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鳴かぬ蛍が身を焦がす

 さらさらと水が流れている。


 意識の奥底でその音を聞きながら、ひさはゆっくりと目を開けた。


(私……死んでしまったのかしら)


 夜空には細い月が浮かんでいる。あの世にも月が出るのかと、ひさは取り留めもないことを考えた。


 体が異様に重く、動く気になれない。だが、右足から痛いようなくすぐったいような不思議な感覚がして、気になったひさは気力を振り絞り上体を起こした。


「……え?」


 ひさの喉の奥から掠れた声が漏れだした。


 ひさの不自由な足のふくらはぎの内側に、見知らぬ青年が口づけている。彼の髪は地面に着くほど長く、月光に照り映える銀色をしていた。


「ぬばたま……様……」


 ひさは頭が真っ白になった。青年がひさの足から口を離す。彼の形の良い唇は血で濡れていた。


「起きたか」


 ぬばたまは口元の血を親指で拭った。真っ赤な瞳で射抜くように見据えられ、ひさは息が苦しくなる。


(なんて綺麗な方なの……)


 青年の目鼻立ちは繊細で、肌は村にいるどんな女よりも白く滑らかだ。性別を超越した静かで美しい面差し。異形の証である銀の髪と赤い目により、彼の神秘的な雰囲気はますます高まっていた。


 だが、ひさは青年の類い希な美貌に全く心を動かされなかった。怖いほどに整った容姿。それもまた人外の証拠だからである。


「い、嫌……」


 ひさは声を震わせた。


「殺さないで……」


 力なく懇願する。


 ここはあの世などではない。何か奇跡が起きて、自分は運良く助かったのだ。


 だが、その幸運も、もうおしまいなのだろう。妖怪が人間の頼みなど聞くわけがない。打ちのめされたひさは、涙すら流せなかった。


 しかし、ぬばたまは意外なことを言う。


「殺すつもりなら初めから救おうとなどしない」


「救う……?」


「……お前は手の施しようがないほどの傷を負っていた。私以外に誰がそれを治せる?」


 ひさは自分の体を見た。痛みは感じないし、どこも不自然な方向に曲がっていない。傷跡も見当たらず、手を閉じたり開いたりといった仕草も問題なく行えた。まるで転落事故などなかったかのようである。


 怪我の程度を確認していたひさは、今さらのように自分がとんでもない格好をしていると気づいた。


 いつもの粗末な着物は脱がされ、素肌に男物の白い羽織だけを身につけている。ひさは急いで胸元を掻き合わせ、足も羽織の丈が許す限り隠した。


(どういうことなの……?) 


 ひさは混乱していた。


(私の体は治療されている。服も手当てのために脱がされたんだわ。私はぬばたま様に助けられた。でも、どうして人の命を奪うはずの恐ろしい妖怪が、こんなことをしてくれたの……?)


 ひさは困惑しながらぬばたまを見つめた。彼は「どうした」と尋ねてくる。


「体はくまなく調べたはずだが、まだどこか痛むのか? 治してやるから見せてみろ」


「いえ、そのようなことは……」


 親切な青年だ。ひさはいよいよ訳が分からなくなる。ふと、突拍子もない考えが頭に浮かんできた。


「あなたは、ぬばたま様ではないのですか? もしかして人間……?」


 銀髪と赤目の人間の話など聞いたこともなかったが、人を救う妖怪よりかはその存在を信じられそうだった。けれど、青年は「どうだろうな」と曖昧な答えを返す。


「私に名はない。私は自分が何者か知らない。だから人には好きなように呼ばせている。ぬばたま、妖怪、物の怪、人間。お前も好みの名を私に与えればいい」


「はあ……」


 おかしな方、とひさは思った。人間なら相当な変わり者だ。妖怪とは皆こうなのだろうか。


(……もうこの人が人間かそうじゃないかなんてどうでも良くなってきたわ)


 ひさの一番の心配事は青年が自分を殺そうとするのではないかということだったが、今のところ彼は悪意の鱗片すら見せていない。それどころか、見ず知らずのひさを介抱してくれたのだ。


 ひさはふくらはぎに視線をやる。青年が吸血した箇所は少しだけ赤くなっていたが、それもじきに引くだろう。死の淵から救ってくれたことを考えれば、多少血を吸われたくらいで騒ぐのは躊躇われた。


 彼は人間ではないかもしれないが、悪い妖怪ではない。ひさは自然とそういう結論に達した。


「……ありがとうございました」


 ひさはその場で居住まいを正し、三つ指をついて頭を下げた。


「お陰で命拾いいたしました。私はひさと申します。このご恩はいつか必ずお返しいたします」


「いきなりどうした。おかしな奴だな」


 ぬばたまの手がひさの顎を掬う。上を向かされたひさは、近くから赤い目で顔を覗き込まれた。


「恩返しなど不要だ。礼ならもうもらった」

「そう……なのですか?」


 もしかして、先ほどの吸血がそうだったのだろうか。ひさからすれば、救命の対価としてまったく釣り合っていない気もするが。


「お前はふもとの村の者か?」


 ぬばたまがひさの傍らに腰かける。


「こんな時間に山に何をしに来た。あの村の住民たちは、夜はここへは来ないと思っていたが」


「ああ、そうでした!」


 奇妙な出会いに翻弄されるあまり、ひさは肝心なことを忘れていた。


「私、帰らなければ。村長のご子息が病気なのです。薬を作るために水がいるというので、山に汲みに来たのですが……」


 ひさは辺りを見回して途方に暮れた。


 ここはひさが落下した崖の真下を流れる川の岸辺だった。月明かりで確認できる限り、近くには湧き水を入れたひょうたんはない。それどころか杖も提灯も見当たらなかった。


 加えて、ひさは崖の高さに目眩を覚える。こんなところ、五体満足の者でも登れないだろう。足の悪いひさは言わずもがなだ。


「どうしましょう……」


 ひさは狼狽えたが、ぬばたまは「心配ない」と言う。そして、ひさの体を軽々と横抱きにした。


「ぬ、ぬばたま様!?」

「村まで送ってやろう」


 ぬばたまの体がふわりと浮き上がり、ひさは思わず彼の首にしがみついた。


「ぬばたま様は……空を飛べるのですか?」

「まあな」


 ぬばたまはひさを抱きかかえたままゆっくりと上昇していく。崖のほうに目をやったひさは、斜面に先ほど落としてしまったひょうたんと杖があるのに気づいた。それをぬばたまに取ってもらう。ひさは肩の力を抜いた。これで村に帰れる。


 ぬばたまはさらに高く飛び、ついには山の木々を見下ろすところまでやってきた。眼下に広がるこんもりとした森を見て、ひさは「わあ……」と歓声を上げる。


「まるで鳥になった気分です」

「怖くはないか?」

「ええ、ちっとも」


 事実、ひさは胸を高鳴らせていた。


(こんな気持ちになるのは何年ぶりかしら……)


 村長の家で心を殺す日々を送るひさは、久しぶりに解放感を味わっていた。頬を撫でる夜風が気持ちいい。手を伸ばせば月にだって触れられそうだった。


「ほら、着いたぞ」


 滑るように空を飛び、ぬばたまはひさを村の入り口に降ろした。ひさは深々と頭を下げる。


「本当にありがとうございました」

「礼はいらぬと言っただろう」


 ぬばたまは踵を返し、銀の髪をなびかせながら空を飛んで帰っていく。ひさは瞬きをするのも忘れ、その光景に見入った。


(夜の山には恐ろしい妖怪が潜んでいるという噂はでたらめだったのね)


 ひさはぬばたまに返し損ねた羽織を自分の体ごと抱きしめた。先ほど空を飛んでいた時のように、気分が高揚してくるのを感じる。


 けれど、いつまでも楽しい気分のままではいられなかった。自分の役目を思い出したひさは、杖をつき、湧き水の入ったひょうたんを片手に村長の家に向かったのだった。

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