咲いた花なら散らねばならぬ
「はあ、はあ……」
日が落ちて間もない時間帯。暗い山道を、ひさは息を切らしながら登っていた。
提灯の明かりがゆらゆらと揺れ、地面に不気味な陰影を作る。山登りを始めてからもう随分たったに違いないとひさは思った。
こんなに長い距離を歩いたのはいつぶりだろうか。草履の鼻緒が指の付け根に食い込み、じくじくと痛む。きっと皮がむけてしまっているのだろう。
手当てをしたかったが、そんな暇はなかった。提灯を持っていないほうの手で杖を強く握りしめ、ひさは思い通りに動かない右足を引きずりながら懸命に進んでいく。
ふと、近くの茂みから葉ずれの音がした。ひさはびくりと肩を竦ませる。時間に余裕がないと分かっているのに、思わず足を止めた。
「だ、誰……?」
ひさは血も凍るような思いで尋ねた。
「誰か……いるのですか……?」
その声に応えるように茂みから飛び出してきたのは小さなたぬきだった。
たぬきはひさには目もくれず、道をちょこちょこと横断していく。ひさは胸をなで下ろした。
(ああ……良かった……)
汗で額に張りつく乱れた黒髪を横に撫でつける。震える足に力を入れ、ひさは先を急いだ。
この山には野犬が住んでいる。その性質は穏やかとは言いがたく、山菜採りに来たふもとの村の住民にケガを負わせたこともあった。
だが、ひさが恐れたのは山犬ではない。この場所には、もっと恐ろしい生き物が潜んでいるのだ。
(もし今のが「ぬばたま様」なら、今頃私の命はなかったわね)
最悪の想像をしてしまい、ひさは鳥肌を立てる。そして、こんなところへ来なければならなくなった自分の運命を呪い、つい数時間前の出来事に想いを馳せるのだった。
****
――ひさ! 何をしている! 早く水を持っていかないか!
その日、山裾の集落の村長宅では、蜂の巣をつついたような騒ぎが起こっていた。村長の息子が急病で倒れてしまったのだ。
――はい、ただ今。
村長宅で下働きをしているひさは、たらいを水でいっぱいにしてよろよろとした足取りで若君の部屋へ向かう。だが、若君はひさに世話をされるのをよしとしなかった。
――放っておけ。
ひさが水に浸した手ぬぐいで額の汗を拭ってやろうとすると、若君は邪険にそう言い放った。
――お前に世話されるほど俺は落ちぶれちゃいない。こんな熱、すぐに下がる。
――ですが……。
――放っておけと言うのが分からないのか!
若君はたらいを掴むと、その中身をひさに向かってぶちまけた。そして、足音も荒く部屋から出ていこうとする。
だが、数歩も行かぬ内に畳の上に倒れ伏してしまった。髪までびしょ濡れになり呆然としていたひさは、慌てて若君に駆け寄る。
――無理をしてはいけませんよ。
――うるさい! 穀潰しの分際で俺に指図するな!
若君は腹立たしげに叫ぶ。その時、医師と村長が部屋にやってきた。
――ひさ、これはどういうことだ。病人を布団に寝かしもしないで。
村長はひさを叱り、息子に肩を貸して布団に戻す。若君は、先ほどまで強情を張っていたとは思えないほどあっさりと横になった。
村長は周囲を見て眉をひそめる。
――畳が水浸しじゃないか。たらいをひっくり返したのか。お前は病人の看病もろくにできんようだな。
――申し訳ありません。
どうせ弁解など聞いてもらえるわけもないので、ひさは大人しく頭を下げる。そして、拭くものを取りいくため退室した。
村長の絶叫が聞こえてきたのは、雑巾を片手に部屋に戻った時のことだった。
――先生! 嘘だと言ってください!
村長は医師の肩を揺さぶっていた。
――この子の命が危ないなどと! まさか、もう手遅れなのですか!?
村長は完全に取り乱していた。二人の傍らで畳を拭いていたひさも、縁起でもない話に一瞬作業の手を止めそうになる。
――落ち着いてください。治療法ならきちんとありますよ。
医師は村長をなだめすかす。
――よく効く薬を明日の朝一番で煎じましょう。
――明日の朝? 呑気なことを! その間に息子が死んだらどうするのですか!
――若様はまだ十六になったばかりで体力もあります。一晩くらいなら持ちますよ。それに、薬を作りたくても手元に材料がないのです。
――薬草なら、うちにも備蓄がありますが。
――いいえ、薬草ではありません。薬草を煮る時に使う水を……特別な湧き水を切らしているのです。
――それなら誰かに汲みに行かせればいい!
村長は半狂乱になって叫んだ。医師は冗談でしょうとでも言いたげな顔になる。
――湧き水をどこから汲むのかはご存知ですよね? 山にあるほこらの傍の池です。こんな時間に誰がそんなところへ行ってくれますか。
――ひさに行かせます。
思わぬところで自分の名を出され、ひさは顔を上げた。すっかり冷静さを失った村長と目が合う。
――聞いていたな、ひさ。今から山へ行け。息子のために湧き水を汲んでくるんだ。まさか日に二度も水をこぼしたりはしないだろう。
――待ってください!
ひさはまっ青になった。
――夜の山に入るなんて! もし、ぬばたま様に見つかったら……。
ひさは呼吸を荒げた。
ひさの住む村には古くから伝わる噂がある。なんでも、この辺りの山には夜になると妖怪が出現し、人の生き血を吸い尽くして殺してしまうそうなのだ。
その妖怪は「ぬばたま様」と呼ばれていた。姿形は人間と似ているが、髪は銀色で目は血のように赤いらしい。全住民が黒い目と髪を持つこの村の人たちからすれば、その特徴はまさに異形の証であった。
ぬばたま様を恐れる村人たちは、日が落ちてからは絶対に山に立ち入ろうとしない。ぬばたま様に目をつけられたら最後、逃れる手段などないと知っているからだ。
だが、村長はひさに夜の山に分け入れと命じている。いくらひさが滅多に他人に逆らわない従順な性格をしているからといって、このような命令は到底受け入れられるものではなかった。
――若様のことは寝ないで看病いたします。お水は明日の朝、日が昇ってから汲みに行きましょう。ですからどうかお考え直しを……。
――早く行け。
村長はひさの訴えを完全に無視した。
――行かなければお前を家から追い出す。山から戻ってくるのが遅れ、息子が死んでも同様だ。自分の立場をもっとわきまえろ、ひさ。両親と死に別れ、行き場をなくしていたお前に仕事と住む場所を与えてやったのは誰だ?
痛いところを突かれ、ひさは黙り込む。村長はひさの右足に視線を落とした。
――その足ではほかの女たちと同じように働くのは無理だ。そんなお前を誰が欲しがる? お前はこの家を出たら野垂れ死ぬしかない。それが嫌なら言われたとおりにしろ。
村長は吐き捨てるように言って去っていく。医師がやれやれと肩を竦めた。
――ひさ、諦めることだな。村長殿の言うことは正しい。お前の足は一生治らんのだ。あの人を怒らせ、ここを追い出されたら終いだぞ。
医師は薬箱の中から薬草やすり鉢を取り出し始める。暗に、「早く山で水を汲んでこい」と言っているのだ。
ひさは失意のあまりどうしてよいのか分からなかった。だが、村長たちの言うように選択肢などないのだ。ひさは恐怖心を押し殺し、夜の山へと足を踏み入れた。
(……見えてきたわ)
疲れのせいでいつも以上に言うことを聞かない足をひきずっていたひさは、前方に小さな建物を発見して安堵した。ほこらだ。
裏手に回り、池の側にかがみ込む。腰から下げていたひょうたんの栓を抜いて、中身を水でいっぱいに満たした。ついでに喉も潤すと、それだけでわずかに疲労が抜けた気がする。
(あとは帰るだけね)
ひさは来た道を戻ろうとした。ふと、対岸の茂みが揺れる。
またたぬきだろうかと思ったひさだったが、そこから出てきたのは彼女の腰くらいまである大きな獣だった。汚れた毛皮の山犬である。
山犬は低い声でうなり、残忍そうな目でこちらを睨んでいる。ひさは一瞬息をするのも忘れ、全身が石になったように感じた。
だが、次の瞬間には体が動くようになっている。ひさは不自由な足が許す限りの速度で一気に駆け出した。
後ろから山犬が吠える声がする。振り返る余裕などなかったが、追いかけてきているのだと分かった。このままではすぐに捕らえられてしまうだろう。
村人の中には、野犬に遭遇したら木に登ってやり過ごす者もいるそうだが、この足ではそんな芸当などできはしない。ひさの胸に戦慄が走った。
その時、ひさの体ががくんと傾いた。臓腑が縮こまるような感覚の直後、ひさは岩だらけの斜面を転がる。逃げるのに夢中になるあまり、ひさは目の前の崖に気づけなかったのだ。
指も腕も足もおかしな方向にねじ曲がる。体を八つ裂きにされたような痛みに、ひさは気が遠くなりかけた。こんな苦痛、早く終わってほしい。そう願っていると頭に強い衝撃が走り、ひさの目は何も映さなくなった。