三千世界のからすを殺し
ああ、血が欲しい。
今日も私は闇夜を徘徊していた。飢えは私の心を虚しくさせる。焦りは募り、苛立ちは増すばかり。やはりあんな生臭い血では満たされなかったのだ。
早く飲みたい。新鮮で洗練された味わいの血を。
ふと、あの人のことを思い出す。傷ついた背中、小さな足、指に絡まる銀の髪。月の光のもとで起きたことが、私の頭の中に鮮明に蘇ってくる。
今の私を見たら、あの人は何と思うだろうか?
きっと私のことを……。
……だめだ。空腹のあまりこれ以上は何も考えられそうにない。今の私が欲しているのは血だけ。あの赤い液体だけなのだ。
****
それからもひさは、ぬばたまのもとに通い続けた。
星月夜を二人きりで漂いながら、たわいもない話に興じる。今日は、ぬばたまが外つ国を訪ねた時のことを語っていた。
「その国の者たちは皆背が高く、聞いたこともない言葉で話すんだ」
高い木の枝に腰かけたぬばたまの膝の上で、ひさは彼の話に聞き入っていた。
「髪が黄色の者もいた。ほかにも茶色や亜麻色など様々だったぞ」
「まあ……。そんな世界もあるのですね」
ひさはぬばたまの話す遠い街の光景を想像しようとする。だが、どうにも難しかった。
「ぬばたま様はいつもこの山にいらっしゃるわけではないのですか?」
「当然だ。私は行きたいところへ行く。ここに戻ってきたいと思えばそうするし、旅がしたければ出ていくだけだ」
「自由な方。妖怪というのは奔放なのですね」
「ほかの奴らのことなど知らぬ。それ以前に、私は自分が何者かもよく分かっていないのだから」
ぬばたまがひさの手を取り、甲に口づけた。遠い国ではこういった挨拶があるらしい。
「ひさこそ、どうなんだ。お前はまだあの村に住んでいるのだろう」
ぬばたまの言うとおりだった。
足は治り、ひさは新天地探しへの旅にも耐えられる体を手に入れた。けれど、彼女はまだ村長の家で働いていたのだ。
近頃のひさは、以前とは比べ物にならないほどに周囲から白い目で見られていた。一生元に戻らないはずだった足がいきなり治り、その奇跡のような出来事が皆には薄気味悪く感じられたらしい。
特に若君は、今では毎日のようにひさを鞭打つようになっていた。けれど、翌日になればその傷跡は綺麗さっぱり消えてしまうのである。すると若君は逆上し、ますます激しくひさを折檻するのだった。
――その若者はお前を愛しているのだろうな。
ある時、ひさの傷を治療しながらぬばたまがそう言ったことがあった。
――だが、彼はその恋心を認めたくないんだ。誰もが忌み嫌うお前を好いていると知られたくない。だから、ひさに辛く当たるのだろう。
若君の捻れた心を知り、ひさは気の毒に思った。それ以来、ひさの中で若君は恐怖の象徴から哀れみを向ける対象へと変化した。といっても、その同情から愛が生まれることはなかったのだが。
「あの村は大して居心地がいいとも思えないが、なぜ出て行かないんだ?」
「……私が人間だからでしょうね」
ひさは目を伏せた。
「長年住んでいる場所から動くのはなかなか大変なのですよ」
「そんなことあるものか。植物でもないだろうに」
ぬばたまはやれやれとでも言いたげだ。
「今日のお前は特別に疲れた顔をしているように見える。何かあったのか?」
図星を指され、ひさはしばし沈黙する。今朝方起きたことを思い出していた。
――きゃああ!
今朝のひさは、同僚のけたたましい悲鳴で起こされた。何事かと駆けつけると、裏口に大きな蛇がいるではないか。
――そんなに騒ぐなよ。こいつ、もう死んでるぜ。
野次馬の下男が言った。蛇の頭はすっぱりと胴から切断されていたのだ。
――あたしがやったのよ!
先ほど悲鳴を上げた女中が言った。その手には出刃包丁が握られている。
――あたしが見つけた時からもう死んでるみたいに見えたわ。でも、そうじゃなかったら困るじゃない! だから頭を落としたのよ! ひさ! そいつを見えないところへ片づけちゃってよ!
命令され、ひさは蛇を抱える。気持ちの良い仕事ではないが、断れば誰かが若君に告げ口するだろう。これ以上、折檻の口実を増やしたくはなかった。
だが、蛇を埋葬しようとしたひさはおかしなことに気づいた。
「その蛇、一滴も血を流していなかったのですよ」
ひさは不可解な表情で言った。
「普通、頭を切られたら出血するはずでしょう? けれど、蛇の体にも地面にも血がついていなかったのです」
ひさは体をひねり、ぬばたまの赤い瞳を見つめた。彼はふっと笑う。
「誰かが蛇の血を抜いたと思っているわけか?」
「い、いえ。ぬばたま様を疑っているわけでは」
ひさはぎくしゃくと首を振った。
「ぬばたま様は生き物の血を吸い尽くしてしまうような残忍な方ではありませんもの。けれど、その……血というと、どうしてもあなたを連想してしまって」
「蛇の血は好かぬ。あれはひどい味がする」
「……ですよね」
ひさは緊張を解いた。万が一と思って聞いたが、やはり犯人は彼ではなかったようだ。
ひさは体を反転させ、ぬばたまを正面から見つめる形で彼の膝の上に腰掛けた。おかしなことを聞いた許しを請うように、ぬばたまの胸に体を預ける。
「ひさ、外の世界にはここでは見られない色々なものがあるぞ」
ぬばたまが優しくひさを抱きしめる。村で起きたことなど何も聞かなかったかのように、彼は話題を元に戻した。
「私と一緒にこの土地を出よう。あの村はお前のいるところではない」
ひさは何も答えない。
ひさは生まれてこの方、村の敷地の外に出たことがなかった。ここで生まれ、ここで死ぬ。そういうものだと思い込んでいたのだ。
今まで不自由な足にかこつけてはいたが、本当のところ、邪魔をしていたのは固定観念だった。知らない場所でなど生きられない。だから、息苦しくとも自分の居場所はあの村にしかない。ひさは無意識の内にそう決めつけていたのである。
(でも、ぬばたま様が一緒なら……)
ひさは甘い夢を見そうになったが、すぐに現実に引き戻される。彼は妖怪で自分は人間だ。こうして夜に会うだけならまだしも、異種族である彼と共に生きていくことなどできるのだろうか。
どこか遠くでからすが鳴く声がした。ぬばたまは「もう帰る時間になってしまったな」と言って、ひさを抱いて村に向かって飛んでいく。
(朝も昼も、この方といられればいいのに)
日の出ている間は、ぬばたまは活動できない。煙を吹き消すように体が消滅して、見えなくなってしまうのだ。
いつものように村の入り口まで送ってもらったが、今日のひさはどうにもぬばたまと別れがたく感じていた。名残惜しげに彼の白い羽織を掴む。
そんなひさを咎めるようにまたからすが鳴き、ぬばたまは彼女の手をそっと引き剥がした。ひさの胸は絞られるように痛む。
「日など昇らなければいいのに」
ひさは呟いた。
「朝を告げるあの黒い鳥が憎くて仕方ありません。この世界の全てのからすを消す方法はないのでしょうか?」
「早く行かないと村人たちが起きてくるぞ」
ぬばたまはひさの問いかけには答えず、ふわりと宙に浮かんだ。そして、吸い込まれるように空の彼方へ飛んでいき、見えなくなってしまう。
(ぬばたま様……)
ひさは後ろ髪を引かれる思いで、村の中へと入っていった。
****
最悪だ。なんと不味かったのだろう。
ひどい味。そう、ひどい味だ。あれはそれ以外に表現しようがなかった。もう金輪際、蛇の血など口にするまい。
けれど、私はまだ飢えている。喉の渇きは今や限界にまで達していた。
血が欲しい。もっと温かな血が。またどこかでからすが鳴いている。あの鳥の首筋に牙を突き立て、その生き血を啜ったらどんな感覚がするのだろう。
もう耐えられない。早くこの飢えを満たすものが欲しい。
****
村長宅に帰ったひさは、短い睡眠の後に女中部屋から出た。ふわふわした足取りで廊下を進む。最近はどうも調子が出ない。夜にぬばたまと会っているため、睡眠不足になっているのだろう。
日の光でも浴びてすっきりしようと、ひさは外に出た。すると、庭の隅に人だかりができているのが目に留まる。
「これはただ事ではないぞ!」
近づいてみれば、皆の中心にいたのは村長だった。鶏小屋を背に仁王立ちをする彼の足元を見て、ひさは息を呑む。
「魚、蛇、と来て、次は鶏とからすだ! もう偶然では済まされん! これは我が家への宣戦布告だ!」
村長の傍には息絶えたからす。そして、小屋の中の鶏も全滅していた。
「しかも、今回の嫌がらせは今までよりも悪質だ! この鳥たちは、全身の血をすっかり抜かれているのだから!」
(血を……?)
ひさは口元に手を当てる。
(違うわ……。今回が初めてじゃない……)
昨日埋葬した蛇も血を抜き取られて死んでいたのだ。もっとも、この家の関係者でそのことを知っているのはひさだけだろうが。
(どうして? どうしてこんなことが起きたの? だってあの人は……)
「まさか、ぬばたま様が出たんじゃないだろうな!?」
頭の中を誰かに覗かれたのかと思い、ひさは息が止まりそうになった。
「ぬばたま様は血を吸った相手を殺しちまう化け物だろう!? きっと山から降りてきたんだ!」
「そういえば俺、夜中に厠へ行った時に見たぜ。庭に銀の髪をした奴がいるのを! その時は寝ぼけてたのかと思ってあんまり気にしてなかったが……」
「銀の髪だって!? それじゃあ、本当にぬばたま様が出たっていうのか!?」
皆の間に不安が広がっていく。ひさはどうしようかと困り果てた。
(これはぬばたま様の仕業なの? 今夜、確かめないと……)
もう日が昇ってしまっているのをもどかしく思いながら、ひさは人混みをあとにしようとした。
だが、誰かにむんずと腕を掴まれる。そのまま、問答無用で人だかりの中心まで引きずられていった。
「おい、ひさ。どこへ逃げようってんだ?」
若君だった。ひさは「逃げようだなんて……」と首を振る。
「とぼけるな。俺の目は誤魔化せんぞ」
若君は口元に薄笑いを貼りつける。村長は戸惑いを隠そうともせずに、「何の話をしているんだ」と息子に問いかけた。
「父上、これはひさの仕業なんですよ」
若君はそう言ったが、皆は呆れたような表情になる。
近頃の若君はこれまで以上にひさを虐待しているというのは有名な話だった。今回も彼がひさに濡れ衣を着せようとしていると皆は思ったようである。
息子に甘い村長でさえ、期待の籠もってない声で「証拠でもあるのか?」と聞いたほどだった。
「もちろんありますとも」
若君は自信たっぷりに答えた。ひさを蔑みの眼差しで見る。
「俺が何も知らないとでも思っているのか? お前、夜はどこへ出かけている?」
ひさは冷水を浴びせられたような心地がした。まさか、誰かに見られていただなんて思いもしなかった。
「……どういうことだ、ひさ」
先ほどとは打って変わって、村長は真剣な顔になった。息子の言い分を真面目に聞く気になったらしい。
お前の犯行かと問われていると気づいたひさは、血の気が引く思いで「私ではありません」と訴えた。
「犯人はほかにいます。私は何も知りません。本当です」
「それなら、なぜ夜に家を抜け出すんだ」
若君はひさを追い詰めるのが楽しくて仕方ないらしい。棘のある声でひさに詰め寄る。
「潔白を証明したいのなら正直に言え。隠すとためにならんぞ」
「私は……」
ひさは途方に暮れた。けれど、自分は何も悪いことなどしていないのだと気を強く持ち、本当のことを話すことにする。
「山へ行っていました。……ぬばたま様と会うために」
ひさが告白するやいなや、皆の間に動揺が走る。
「ぬばたま様と会っていただって!?」
「一体何のためにそんなことを……」
「まさか動物たちを殺させるために、ひさが奴を村に引き入れたのか!?」
「そんな……! 違います!」
思ってもみなかった誤解を受け、ひさは大慌てで否定した。
「そんなことはしていません。それに、ぬばたま様は優しい方なんです。生き物をこんなふうに残酷に殺すなんてこと、絶対にしません」
だが、誰もひさの言葉には耳を貸そうとしない。今まで夜の山にさえ近づかなければ危害を加えられないと思っていたのに、村の中も安全ではないと分かってしまったのだ。その事実に、皆は恐怖を覚えたようである。
若君が「山狩りだ!」と拳を空に向かって突き上げた。
「奴が次に襲うのは、きっとこの村の住民の誰かだ! そうなる前に、ぬばたまを俺たちの手で倒すんだ!」
「おおー!」
予想外の展開に唖然となっていると、若君がひさの腕を強く引いた。
「ひさ、お前にはしばらく座敷牢に入っていてもらうぞ」
「や、やめてください! 放して!」
抵抗も虚しく、建物内に引っ張り込まれたひさは牢獄に閉じ込められる。錠が下ろされる音がして、ひさは膝から崩れ落ちそうになった。
「はっ、いい眺めだな。もっと早くこうすれば良かった」
若君は鉄格子の向こうからひさをあざ笑う。ひさは「お願いです……」と弱々しい声で懇願した。
「ぬばたま様を傷つけないでください。あの人は何もしていません。事情が知りたいのなら、私が聞き出してきますから……」
「お前、随分とあの妖怪にご執心のようだな」
若君は怪訝そうな表情になるが、すぐに、ひさとぬばたまがただならぬ関係にあると悟ったらしい。黒い目に激しい怒りが浮かんだ。
「化け物に心を奪われるとは、お前は俺の想像以上に愚かだったようだな」
若君は血が出そうなほどに強く唇を噛んだ。
「俺がぬばたまの首を取って帰ってきたら、一晩中お前を鞭打ってやる。その狂った頭を治すにはそれしかあるまい。……ひさ、もうお前は一生ここから出られないと思え」
「わ、若様……」
「何だ、その顔は。安心しろ。今日からお前の面倒は俺が見てやる。首に縄をくくりつけ、俺の家畜にするんだ。……ふっ、あははははは!」
狂気を含んだ高笑いと共に若君は去っていった。ひさは両手で顔を覆う。
(ぬばたま様……)
ぬばたまと会っていたと話してしまったことを、ひさは心の底から後悔していた。こんなことなら自分が罪を被れば良かったのだ。動物を殺したのは自分であり、ぬばたまは無関係だと皆に信じ込ませるべきだった。
だが、もう何もかも手遅れだ。今さらひさの話なんて誰も聞かないだろう。それに、こんなところにいたのでは、ぬばたまに危機を知らせにいくこともできない。ひさは大人しくこの牢獄でぬばたまの死の知らせを待つしかないのだ。
(……でも、ぬばたま様は妖怪なのよ。ただの人間になんて負けるはずないわ)
そう思って心を奮い立たせようとしたが、一向に明るい気持ちにならない。ぬばたまは不思議な力を持っている。だが、彼の戦闘面での能力のほどはひさも知らなかったのだ。
(無事でいて、ぬばたま様……)
牢の外の廊下の窓からは、晴れた朝の空が覗いている。ひさは力なくその場に横たわり、ただ時が過ぎるままに任せていた。