歩く姿は百合の花
今宵はなんと数奇な体験をしたのだろう。
あの髪を、瞳を、肌を思い出す。もう一度触れてみたいと願う。けれど、私が手を伸ばした瞬間にそれはかき消えてしまうのだ。
夢から覚め、私は闇の中を当てもなく歩いた。ひどく喉が渇いていた。そう、私は飢えていたのだ。
欲しい、欲しい、欲しい。あの赤く輝く液体が欲しい。生き物の体を流れる甘美な生命の息吹をこの唇で感じたい。
欲しい、欲しい、欲しい。血が、血が欲しい。他のものでは、決してこの飢えは満たせないのだから――。
****
(……何だかだるいわ)
翌朝。
ひさはいつもの時間に目を覚ましたが、布団から這い出るのにひどく難儀していた。
(きっと、昨日山登りなんてしたせいね。普段はあんなに体を動かさないもの)
ほかの下働きの女たちがさっさと仕事に向かう一方で、ひさは普段の倍以上かけて身支度を調え、やっと起居している女中部屋から出た。すると、台所のほうから騒がしい声が聞こえてくる。
気になって様子を見に行ったひさは驚いた。土間の上に死んだ魚が何匹も転がっていたのだ。
(誰かのいたずらかしら?)
漂ってくる生臭い匂いにひさは眉をひそめる。腹を割かれ、臓物が飛び出た魚を見ている内に気分が悪くなってきて、急いで目をそらした。
「くそ! きっと野良犬の仕業だ!」
料理人は地団駄を踏んでいた。
「せっかく昨日の夕べに仕入れて、いけすに放しておいたってのに! これじゃあ朝飯が作れないじゃないか!」
「何を騒いでいるんだ」
不意に声がして、ひさは飛び上がりそうになった。寝間着姿の若君がひさのすぐ後ろに立ち、台所の様子を覗き込んでいる。
「こ、これは若様……」
料理人が顔を引きつらせた。
「すぐに飯を持ってこい。俺は腹が減っているんだ」
若君は不機嫌そうな顔をする。
昨夜ひさが持ち帰った水で作った薬は、信じられないほどによく効いた。若君の熱はあっという間に下がり、一時は命まで危ぶまれたとは思えぬほどに元気になったのである。
「そ、それが、どうも支度に時間がかかりそうでして……。野良犬めが、朝餉用の魚を食ってしまったのです」
「野良犬?」
若君は死んだ魚を見てますます不愉快そうな顔になる。料理人は冷や汗をかきながら「申し訳ございません」と言った。
「握り飯でもご用意いたしましょう。すぐにひさに持って行かせますので、どうぞお部屋にお戻りください」
「は、はい」
いきなり自分の名前が出され、ひさは上ずった声で返事をした。若君がこちらに視線をやる。そのどこまでも冷たい瞳に、ひさは落ち着かない気持ちになった。
彼の病が治ったのはひさのお陰だが、若君はちっとも彼女に感謝していなかった。いつも通り、向けてくるのは侮蔑の眼差しだけだ。
(……別にお礼を言ってほしいなんて思ってはいないけれど)
それでもひさはやりきれない気持ちになる。昨夜のことで、ひさは若君だけではなく村長からも温かい言葉をもらえなかった。それどころか、帰りが遅いと叱られる始末である。
(それでも、追い出されなかっただけましね)
ひさは「失礼します」と言って台所から出て行こうとした。
すると若君が「待て」とひさを呼び止める。
「この魚はお前の仕業だな」
「……はい?」
何を言われたのか分からない。若君は意地の悪い笑みを浮かべた。
「お前、昨日はこの土間に隣接する裏口から家に入ったんじゃないのか? その時に戸を閉め忘れ、野良犬が入ってきたんだ」
「まさか。確かに私はここを使いましたが、戸はきちんと閉めましたよ」
「嘘を吐くな!」
若君に恫喝され、ひさは竦み上がった。肩を強く押されて尻もちをつく。
「俺の朝飯をどうしてくれるんだ! 水汲みに行ったくらいで調子に乗って! お前があんなことをしなくとも、病気なんかすぐに治ったに決まっている!」
「若様、私は……」
「口答えするな!」
何も喋っていない内から若君は怒声を飛ばす。だが、ひさは彼が本気で怒っているわけではないと分かっていた。若君には、時折ひさに難癖をつけて楽しむという悪癖があったのである。
「……申し訳ありませんでした」
ひさは仕方なしに額を床にこすりつけて土下座した。こうなった時の若君は、ひさが反論すればするほど暴走するのだ。そのため、こちらに非がなくともさっさと謝ってしまうのが得策なのである。
しかし、今日の若君はいつもとは違った。
「大して役にも立たんくせに俺に迷惑をかけて。……おい、誰か鞭を持ってこい」
まさかの言葉にひさはぎょっとなる。暴言は今まで何度も吐かれたことがあったが、体罰を受けるのはこれが初めてだったのだ。
若君はひさの蒼白な顔を見てにやりと笑った。
「ここらで一つ、灸を据えてやらんとな」
周りの人たちは誰もひさを庇おうとしない。いつものことだ。皆巻き込まれるのを恐れているし、それ以上にひさのためにそこまでする価値などないと考えている。
ひさは逃げ出したい衝動に駆られた。この右足さえ動けば、と自分の体を呪わずにはいられない。
(……けれど、逃げるといったってどこへ?)
天涯孤独なひさに頼れる者はいない。ひさには行く当てなどなかったのだ。
鞭を携えた下男がやってくる。ひさは歯を食いしばり、これから起きる苦行に耐える準備をした。
****
その日の夜。ひさは密かに村長宅を抜け出した。片手に提灯、もう片方の手には杖を持って、向かった先は昨日の山だった。
しばらく坂道を行ったところでひさは立ち止まる。そして、闇に向かっておそるおそる声をかけた。
「ぬばたま様……いらっしゃいますか?」
返事はない。ひさは束の間落胆した。
だが、すぐに声が返ってくる。
「来たか、ひさ」
いつの間にか、近くの大木の枝の上にぬばたまの姿があった。ひさは顔を輝かせる。
「あの、私、羽織を借りたままだと思い出して……」
「誤魔化さなくていい。私に会いたかったのだろう」
ぬばたまはひさの傍らにふわりと降り立った。
「私もお前に会いたかった」
ぬばたまがひさの頬に手を添えた。それだけでひさは恍惚とした気分になってしまう。
ぬばたまはひさから受け取った羽織を身につけた。彼の服装は羽織だけではなく、帯も着物も真っ白だ。髪の色も銀色で、暗い夜でも目立つ出で立ちである。
「お前、血の匂いがするな」
ぬばたまが表情も変えずに指摘する。ひさはぎくりとした。
「怪我でもしたか?」
「……大したことではありません」
ひさは着物の上から自分の腕を撫でた。
「少し……猫に引っかかれてしまって」
言い終わるやいなや、ひさはぬばたまに手を取られた。着物の袖をまくり上げられる。そこについた細長い傷を見て、ぬばたまは赤い目を細めた。
「お前の村には随分と大きな害獣がはびこっているようだな。またひさが怪我をしないように、駆除したほうがいいのではないか?」
「ええと……」
あっという間に嘘を見破られ、ひさは動揺した。
「こんなの、大した傷ではありません。すぐに良くなります」
「ああ、そうだろうな」
ぬばたまが腕の傷跡に口を押し当てた。彼が唇を離した時には、怪我はすっかり治っている。
「まあすごい! あなたにはこんな不思議な力があるのですね」
崖下で自分を救助した時もこの力を使ったのだろう。やはり、ぬばたまはどんなに人間のように見えても、ひさとは違う世界の住民なのだ。
「ほかの傷も見せてみろ」
ひさは少しだけ迷ったが、ぬばたまに背中を向けて着物をはだけた。鞭で打たれてついた幾筋もの跡が露わになる。
ぬばたまの唇が背中や肩に触れる感覚がする。これはただの治療なのだと分かっていても、ひさはぞくりとした快感を覚えずにはいられない。
「お前は温かい肌をしているな」
ぬばたまがひさを後ろから抱きしめ、首筋に顔を埋めた。唐突な抱擁だったが、ひさは驚きよりも喜びで胸を震わせる。
「また空を見せてやろうか」
「はい」
ひさが頷くと、ぬばたまは彼女を横抱きにして宙に浮き上がった。
そのまま二人は木々よりも高く飛び上がり、昨夜のように空に近い場所に落ち着く。
「お前はいつもこんな目に遭っているのか?」
鞭打ちのことを言っているのだろう。真摯な目で見据えられ、ひさは気恥ずかしさを覚えながら「ここまでのことは初めてです」と返した。
「私はほかの人たちとは違います。この足のせいで皆のようには働けないのです。幼い子供でさえこなせる仕事も私にはできません。だから迫害されても仕方がないのですよ」
ひさは不自由な右足に視線をやった。
「といっても、幼い頃からこうだったわけではないのですが。昔、両親と薪拾いに行って事故に遭ったのです。足は怪我しましたが、私だけは運良く助かりました。その後、みなしごとなった私は村長宅に身を寄せ、彼の元で働き始めたのです」
「自由に走り回っていた頃が懐かしくないか?」
「少しだけ。けれど、そんなことを考えてもどうにもなりませんよね。この足は一生このままだと医師には言われていますから」
「私が治してやろうか」
「え?」
ひさは目を見開いた。
「できるのですか、そんなことが」
「当然だ」
ぬばたまは、いともあっさりと頷いてみせる。ひさは戸惑った。
「でも、私……」
「何を躊躇っている。両足が自由になれば、村から出ていくことも容易になるだろう」
ぬばたまが地上に降り立つ。ひさを柔らかな草地に座らせると、彼女の帯を緩めて右足を手に取った。
「お前は綺麗な足をしているな」
「そんなことありませんよ。上手く歩けないせいで、左右で太さが全然違うでしょう? こんなことになっている若者は村では私しかいませんよ」
「そうだな。これはひさの足だ。ほかの者たちとは違う。だから美しいんだ」
ぬばたまが、ひさのふくらはぎに口づけた。昨日血を吸っていた場所だ。
(私の足が美しい……)
そんなことを言ったのはぬばたまが初めてだ。もしかして、昨日の彼がここから血を吸っていたのは、そのためだったのだろうか。妖怪の感性は良く分からないが、ひさの足が美しいと感じたからこそ触れてみたくなったのかもしれない。
ひさはぬばたまの長い銀髪を一房、指に巻きつけた。
(ほかの人たちと違うから美しい。……そうね。今の私なら、その考えも何となく分かるわ)
ぬばたまほど綺麗な者をひさは知らなかった。彼は異形。だからこれほどまでに麗しいのだろう。
唇を離したぬばたまは、ひさのふくらはぎに頬を寄せた。そして「歩いてみろ。もう足は治った」と言う。
「ですが、ぬばたま様が離れてくれなければ立つこともできませんよ」
「それもそうだな」
と言いつつも、ぬばたまはひさから離れようとしない。ひさは思わず笑ってしまった。
それからしばらくして、ひさは、ぬばたまに抱きかかえられて村の入り口まで送ってもらった。
「おやすみなさい、ぬばたま様。また明日も来ます」
「ああ、待っている」
ひさは提灯だけを手に村へと帰った。背筋を伸ばし、二本の足でしっかりと大地を踏みしめながら堂々と歩く。それは実に十年ぶりの体験だった。