後編
「アンナ!」
暗くなり始めたころ森を出た。村の灯りを背負うようにユリウスが走ってくるのが見える。
「アンナ。ばか、もう暗い」
「ごめんね。でも森の入り口まではフィルと精霊様たちが送ってくれたから」
「……そっか。ならいい、帰ろう」
ユリウスは自然にわたしの手を取った。昔みたいな強さで握り返したけど、なんにも言わない。
「あいつになにかされなかったか」
「なんにもないよ。フィルは優しいもの」
「アンナにはな」
「ふふ」
風が涙を掬い続けてくれたおかげで、目を擦らずに済んだ。だから腫れてもいないし、もう暗いから泣いたことには気付かれないだろう。
「……ユリウスは、今日、なにしてたの?」
「ん? ああ……」
考え込むように少し間を置いてから、ユリウスは話し始める。
「……聖女様の使い、って人たちが来てて……返事の催促、みたいな」
予想通りだったらしい。なんて答えたの、と聞くより早く、ユリウスが言葉を続ける。
「別にさ、そんなつもりで助けたんじゃないんだ。あの子が聖女様とか知らなかったし、道聞かれたわけでもなかったし」
「じゃあなんで迷子ってわかったの?」
「アンナと同じ顔してたから」
わたしと? 首を傾げると、それを見てユリウスはちょっとだけ笑った。
「昔さ、子供たちだけでよく森まで遊びに行ってたろ。鬼ごっことかしてさ。あの頃みんなを見失ったときのアンナと同じ顔してたから」
そういえば、そんなこともあった。わたしは足が遅い上によく転ぶから置いて行かれることもたびたびあって、思えば、みんなを見失って泣きそうになったときにはいつもユリウスが走って戻ってきてくれた。鬼ごっこなのに手を繋いでいてからかわれたこともあったっけ。
「もしかして迷子か、って聞いたら泣き出しちゃって。しばらく話聞いて、落ち着いてから衛兵のとこに連れていったんだ。この辺に住んでるのかって聞かれたから村の名前を教えて……それを頼りに探してきたらしいけど」
「そっか」
わたしとの思い出を覚えていてくれてうれしい反面、それが理由で聖女様と出会ったなんて皮肉だとも思う。
「いいよな、なんか。会いたいって言うだけで周りが勝手に探してくれてさ。聖女様ともなれば、なんでも叶えてもらえるんだろうな」
たしかに、聖女様は王族が面倒をみてくれるのだから贅沢な暮らしだって思いのままだろう。フィルの話を聞いた今となっては、いいことばかりでもない気もするけれど。
なんでも叶うけど大切な人と離れ離れになる生活か、ままならないこともあるけど大切な人が傍にいる生活。聖女様はこの国の都合で前者を選ばされて……ユリウスはたぶん、それを自分で選ばなきゃならない。
「結婚したら、俺には王都の屋敷が与えられるんだって。すげぇよな」
饒舌に話し続けるユリウスは、正直ちょっとらしくない。無理に明るく話そうとしているんだって、わかるくらいに。
「親父も呼んでいいんだって。そしたらさ、親父は……農業なんかやらずに済んでさ、自分の好きな木彫りだけやってられる。聖女様のご加護つき~とか言ったら、人形も王都で売れまくるかもなぁ」
「……うん」
「……楽、させてやりたいんだ。いつまでも俺の面倒なんか、見なくていい」
「おじさん、なんて言ってるの?」
「別に……お前の好きにしろってだけ」
おじさんらしいと言えばらしい。この様子だとユリウスも、おじさんに本音を話してはいないんだろう。
あっという間に家の近くまで来てしまった。ユリウスはやっぱり、わたしの家の前まで来てくれる。
「それじゃあ」
「アンナ」
手を離そうとしたのに、逆に強く握られてびっくりする。ユリウスを見れば、すごく真剣な顔をしていた。
「……明日、聖女様が来るんだ。なんか、直接話したいらしくて」
「……うん」
「そのとき返事するって、言った。だから、その前に──……」
「アンナ? 帰ったの~?」
ユリウスの言葉の途中で、家の中からお母さんの声が響いた。思わず肩が跳ねたけど、咄嗟に「はあい!」と返事をする。なんて間が悪いんだろう。
「ご、ごめんね、ユリウス。なに?」
「や……いいんだ」
ユリウスはばつが悪そうに手を離した。
「……明日、ちょっと早い時間でいいなら、いっしょに森行こう」
「いいの?」
「ん。……いつが最後になるかわかんないしな」
ユリウスの言葉にもだけど、なにより眉を下げて笑う顔に胸が苦しくなる。
「じゃ、おやすみ」
おやすみ、と返せなかった。それでもユリウスが背中を押すから、流されるまま家へ入る。ユリウスはやっぱり、わたしを見送るまでは家に入らないんだ。
◇
翌日。ほとんど眠れないまま作ったパンは、それでもきちんと膨らんだ。バスケットに詰めて外に出ると、庭で木彫りをしていたユリウスがすぐに気付いて立ち上がる。
木くずをはらって、手早く道具を片付けて。遠目に、彫っていたのは鳥かなあと思う。ユリウスが作る動物はどれも可愛いけど、わたしは鳥が一番好きだった。
「行くか」
「うん」
「……寝てないだろ」
「どうして?」
「目が赤い」
ユリウスの指先がわたしの目元に一瞬触れて、すぐに下がった。そのまま手を繋がれて、森に向かって歩き出す。どうして眠れなかったのかなんて、聞かれもしないし話しもしない。
しばらくは足音が聞こえるだけだった。村が遠ざかり、森へ踏み入る。このままフィルのところにいくのだろうかと思っていると、不意にユリウスが立ち止まった。
「……昨日の続きなんだけど」
「うん」
つられて立ち止まり、自然と向き合う形になる。
「聖女様との結婚話、受けようと思う。その前に言いたいことがあって」
「……うん」
なあに、とでも言えればよかったんだけど。鼻の奥がつんとするからできなかった。
「俺は、……アンナのことが好きだった、ずっと」
知ってた。知っていたけど、ずっと待っていた言葉だったような気もする。
こんなふうに直接言ってもらったのはいつぶりだろう。もしかしたら、ユリウスからは初めてかもしれない。結婚の話までしてたのに。
それくらい当たり前に好きだった。うまくいかない時期があっても、きっとお互いに、ずっと。そしてたぶんわたしは、これからもずっとユリウスが好きだ。
泣かずに「わたしも」と言いたいのにうまく言えないでいると、ユリウスが言葉を重ねてくる。
「アンナは、幸せになれよ。あいつの愛し子になってさ。そしたらきっとなんでも叶えてもらえる」
「え……」
「金持ちになりたい、とかは無理かもしれないけど……ああいや、できんのかな。愛し子のためならなんでもするとか言ってたし」
パン屋もでかくなるかもしれないぞって笑うのを見ながら、心の奥の悲しみの海に、静かに怒りが湧いてくる。
ユリウスが聖女様を選ぶのは、お父さんのためだと思ってた。でももしかしたら、わたしのためでもあった? なんでも叶えてくれるひとの愛し子になれば、わたしが幸せになれるって、思ったの? だから聖女様との結婚を決めたの?
「……ない、で」
「ん?」
「ふざけないで!!」
大きな声で叫んだら、ユリウスが驚いて手を離した。
「わたしは! ユリウスがよかった!」
「……アンナ」
「ユリウスと結婚したかった! ユリウスとパン屋さんになりたくて、ユリウスが人形を作ってるのを見ていたくて、ユリウスと幸せになりたくって! それは……っ!」
それは、ユリウスとしか叶えられない夢だ。他の誰にも叶えてはもらえない。
「ユリウスがお父さんのために結婚するって言うなら仕方ない! でも、わたしのためにはならない……っわたしは、フィルの愛し子にはならない! ユリウスが誰と結婚しても、勝手にずっとユリウスのこと好きでいる!」
涙がぼろぼろ零れて、呼吸が荒くなる。こんなふうに喚き散らすのは、さすがに子供のころ以来だ。
「なんでも叶えてもらって幸せになるのは、ユリウスの方よ!!」
「っ、アンナ……!」
叫ぶだけ叫んで走り出した。バスケットを投げてぶつけたから、ユリウスはしばらく追ってこないだろう。そうでなくても、追いかけては来ないかもしれない。きっともうすぐ聖女様がやってくる。その手を取って、ユリウスは幸せにしてもらうんだ。
「っ、う、うわぁあん!」
涙が止まらなかった。声を上げて泣きながら走って走って、ぜえぜえ息を切らし大樹にたどり着くと、気が抜けて膝から崩れ落ちそうになった。
「おっと」
「……っ、フィル、」
「これはまた派手にやったなぁ」
いつものように悪戯に微笑む口元と、いつもより優しい目をしたフィルが、わたしを抱きとめてくれた。風が起きなかったから、わたしが来る前から実体化していたんだろう。
「待ってて、くれたの?」
「まあな」
この森で起きたことはすべて聞こえると言っていたから、さっきのわたしの叫び声も聞こえていたはずだ。呼吸を整えながら尋ねると、フィルは頷いてわたしごと宙に浮いた。
泣いたのと走ったのとでぐったりした体を預けたままでいれば、やがて昨日と同じ枝の上にたどり着く。フィルはわたしをそこに座らせて、優しく背中を擦ってくれる。涙は止まらなかったけど、呼吸は随分落ち着いた。
「悲しいか?」
「わからない。……でも悔しいのかもしれない」
「どうして」
「わたしが、……わたしも、ユリウスを幸せにしたかった。聖女様みたいな方法じゃ無理だけど」
夢を全部は叶えてあげられない。お金だって、楽な生活だって与えてあげられない。それでもわたしだけに叶えられるなにかで、彼を幸せにしたかった。
「もっと早く、ちゃんと好きって言ってればよかった。素直になれてればよかった」
そうしたら、せめてこんな終わり方じゃなかったのかもしれない。
「怒鳴っちゃった。最後かもしれないのに、泣いちゃった。ユリウス、絶対に気にしちゃうのに」
逃げてしまった。今すぐ戻って「嘘だよ」って、「フィルの愛し子になるの」って言ってあげるべきだと思うのに、こんな顔では戻れない。それに。
「ご、めん、フィルも」
「うん? ああ、愛し子にはならないってやつか。わかってはいたが、森中に聞こえるくらいでかいお断りだったなあ」
「ご、ごめんね、ほんとに……」
それなのにこうして慰めてくれているのだから、本当に申し訳ない。
「でも毎日来る、から。そうしたらフィルは消えないよね?」
「まあな。はは、本当に優しい子だなぁ」
ほっと胸を撫でおろしていると、どうしてだか急に空気がひんやりとした。
「……けど、君は勘違いしてる」
「勘違い?」
「愛し子にするっていうのは、別に同意のもとじゃなくてもいいんだぜ」
「……フィル? なに……」
フィルの綺麗な顔から笑みが消える。正確には、口元に笑みは残ったまま、目が全然笑っていない。人間離れした綺麗な顔だと思ってはいたけれど、本当に作り物みたいに張り付けた微笑みがそこにある。
「悪い話じゃない。俺の加護がつけば魔物だって怖くはないし、たいていのことは俺がいくらでも叶えてやれる」
「……フィル、待って」
「なぁに、ほんの少し……今よりずっと、俺のことが好きになるだけだよ」
フィルの顔がどんどん近付いてくるから、そのぶん後ろに体を反らす。じりじりと後退していたけれどやがて木に背中が付いて、枝の上ではこれ以上逃げ場がない。一人で下りられる高さでもない。空気はどんどん冷たくなっていた。
「なあ、アンナ。言ったろ? 俺は愛し子に巡り会うためなら、なんだってするんだ」
温度のない指先が頬を撫でる。鼻先が触れ合いそうになって、でも、怖くて顔を背けることすらできない。
「や、やだ……いやだ、たすけて」
睫毛が触れそうな距離になって、ようやくどうにか目を閉じた。
「助けて、ユリウス!」
「アンナ!!」
わたしが叫んだのとほとんど同時だった。焦がれた声がして、ぎゅっと閉じたはずの目を開く。
「ユリ、ウス……」
「アンナ! くそっ、アンナから離れろ!!」
下を見ると、肩で息をするユリウスがいた。……来てくれたんだ。
「ユリウス、」
「待ってろ、今行く!」
ユリウスは木にしがみついて、こちらに向かって登り始めた。
「だ、だめ! 危ないからやめて!」
「やめない!」
咄嗟に止めたものの、ユリウスは聞いてくれない。だめだ、本当に危ない。木の表面のでこぼこしたところに上手く指や爪先を引っかけてどうにか上ってきてはいるけれど、この大樹の下の方にはしっかり掴まれるような枝は少なく、なによりわたしがいる場所までは高さがある。途中で手を滑らせたら、下手すると怪我では済まないかもしれない。
「危ないってば!」
「うる、さい!」
「っ、もう! 心配してるのに!」
「うるさい、うるさい! くそ、俺だって……」
ユリウスは、必死で登りながら癇癪を起しているようだった。制止する声を、まるで耳に入れない。
「俺だって、アンナと結婚したかった! アンナを幸せにしたかった!!」
聞いたことがないくらい大きな声でユリウスが叫ぶ。声で森に八つ当たりしているみたいなその叫びに、心臓が痛くなった。
「ずっと好きだった、大事だった! けど、甘えてた。アンナも俺のことが好きだから、嫌いにならないから、大丈夫だって……! 甘えて、強く当たってた、素直になれなかった!」
「ユリウス……」
「ぽっと出のやつに取られそうで悔しかった! そいつがなんでもできるから、俺よりアンナのこと幸せにできそうで腹が立った! けど、今は……っ、今は、そうやって言い訳して諦めようとしてる自分に一番腹が立ってる! 親父のことだって言い訳にした! アンナを泣かせた! あーっ、くそ!!」
何年も溜め込んでいた感情が、全部いらだちに変わっているのかもしれない。わたしはなんにも言えなくなって、ただ登り続けるユリウスを見つめる。
やがて彼はわたしがいる枝までたどり着いて、息を切らしながらどうにかそこに片腕をかけた。
「っ、ユリウス」
「くそ、……アンナ、ごめん」
まっすぐこっちを見上げたユリウスは、泣きそうな顔をしていた。汗なのか涙なのかわからない雫が頬を伝っている。
「好きだよ。俺も、きっとずーっとアンナが好きだ」
「……うん」
「すぐに叶えてやれること、あんまりない。手っ取り早く親父に楽させてやる方法も思い浮かばないから、アンナにも苦労かけると思う」
「いいの」
「はは、……うん、じゃあ、結婚しよう」
いっしょになりたいものになろう、やりたいことをしよう。子供のころの約束を思い出す。わたしは今、ユリウスと幸せになりたい。ずっと一緒にいたいんだ。
「うん!」
大きく頷いたときだった。安心したみたいに笑ったユリウスの足が滑り、慌てて腕を掴む。
「うわ……っ!」
「危ない!!」
「ばか! 手ぇ離せ!」
「離さない! 離さな……っきゃぁあ!!」
絶対に離さないつもりだったけど、わたしの力ではユリウスを引き上げることはできなくて。不安定な枝の上、早々に自分もバランスを崩してしまった。
────落ちる。体が投げ出される感覚にぎゅっと目を閉じると、ユリウスの腕がわたしの頭を抱きかかえた。
このままじゃユリウスを下敷きにしてしまう。けれどどうすることもできなくて、ただただ衝撃に備えて体を硬くした。
「気、済んだか~?」
予想した衝撃はいつまでも起こらず、代わりに呆れたような声が響く。恐る恐る目を開けると、地上から数センチ上で、わたしとユリウスは抱き合ったまま浮いていた。
「……フィ、ル?」
「おー。我ながらちょっとギリギリを攻め過ぎたな」
さっきの冷たい微笑はどこへやら。いつも通り悪戯な顔をしたフィルが、地面とユリウスの背中の距離を指で測ってけらけら笑っていた。気付けばいつの間にか、冷えた空気もなくなっている。
「お、まえ、なんで」
ユリウスがわたしごと起き上がって、地面に足を付けながらフィルを睨む。睨まれた方はというと、相変わらずへらっと笑ったままだ。
「名演だっただろ。いくらでも感謝されてやって構わないが、その前にやることがあるんじゃないのか?」
「やること?」
「村の方から、でかい馬車の気配がしてる」
「……! そうだ、行くぞアンナ!」
「えっ、あ、う、うん!」
ユリウスにぐいっと手を引かれて走り出す。慌てて足を動かしながら振り返ると、やっぱりフィルは笑ってて。
「フィル! ありがとう!」
ひらひらと小さく片手を振っているのが見えた。
◇
「ユリウス! ねえ、フィルってやっぱり、悪い精霊様じゃない、よね?」
「わかってる!」
ユリウスについていくのがやっとなわたしは、息を切らしながら尋ねる。
「アンナが走って行ってからも、ずっと声が聞こえてた。 あいつが風に乗せて聞かせてたんだと思う」
そう、なんだ。じゃあわたしに迫ってきたのも、わざとユリウスを焚きつけるために?
「わかってたのに乗せられてむかつく!」
「あ、はは……っ、ユリウスほんと、フィルが絡むと子供みたい」
「半分はアンナのせいだ、ほら急ぐぞ!」
「待って、早い……!」
◇
「親父!!」
ユリウスが勢いよくドアを開けると、家じゅうの視線が一気にこちらを向く。無表情であまり驚いた様子のないユリウスのお父さんと、対照的にびくりと肩を跳ねさせた文官のような男の人。それから、ユリウスと同じ髪の色をした……同じ年頃の、可愛らしい女の子。
「静かに入れないのか。聖女様方にも失礼だろう」
「そうなんだけど、それより……親父、ごめん」
ユリウスが被せるように話し出すので、おじさんは呆れたみたいに「なにがだ」と聞いた。
「俺は、アンナと結婚したい。聖女様と結婚した方が、親父にいい暮らしさせてやれるってわかってる。わかってるんだけど、ごめん、俺はアンナがいい。アンナじゃないとだめなんだ」
繋いだ手にぎゅっと力がこもる。
「王都でいい暮らしはさせてやれないと思うけど! 少しでも楽させてやれるように、もっと働く。もっとできること、探す。だから、」
「お前は、考えが足りていない」
今度はおじさんの方が被せるように話し始めて、ユリウスは口を噤んだ。おじさんの静かで低い声が響く。
「俺は、お前が聖女様の婿になろうが、そのついでに王都に呼ばれようが、ここでの生活を捨てる気などない。ここには母さんの墓がある。……三人で暮らした記憶がある」
「……親父、」
「お前に、楽をさせてもらうつもりもない。親は、子が幸せならそれだけでいい。だから好きにしろと言ったんだ。……俺の息子だというのに、お前はそんなこともわからなかったのか」
「……っ!」
隣のユリウスが、体を強張らせた。横目で見なくても、泣きそうなのを堪えているんだとわかる。
ユリウスがおじさんを大好きだったように、おじさんだってずっとユリウスのことが大好きで。例えばユリウスが転んで泣いたとき、その大きな手で涙も鼻水も拭っていたこと。普段はとっても不愛想なのに、ユリウスに木彫りのやり方を教えるときは優しい顔をしていること。日が暮れても帰らなかったときに、誰よりも真剣に怒ったこと。本当の息子みたいに大事にしていたことを、わたしが知っていて、ユリウスが知らないわけがない。
「ご、めん、親父、……ありがとう」
「まあ……足りなかったのは考えより話し合いだったのかもしれん。俺も悪かった。いいから座りなさい。いい加減、聖女様に失礼だ」
「あ、……えっと、聖女様、すみません。俺……結婚お受けできなくて」
しどろもどろになったユリウスを見て、ずっと黙って様子を見ていた聖女様は困ったように笑った。
「そのことなんですけど」
◇
翌日。わたしとユリウスは絶妙に重い足取りで森へ向かっていた。
「……昨日一日でいろいろありすぎて、一晩経ってもなんか実感わかねえ」
「わたしも……」
昨日、困ったように笑った聖女様は、すごく申し訳なさそうにこう言った。
『結婚の申し込みのつもりじゃなかったんです』
『『……え?』』
いわく、聖女様は元の世界にそう未練はなかったらしい。恵まれた家庭じゃなかった、とかで……でも、知らない世界で過ごしていると、無性に悲しくなることもあったんだとか。
『討伐のために立ち寄った街の宿からこっそり抜け出して気分転換をしていたんですけど、迷ってしまって。助けてくれたユリウスさんが普通に話してくれたのが、嬉しかったんです。この世界に来てからずっと、周りにいたのはわたしを聖女様だって持ち上げる大人ばっかりだったから。同年代の子と普通に話せてうれしくて、もっとお話したくて……王族の方に、彼とお友達になりたいって相談したんです。けど……』
そこまで話して、聖女様は頬を赤らめた。
『その……この世界の貴族の中では、女性から男性にお友達になりたいって言うことは、つまりその……だ、男女の関係になりたいって意味、らしくて……』
すみません、すみません! と何度も頭を下げる聖女様を見て、わたしたちの方が申し訳なくなるほどだった。そんな意味があるなんて、わたしたちだって知らなかった。
つまり大人の勘違いで一足飛びに結婚の話にまでなってしまっただけ。それに気が付いて、訂正するために大慌てで自らやってきた……ということ、らしい。
『だからあの、純粋に、本当に純粋にお友達になりたかっただけで……! ユリウスさんに好きな人がいるって、最初からわかってましたし!』
『え』
『幼馴染の女の子のことを、すっごく大事そうに話してたから……! だからわたし、その女の子とも仲良くなりたくて!』
顔を赤くしたユリウスに気を取られているうちに、聖女様が目の前にやってきて、そっとわたしの手を取った。
『あの、アンナさん。きっといろいろ不安にさせちゃいましたよね、ごめんなさい。ご迷惑をおかけしたのにこう言うのもなんなんですけど……よかったら、わたしとお友達になってくれませんか』
はにかんだ聖女様は、たしかに誰もが虜になるくらい……わたしも即座に頷いてしまうくらい、可愛かった。
その後、手紙のやりとりを約束して聖女様は帰っていった。帰り際、「ユリウスさんがなんて話してたか、手紙に書きますね」とこっそりとわたしに耳打ちをして。
「フィルに話したらすっごく笑われそうだよね」
「……目に浮かぶ」
露骨に嫌そうな顔をしたユリウスを見て笑ってしまう。でもちゃんと説明しなきゃ、とユリウスの手を引いて大樹へ向かった。
◇
「フィル? フィル~?」
「来てやったぞ」
何度か呼びかけてようやく風が吹いた。いつもはすぐに姿を見せてくれるのに、珍しい。
「おー。アンナと、誰かと思えば聖女に求婚されたと思って浮かれてたやつ」
「お、ま……っ! なんで知ってるんだ! っていうか浮かれてない!」
「面白そうだと思って、昨日全部聞かせてもらってたからな」
フィルがふいっと指を動かすと、葉っぱがふわりと浮いてユリウスの背中にくっついた。こうすることで、森の外の声も聞こえるってことなのかな。
葉っぱを取ろうとするユリウスを見てフィルはからかうように笑っていたけど、ふと大きな欠伸を溢した。
「フィル、眠いの?」
「ん? ああ……まあな。ここ数日続けて実体化してたから、少し疲れた」
うとうとと瞬きするのを見て、フィルの愛し子にならなかったことを申し訳なく思う。わたしがフィルを選んでいたら、もう少し力になれたのかな。
「君が気に病むことじゃない」
「でも」
わたしの表情に目敏く気付いたフィルは、長い指先で頬を撫でてくる。不思議と、昨日は感じなかった温度を感じる気がした。
「この辺はもともと精霊信仰が盛んだったからな。森も綺麗だし魔物の心配もほとんどない。愛し子の浄化がなくても大丈夫だし、俺も寝てればまたそのうち起きる」
「……うん。寝てても毎日来るからね」
「ありがとう」
「俺も来るからな」
ユリウスが割って入ってきて、フィルの手を退けさせた。フィルは怒りもせずにけたけた笑っている。
「いいからお前はアンナを大事にしろ~?」
「言われなくても! そっちはせいぜいよく寝て、失恋の傷でも癒すんだな」
ユリウスったらまた子供の喧嘩みたいなこと言って、と思っていると、その言葉を聞いたフィルがきょとんとする。
「失恋? 誰が」
「誰って、お前だろ。アンナを愛し子にできなかったんだから、失恋みたいなもんじゃないか」
「いや、別にアンナは俺の愛し子じゃないからな。そもそも愛し子っていうのは、するしないってもんじゃない。決まってるんだ、生まれたときから、生まれる前から。惹かれるのは魂だからな」
…………え?
「ええぇっ!?」
「はぁあっ!?」
さらっと爆弾発言をしたフィルは、わたしとユリウスの大声に「うるさいな」と耳を塞ぐ。ど、どういうこと……? 頭が追い付いていないわたしに代わって、ユリウスが尋ねた。
「どういうことだよ、お前……愛し子を探してるだとか、アンナを愛し子にするだとか言ってただろ」
「探してるとは言ったが、アンナだとは言ってない。愛し子にするとも言ってない。『俺にしとくか?』って言っただけだ」
「じゃあ、なんのためにわざわざアンナに構ってたんだ」
ますますわからないというユリウスの声を聞きながら、フィルはまた大きな欠伸をした。限界が近いのかもしれない。
「言っただろ。俺は、愛し子に巡り会うためならなんだってするんだ」
フィルが、今まで見た中で一番優しい顔をして、わたしを──……わたしの、お腹のあたりをみた。
「──ああ、早く逢いたいなあ」
ふわりと小さな風が吹き、目を閉じる。次に目を開けたときにはもう、そこには大きな木が佇んでいるだけだった。
「結局なんだったんだ、あいつ……」
ユリウスは本当に理解ができないという顔をしていたけれど、わたしにはなんとなく、分かった気がした。
「……いつか逢わせてあげるね」
小さく呟いたら、嬉しそうに優しい風が舞った。
◇
──数年後。ユリウスと結婚したわたしは、無事にパン屋を継いだ。全部が全部うまくいくわけじゃないけど、両親やユリウスに支えてもらってなんとかやっている。
ユリウスは、小さいころの約束通り、パン屋を手伝う傍ら木彫りの人形を作って店に置いている。彼の提案で僅かに明るい色をつけるようになった動物の人形は、たまに売りに行く街で徐々に人気が出始めて、今ではこの辺鄙な村まで買いに来る人もいるくらい。木の温もりを残したまま目にも鮮やかだと評判のそれは、時代に合わせて売り出すべきだというユリウスと、伝統を残したいお父さんがきちんと話し合って生まれたものだ。
やがて、わたしたち二人の間には子供ができた。その子が生まれた日には風がたくさん吹いていて、悪戯な顔がよく似合う精霊様がお祝いに来てくれた。その精霊様が「逢いたかった」と唇を落としたわが子が、やがて成長し王都で魔物を浄化してみせ、国中に精霊信仰が戻り始めたり、それに伴い各地の精霊の力が強まったりするのだけれど……それはまた、別の物語だ。
(おしまい)
お読みいただきありがとうございました。初の三角関係(?)でした。また後日活動報告に裏話など書こうかなと思います。
楽しんでいただけましたら、ぽちっと評価よろしくお願いいたします。




