前編
さくっと終わる予定ですが、楽しんでいただけるとうれしいです。
好きな人のことは、なにがあってもずっと好きなんだと思う。ずっと好きでいられる人を、わたしは好きになったんだと思う。
◇
「アンナ。お前、今日もまた森に行くのか」
「ユリウスには関係ないでしょ! ついてこないで」
手作りのパンをバスケットに詰めて、今日も森へ向かって歩き出す。精霊が住むと言われる森にパンを供えに行くのがわたしの日課だった。
「好きでついていくんじゃない。昨日も森へ行ったまま長い時間帰らなかったって、おばさんが心配してたから」
「今日は早く帰るったら。大丈夫だから来ないでよ」
いったい誰のことを考えていて、昨日の帰りが遅くなったと思ってるんだろう。
後ろをついてくるユリウスは、わたしの幼馴染だ。小さな村で、同い年はわたしたち二人だけ。近い年ごろの子は他にも何人かいたけれど、わたしは小さいころからずっとユリウスが好きだった。
昔は、子供たちの中でも特別仲が良かった。ユリウスは早くにお母さんを亡くしたから、お隣さんであるうちのお母さんが世話を焼くことも多くて。兄妹みたいに育ったのに、家族とは違う『好き』だと自覚したのがいつだったのか、もう思い出せないくらいだ。それくらいずっと一緒にいたし、これからもずっと一緒だと思ってた。だけど。
ここ一、二年、ユリウスとはうまく話せていない。話をしないわけじゃないけど、会話が続かなかったり、すぐに言い合いになってしまったりする。お互い十六になったのに、つまらないことで喧嘩してしまうのはむしろ子供みたい。お母さんは「思春期ってやつね、そのうち昔みたいに戻るわよ」なんて笑ってるけど、来るかもわからない「そのうち」を待つのは苦しかったし、素直にそう言えない自分は情けなかった。
今日は特に、ユリウスにきつく当たってしまいそうだった。だから一人で森へ行きたかったのに、ユリウスはついてくるし、それにイライラしてしまうし、そんな自分にも腹が立つ。息が詰まりそうだったけど、大股で歩いて森へ踏み入ったら少しだけ気持ちが晴れた。
「……相変わらず、ここは本当に精霊がいそうだよな」
「……いるよ。おばあちゃんが言ってたもの」
それだけで終わった会話に気まずさを覚えながら森の奥へ進んでいくと、大きな木がある。わたしが三人手を繋いだって一周できないほどの太い木の根元にハンカチを敷き、その上にパンを置いた。
この森には精霊が住むのだと、死んだおばあちゃんが言っていた。パンを備えると翌日にはきれいに無くなっているから、きっとパン好きの精霊がいるのだと。お母さんやお父さんは「動物が食べてるだけだ」なんて言ってたけど、小さいころからおばあちゃんと一緒にお供えに来ていたわたしには、そうは思えなかった。
だって、翌日になるとパンはいつも不自然なくらい綺麗に無くなっている。そしてハンカチはきちんと四つ折りになっているのだ。動物がこんなことをするとは思えない。
(……パン失敗したときは、ハンカチぐちゃぐちゃだし)
つまり明日はぐちゃぐちゃかも、と思いながら供えたばかりのパンを見る。ユリウスも後ろから覗き込んできた。
「また上手に膨らまなかったのか。そんなんじゃパン屋は継げないぞ」
「うるさいなあ! ユリウスには関係ないでしょ!」
うちは村で唯一のパン屋だ。両親の作るパンはとっても評判がいいけれど、わたしはまだまだそんなレベルじゃない。練習として自分が焼いたパンを供えるようになってからもう二年になるのに、いまだ失敗することもある。でも、失敗にはたいてい理由があるのだ。新しいパンに挑戦したときだとか、……パン作りに集中できないほど気にかかることがあるときだとか。
「そんな言い方しなくていいだろ。いっつもイライラしてたら嫁にも行けないぞ」
「~っ、それこそユリウスに関係ない!」
「俺は心配してるんだ。本当に可愛げがないな」
「可愛い子がいいなら、さっさと聖女様のお婿さんになればいいじゃない!」
「はあ!? お前、なんでそれ知ってるんだ」
「もう村中みんな知ってる!!」
怒鳴るように答えてから、俯いてスカートをぎゅっと握る。ユリウスの方は見られなかった。見たら絶対に泣いてしまうと思ったからだ。
ユリウスの家の前に、村では見たことがないくらい豪華な馬車が停まっていたのは一昨日のことだった。それが最近話題の聖女様の使いだという話は、その日の夜のうちにはもう村中に広まっていた。
噂でしか聞いていないから詳しくは知らないけど、どうやらユリウスは以前街に出かけたときに、路地裏に迷い込んだ聖女様を助けたらしい。
聖女様というのは、こことは違う、どこか別の世界から来るという聖なる魔法の使い手だ。その聖なる魔法で、魔物を退治してくれる。前の聖女様が引退してから十年、数か月前にようやく現れたという新しい聖女様は、見た人だれもが虜になるような、可愛らしい顔立ちをしているらしい。そんな人がどうして路地裏に、とも思ったけど、ユリウスに聞くのはなんだか癪だった。
「……断らなかったんでしょ」
「……考えさせてほしいって、言っただけだ」
それは断らなかったってことでしょ、と言おうとしてやめた。喉の奥が痛くて、声が震えてしまいそうだったから。
『結婚したら、アンナのパン屋で俺の人形を売ろう』
まだどこへ行くにも手を繋いでいたころの約束を思い出す。ユリウスのお父さんは、農業の傍ら木彫りの人形を作っている。村の伝統工芸でもあった木彫りの動物たちを生み出せるのはもうユリウスのお父さんだけで、ユリウスはその跡を継ぐのだと言っていた。
結婚したらどちらかの家の仕事だけをするのだと思っていた幼いころのわたしは、「ユリウスと結婚したいけどパン屋さんにもなりたい」と泣いたことがある。
『ユリウスと結婚したいの、でもパン屋さんにもなりたいの』
『俺がパン屋さんになればいい』
『ユリウスはお人形を作るの! お人形を作ってるときのユリウス、すっごく楽しそうだから、やめちゃだめなの!』
『アンナは馬鹿だなあ。パン屋さんをやりながら人形を作るんだよ』
『そんなことできるの?』
『できるよ。結婚したら、アンナのパン屋で俺の人形を売ろう。お店の手伝いをしているアンナだってすごく楽しそうだから、やめちゃだめだ』
いっしょになりたいものになろう、やりたいことをしようと約束した。その約束を胸に抱いたまま大きくなって、わたしたちはもう現実を知っている。例えば、小さな村の小さなパン屋じゃ工芸品なんて売れないこととか、街に売りに行くのにも、辺鄙な村からじゃ馬車代だけでも馬鹿にならないこととか。頻繁にその馬車代を出せるほど、儲かるようなパン屋じゃないことだって。
「……親父のためだ」
絞り出すようなユリウスの声にはっとする。ユリウスは、やっぱり……。
問いただそうと顔を上げた瞬間、突風が吹き荒れた。
「きゃあ!!」
「アンナ!」
思わず目を瞑った直前、視界の端でユリウスが手を伸ばしてくれたのがわかった。だから、突風が止んだとき一番近くにいるのは当然彼だと思っていたのに。
「騒々しいなあ。さすがの俺も目が覚めた」
知らない声に目を開けると、わたしの隣、ユリウスがいると思っていた場所に知らない男の人が立っていた。日に焼けてない白い肌、風に揺れる長い銀の髪。すらりと背が高く、この世のものとは思えないくらい整った顔をした美しい男の人が、いた。
「人の寝床で騒ぐなんて何事だ……っと、へえ?」
男の人はまず、手を伸ばしたままのユリウスを見て、それからわたしを見た。
「お前、そうか……へえ。なるほどなあ?」
じろじろと舐め回すようにわたしを見た彼は、そのままにやっと笑う。綺麗な顔に似つかわしくないくらい悪戯な表情だった。ふうん、と声を漏らしながら、長い指先がわたしの頬に触れようとする。
「っ、触るな!!」
驚きのあまり動けないままでいたわたしの代わりに、ユリウスが男の人を突き飛ばした……はずだった。
「おっと」
「なっ、す、透け……!?」
ユリウスの手が、男の人の体を通り抜ける。こ、これってまさか……。
「幽霊!?」
「おいおい失礼だな。毎日パンを供えに来てるだろうが」
パンを、供えに? ということは。
「パン好きの、精霊様……?」
「半分正解で半分不正解だ。たしかに俺は精霊だが、パンを食ってたのは俺じゃない。俺は力が足りなくて長いこと寝ていたからなあ」
ぽかんとしたままのわたしの目の前で、精霊様はふわりと浮いた。その周りに、いくつもの光の玉が見える。
「こいつらだよ。実体化もできないような小さな奴らばっかりだが、パンを分け合って取り込んで、毎日美味いだ不味いだ言ってるのが眠っていても聞こえてた」
「ほ、本当に食べてくれてたの……?」
小さな光がわたしの周りに近付いてくる。ほんの微かに、きゃあきゃあ笑う子供のような声が聞こえた気がした。
感動に胸を震わせていると、突然ぐいっと腕を引かれる。
「ユリウス?」
「なにぼけっとしてるんだ、こんな怪しい奴の前で」
「あ、怪しい奴って……! 精霊様じゃない!」
「自称だろ」
じ、自称って……。体が透けたのも、今まさに宙に浮いているのも見ているはずなのに。ユリウスは怖い顔で精霊様を睨みつけていた。
「失礼でしょ! 早く謝って!」
「謝らない。お前こそなんでも簡単に信じすぎだ。聖女様みたいに魔法が使える、ただの危ない奴かもしれないだろ」
心配してくれているのだとわかったけど、聖女様という単語に反射的にむっとしてしまう。なにか言おうと口を開いたとき、急に空気が冷たくなった。
「……聖女、ねえ?」
どこからともなく冷気が流れる。精霊様が不機嫌になったからだ、と直感でわかった。
「せ、精霊様は、聖女様がお嫌いなんですか?」
「ここには精霊が多いから、その呼び方はよくないな」
「じゃあ、なんてお呼びしたら……?」
「そうだな……フィルとでも。ついでに口調も畏まらなくていい、話しにくいだろう」
「あ、ありがとう……?」
うん、と頷いてから、フィルはまた話し始める。
「聖女についてだが……嫌い、とは違うな。その在り方が不愉快だとは思うが、彼女らが悪いわけじゃあないし」
「どういうこと……?」
フィルは、ふーっと長く息を吐いた。肌寒さが少しましになって、わたしもこっそり息を吐く。
「昔は、魔物なんてどうとでもできた。あちこちに精霊の愛し子がいたからな」
「精霊の、愛し子……?」
「精霊からの寵愛を受けた子らだよ。精霊の祝福によって、愛し子は魔物を浄化する力を持っていた」
「聖女様と同じ力ってこと、ですか?」
「違う。あれは全くの別物だ。愛し子の浄化は魔物を元の動物に戻すことができるが、聖女の魔法は魔物を完全に消滅させてしまう」
そっか。魔物はもともとすべて普通の動物だと言われている。動物が悪い気を溜め込んで魔物になってしまうのだと。愛し子の力ならその悪い気だけを取り除けるけど、聖女様の魔法だと存在そのものを消し去ってしまうってこと、なのだろう。
「……精霊への信仰が薄れ、愛し子は減った。祝福を授けられるほど力のある精霊が少なくなったんだ。寝てるだけでここまで回復した俺なんかはましだろうな」
ふよふよと近くを漂う光の玉を指先でくすぐって、フィルは少し寂しそうに「お前も小さくなったなぁ」と呟いた。昔むかしは、フィルみたいに人のかたちで姿を現す精霊様もたくさんいたのかもしれない。人間に慕われ、人間を愛し、慈しんでくれていたのかもしれない。そんなことを考えると、少し胸が苦しくなった。
「そのうちに魔物が増え、困ったこの国のお偉いさんが他国の古い魔術に頼った。ここではない、別の世界から特別な力を持った少女を召喚するってやつだ」
「それが、聖女様……?」
「可哀想にな。この数百年で、いったい何人がこちら側に連れてこられたんだか」
フィルが最初に「不愉快だ」と言った理由がわかる。聖女様は、きっと望んでこの世界に来るわけじゃない。勝手に呼び出されるんだ。家族だって恋人だって友達だっている世界から、突然。
もし自分がそうなったらと思うと、涙が出そうになった。お父さんやお母さん、ユリウスと突然引き離されたら……。悲しくて寂しくて、とても普通じゃいられない。
「優しい子だなあ」
「え? きゃっ、きゃあぁ!」
潤んだ目から涙が零れそうになった瞬間、体がふわっと浮いた。初めての感覚に慌てて手足を動かしたけど、わたしの意志とは無関係に体はふわふわと移動して、気が付けばフィルの腕の中に納まっていた。ず、ずっと透けてるわけじゃないんだ……。
「聖女様だとちやほやされて、こっちで楽しく豪遊してた奴だっている。君がそんな悲しい顔はしなくていい」
「アンナに触るな!! くそ、返せ!」
下でユリウスが叫んで、わたしを掴もうと飛び跳ねている。嘲笑うかのように、フィルは絶妙に届かない位置で漂っていた。
「お前たち、恋人か?」
「えっ! ち、違う、けど……」
恋人、という響きに頬が熱くなった気がする。でも、すぐに悲しくなって目を伏せてしまった。なにも知らない子供のころに、結婚の約束をしただけ。今は会話もろくに続かないし、ユリウスは……聖女様と結婚するかもしれない。
「ふうん。まあ、たしかに恋人にしちゃ上手くいってなさそうだったな。目が覚めてしまうくらいに、言い合う声がやかましかった」
わざとらしい言い方に視線を上げれば、悪戯な顔と目が合った。
「俺にしとくか?」
「「えっ!?」」
ユリウスとわたしの声が重なって、フィルはおかしそうに笑う。しばらくけたけた笑っていたかと思うと、不意にその目がすっと細められた。
「……精霊は、愛し子を探してる。求めてる。どうしようもないくらいに、魂が惹かれるんだ」
「魂が、惹かれる……」
「そうだ」
さっきまでの悪戯な表情が嘘のように、フィルは真剣な顔をする。その真摯な視線と整った顔立ちに、今度は間違いなく頬が熱くなった。
わたしが、精霊様の……フィルの、愛し子になるってこと?
「俺は愛し子に巡り会うためならなんだってするぜ。だから、俺にしとけよ」
な? と甘い声を出して、フィルの鼻先が近付いてくる。真っ黒な髪と目をしたユリウスだってひいき目なしに格好いいけど、フィルからは彼とは違う色気みたいなものが溢れていた。
「~っ、待って!!」
足元でユリウスが「やめろ!」と叫んだのと、わたしがフィルを押し退けたのはほとんど同時だった。視線を下げればユリウスがほっとした顔をしているように見えて、少し期待しそうになる。
「か……、考え、させて」
でも、わたしの口から出たのは、ユリウスが聖女様の使いに言ったという言葉と同じものだった。目を見開いて言葉に詰まった様子のユリウスから思わず目を逸らす。わたしたちの間に、気まずい空気が流れた。
「そうか。まあ無理強いするつもりはない。長いこと寝て随分回復したからな、長期戦で行くさ。明日も来るんだろう?」
「え、あ、うん……」
「楽しみにしてるよ」
気まずい空気なんて気にも留めずに、フィルは明るく言った。それから指をふいっと動かすと、わたしがお供えしたパンが彼の手元まで飛んでくる。
「面白い形だな」
「ち、違うの、これはその、ちょっと失敗しちゃって……! だから無理に食べなくっても」
いいよ、と言うより早く、フィルはぱくっとパンに噛り付いた。
「……かったい」
「だから言ったのに……!」
「はは。まあ、おかげさまで目も覚めた。美味いよ、ありがとう」
パンを持っていない方の手が、わたしの頬を優しく撫でた。