私は銀の髪を振り乱し男に飛びかかった。頭を一撃でかち割り、首筋に牙を立て……。
「父上! 俺は反対です! 山狩りの前に、ひさの処刑を行うだなんて……!」
大声がして顔を上げる。
そこには若様が立っていた。
****
「ひ、ひさ……?」
丸く見開かれた若君の目は、ひさと、彼女の傍に転がる変わり果てた父親の間を行ったり来たりしていた。
「なんで……そんな……。その髪と瞳は何なんだ……?」
ひさは肩にかかった自分の髪を手に取る。真っ黒だったひさの髪は、一切の汚れを寄せつけないような銀に変わっていた。己の瞳を見ることは敵わないが、きっと赤い色をしているのだろうとひさは思う。
ひさはふらりと立ち上がった。夢見るような足取りで村長が鍵を開けた座敷牢を出る。朝方に感じていた倦怠が嘘のように消え、体が軽い。窓の外を見れば、すでに日は落ちているようだった。
「ひさ……」
若君はその場に尻もちをついた。ひさも彼の傍らにかがみ込む。手を伸ばし、若君の首にそっと手のひらを宛がった。
「お前、何者なんだ……?」
(何者? そんなの分からない……)
嫌な音がして、若君の首が折れた。ひさは彼の遺体を胸に抱く。自分より三つも年下の矜持に満ちたひねくれ者のご令息。見開かれたままの黒い目に蓋をしてやり、ひさはその首に牙を突き立てた。
夢中で血を吸い出す。魚、蛇、鳥。若君の血は、今まで飲んだ生き物の血と比べて格段に美味だった。
(けれど、これじゃない)
もう血が出なくなってしまった若君の首から唇を離す。絶望で目の前が暗くなった。
(私が探していたのは、これじゃない!)
ひさは獣じみた声で吠えた。
駆け抜けるように建物を出ると、村長宅の前にいた村人たちと鉢合わせる。ありったけの松明で辺りを明るくし、農具で武装した村人たちはひさの異様な姿を見て仰天した。
「な、何だ、こいつは!?」
「銀の髪と赤い瞳……! ぬ、ぬばたま様が出たぞ!」
「皆、かかれ!」
鍬や鋤を手に、村人たちはひさに襲いかかってくる。ひさはその攻撃を踊るような身のこなしで避けていった。
(欲しい。血が欲しい……!)
ひさは腹部への一撃で村人を昏倒させると、その首筋にかぶりつく。
(……これでもない)
背後から迫ってきた村人の腕をもぎ取り、そこから出た血を浴びるように飲む。
(……違う)
ひさは村人の腕を放り出した。
(違う、違う、違う、皆違う……!)
ひさは山犬の遠吠えを思わせる声を出し、人間離れした動きで次々と村人たちを屠っていく。
訓練された兵士でも敵わないようなその戦いぶりに、最初は果敢に応戦していた村人たちの間にも恐怖が広まっていった。ついには武器を放り出して逃亡する者も出てくる。
だが、ひさは一人も逃すつもりはない。素早く、確実に村人たちを仕留め、ついには辺りから人の気配が消えた。
(……この人たちじゃなかった。私が欲しがるものは別なところにあるんだわ)
ひさは肩で息をしながら近くの家の戸を開ける。年若い女性が壁際でうずくまっていた。外で起きたことを見ていたようで、顔が恐怖で引きつっている。
「お、お願い……。やめて……。おねが……」
ひさに首を絞められ、それ以上は続けられなかった。ひさは彼女の肌に牙を立てる。
けれど、やはりこれでもなかった。
ひさはその家をあとにして、隣家の戸を開け放った。
****
「……はずれ」
村の中央広場で、ひさは魂の抜けた顔で座り込んでいた。
「どれも違った。誰も……誰も私を癒やしてくれなかった……」
ひさの赤い目から涙がこぼれ落ちる。
ひもじくて、苦しくて、喉が渇いて仕方がなかった。胸を掻きむしりたいほどの焦燥に、ひさは激しい泣き声を上げた。
(もう嫌……! 私、このままだとおかしくなってしまうわ!)
その時だった。誰かが広場に入ってくる気配がした。
もうここには誰もいないはずと思うより早く、ひさは一瞬にして神経を研ぎ澄ませる。身を転じるやいなやその人物に飛びかかり、抵抗するいとまを与えず首筋にかじりついた。
その瞬間、ひさは馥郁たる香りに包まれた。
(……!)
ひさは瞠目した。
これだ。
自分が探していた血はこれだ。
体が震え、口内が痺れるような感覚がした。
(すごい……。なんて甘いの。舌が溶けてしまいそう……)
ひさはとろけるような快楽を味わっていた。
たまらない。こってりしつつもまろやかで、喉に絡みつくほどに濃い。一口含んだだけで永遠にその余韻に浸っていられそうだ。
この美味な血を一度で飲み干してしまうのはあまりにも惜しかった。これは何度かに分けて味わうべきだ。そうしても飢えることはあるまい。この血はたった一滴飲むだけで渇きをしずめてくれる。ひさは本能でそう理解していた。
「ひさ」
耳元で優しい声が聞こえてきて、ひさは我に返った。食欲の波が引いていく。ひさが顔を上げると、赤い瞳と目が合った。
「ぬばたま様……」
「随分と汚れているじゃないか。怪我はなかったか」
「……はい」
冷静になったひさは、血まみれの着物を見てぞっとなった。そして、自分のしてしまったことを思い出して吐き気を催す。
「私……だったんです」
ひさは口元を両手で覆いながらよろよろと後ずさった。
「私が殺した。お腹が空いていたんです。耐えられなかった。魚の血は不味くて、蛇の血はそれよりはましだけどやっぱり美味しくなかった。蛇より良かったのは鳥の血です。けれど、まだどこか口に合わなくて……」
「人の血なら多少は満足できたか」
ぬばたまは表情も変えずに言った。ひさは足を震わせる。
「でも、私が本当に欲しかったものとは違いました。きちんと分かっていたんです。人間の血をどれだけ飲んでも満たされないと。それでもどうしても飢えを癒やしたかった。だから、村の人たちを皆……」
ひさは両手のひらを絶望の面持ちで眺めた。
「ぬばたま様、私、一体どうなってしまったのですか? 私は何者なのでしょう……?」
「分からない。ただ、私の仲間になったということしか」
ぬばたまはかぶりを振った。
「この辺りの山は呪われている。日が落ちている時に山で命を落とした人間は、もう一度生を与えられるんだ。お前たちが『ぬばたま様』と噂する存在としての生をな」
「蘇り……というより生まれ変わりですか?」
「そうかもしれない。私が崖下でひさを見つけた時、お前はまだ息があった。だが、救えなかったんだ。ほかの怪我は全て治せても、お前の心臓だけは私の神通力でも動かせなかった。……山が贄を欲していたのかもしれないな」
ひさは呆然となっていた。
今まで自分は転落事故から運良く生還したと思っていた。だが、それはとんだ勘違いだったのだ。ひさは一度死に、今度は呪われた存在として再びこの世で生きることを強要されたのである。
「どうして何も言ってくれなかったのですか」
ひさは虚ろな声を出した。無人となってしまった村を見つめる。
「お前はこれから段々と化け物に変身していくんだと忠告してくれれば、こんなことをせずにすんだかもしれないのに……」
「自分で気づくことが大切なんだ、ひさ」
ぬばたまは影のある顔になっていた。
「畑に種をまいたとする。その成長を促進してやろうと肥料をやりすぎたらどうなる? 作物はろくに育たず枯れてしまうだろう。それと同じだ。下手に手出しをすれば、さらにおぞましい化け物が誕生してしまう」
ぬばたまの声は暗い。ひさは、彼は自分の体験を語っているのかもしれないと思った。
(ぬばたま様が呪いでこうなったのなら、彼だって昔は人間だったはず。きっとこの人も私と同じ道を辿ったんだわ……)
心優しいぬばたまが生き物を無慈悲に殺しているところなど想像もできないが、ひさだって昨日までは自分が大量殺人を犯すとは思っていなかったのだ。飢えとは恐ろしいものだ。人をこんなに簡単に変えてしまうのだから。
(それに、ぬばたま様は多分、「さらにおぞましい化け物」を作り出したこともあった)
彼がいつから生きているのかは分からないが、長い歴史の中ではひさのように夜の山で命を落とした者もいただろう。
その際、ぬばたまは親切心から同胞にいくつかの助言を与えたのかもしれない。その結果、恐ろしいことが起きるとも知らずに。
生まれた化け物を、ぬばたまはどうしたのか。そんなことは考えたくもなかった。
「ひさ、もう分かっていると思うが、お前の変身は完了した。二度と元には戻れない。お前は血を欲する体になったんだ。それも、普通の血では満足できない体に。襲ってくる激しい飢餓感をどうにかできるのは、同胞の生き血だけだ」
「……だから私はぬばたま様の血で正気に戻ったのですね」
二人が出会った時、ぬばたまはひさの血を吸っていた。あの時の自分はすでに人ならざる身だった。ぬばたまはあの吸血で、耐えがたいほどの空腹を満たしていたのだろう。
「……ひさ。こんなことを言ったらお前は私を最低だと思うだろうが、お前が同胞となった時、私は嬉しかったんだ」
ぬばたまは苦しそうに告白する。
「もう長い間一人きりだったからな。飢えに耐えかねて何度自分の体にかじりついたことか。自分の血では自らを癒やせないというのに」
ぬばたまは、あのどうしようもない空腹に長期間さらされていたというのか。それなのに彼は山を下りて生き物をむさぼり食らおうとはしなかった。ふもとには温かい血を体いっぱいに溜めた人間の村があったというのに、決して手は出さなかったのだ。
ひさは再び自己嫌悪で気分が悪くなる。自分はなんと恐ろしいことをしでかしたのだろう。飢えを癒やせないと分かっていたのに、衝動的に数え切れないほどの人間を犠牲にしてしまった。
「……私の血、飲んでください」
ひさはその場に座り、帯を緩めて足を露出させた。
「お腹、空いてますよね?」
「我慢できないほどではないがな」
そう言いつつも、ぬばたまはひさの傍に膝をついて、右足のふくらはぎに唇を寄せた。肌にぴりりとした刺激が走る。ひさは背を弓なりにそらした。
吸血は痛みを伴う。けれど、それは心地の良い痛みだった。血と共に心の中に溜まり始めていた後ろめたい気持ちが吸い出されていく。あとに残ったのは、ぬばたまが自分を必要としているという事実に対する満足感だけだった。
「私の同胞はあなただけ」
ひさは歌うように言って、ぬばたまの銀の髪を撫でる。
「あなたを飢えから救えるのは私だけなのですね」
「……いや、飢えだけではない」
吸血を終えたぬばたまが顔を上げた。覆い被さるようにひさを抱きしめる。
「お前と過ごす内に気づいた。私の問題は渇きだけではないと。私は孤独だったんだ。私のような存在は、この世界のどこを見渡しても自分だけ。そんな私が欲したのは、温かな血と愛情だったんだ」
「それなら、今は両方を手に入れられましたね」
ひさは穏やかに笑った。無人の村に視線をやる。
犯した罪には胸が痛んだが、これは成長痛なのかもしれない。自分が人間から怪物に変わるためには必要な痛みだったのだ。
(こんなふうに考えてしまうなんて、私の頭の中もいよいよ化け物じみてきたのね)
けれど、そのほうがいいのだろう。化け物の体に人間の心など入れておいても仕方がないではないか。
「ぬばたま様、私、外の世界が見たいです」
ひさは強請るように言って、ぬばたまの首筋に腕を絡めた。
「連れていってくれますよね?」
もはやひさは人ではない。人間らしさを手放そうと決めた彼女は、すでにひとところに固執する意味すら思い出せなくなっていた。
「ああ、もちろんだ」
二人の体がふわりと浮き上がる。
「これからはずっと一緒だ、ひさ」
惨劇が起きた村が小さくなっていく。
二人の化け物は月に向かって夜空を駆けていき、やがて見えなくなった。
それから間もなくのことだ。遠くの町である噂が流れ始めたのは。
汝、夜遊の人となるなかれ。闇夜は二羽の怪異の住むところ。怪異の虜となるなかれ――。