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短編・中編小説など

宇宙人といっしょ

作者: 維酉

 宇宙人をひろった。名前はわからない。幼いおんなのこのかたちをとっている。ひどい無口である。


 そいつは先日、アパートのまんまえで、薄汚い段ボール箱に収まっていた。段ボール箱には「拾ってください」の張り紙、さらに「人畜無害な宇宙人です」とある。


 見た目はふつうのおんなのこである――が、宇宙人なのでアリみたいな触角が前頭部にあった。ぱっちりした瞳も、よくよく覗き込むと六角形の水晶が連なってできている。


 とはいえ、やはり宇宙人らしい箇所はそのていどで、あとは地球のホモ・サピエンスと大差ない。いちおう、服を脱がせばさらにちがいを見て取れるが、まぁどうでもよい。


 わたしはその日、度重なるサビ残と上司のパワハラにずいぶんくたびれ果てていた。心身ともに崖っぷちだった。それでも実はまだよかったほうで、いつもなら帰れないところを運よく逃げ延びて、どうにかむりくり終電に駆け込むことができたのだが、あまりにものがなしい、孤独な電車の、駆動音と白い照明の現実感がすさまじくて、ひとり泣いてしまうほどだった。


 しばらくして、泣きあとのついた顔をひっさげて最寄り駅に降りた。駅舎を出ると耳の奥をすいすい滑るような甲高い虫の鳴き声がした。わたしは無感情に夜道を歩き、いつのまにかアパートに着く。すると、宇宙人がいた。


 そいつはアパートまえの、古ぼけた街灯の下につつましく居を構えていた。あたまにアリみたいな触角をはやし、薄汚いぼろを身にまとったその宇宙人は、灰色の髪をぼさぼさにして段ボール箱に三角座りしていた。


 わたしたちは、べつに、目があったというわけでもないし、わたしが特段、その宇宙人に注目したわけでもなければ、むこうも同じように、はっきりいってわたしには無関心だった。彼女はずっと風呂に入っていないのだろう汚れたからだを丸めて、夜のまっ暗やみを見つめていただけ。


 かくいうわたしも、からだをうごかすのが限界で、さっさとメイクを落として眠りたいとしかなかった。熱いシャワーを浴び、ベッドにもぐって無為に長かった今日という一日を――そのころにはとっくに日付がかわっているけれど――おわりにしたかった。


 それでも、いや、だからだろうか、わたしは宇宙人の目のまえをとおりすぎるときに、ちょっと声をかけてしまった。なんといったか、白状すると覚えていない。「うちにくる?」とか、「いっしょに住む?」とか、それとも「家賃は半分払ってね」とか……とにかく、もう後先を考えられるほど脳のCPUがまともでなく、ぼそりと一言、こぼしてしまった。


 そして宇宙人は、その声を耳ざとくキャッチし、いそいそとわたしの部屋までついてきた。


 で、はだしで玄関に立ったその無口な宇宙人は、「おじゃまします」「おせわになります」の二言だけ口にして、めっきりしゃべらなくなった。わたしはぼんやりした足取りで、まず温水で濡らしたバスタオルを持ってきて、わたしの拳骨くらいのちいさい足を拭かせた。その間に、とりあえず風呂のお湯を張るようにして、それが沸くまでひまだった。ふと思いついて冷蔵庫を開けてみると、がらがらで、唯一、二個入りの冷凍グラタンが野菜室に放り込まれていた。


 足裏を拭いてリビングまで上がってきていた宇宙人に、「これでいいか」と見せてみると、彼女はこっくり肯いて、それきり立ちすくんだ。とはいえ、この子はからだも汚れているし、なによりわたしが早くシャワーを浴びたいので、先に風呂を済ませることに決める。グラタンはあいかわらず野菜室に放っておく。


 寝巻を用意していると、幼いこども用の服などないことに、いまさら気づいた。彼女の服は見るからにぼろぼろで、ところどころ煤けているし、背中の肩甲骨のあたりは破けてやわらかな肌が見えてさえいる。まさかそれを、そのまま着せておくわけにもいくまい。


 仕方ないので、わたしの持っているシャツで、なかでもとくにちいさめのやつを用意した。よく知らないカエルのキャラクターがでかでか描かれているもので、これはちょっとまえにネットで誤って購入し、そのままにしていた。返品してもよかったが、なんとなく気力がなくて、でもサイズが合わないから着ることもできないし、だからてきとうに衣裳棚にしまっていた。まさかこのカエルが日の目を見ることになるとは。感慨深い。


 風呂が沸いたら、すぐに直行した。宇宙人の服を脱がし、もちろんわたしも脱ぐ。わたしのブラウスは洗濯籠に押し込んだが、宇宙人のぼろは、さすがに洗ってもどうしようもなさそうだったので、畳んで籠のそとに置く。


 宇宙人を風呂に入れるのははじめての体験だった。しかし幼い子どものからだを洗い、湯船に浸けてあげるというのは、それだけなら経験がある。むかしは妹をよく風呂に入れてやったから、その要領でいいのなら問題はない。


 でも、実際、この宇宙人は人間とすこしちがう。パッと見てわかりやすいのはその触角だが、これは意外と細く、繊細みたいで、すこし強めに触ったら折れてしまいそうな気配がある。シャワーをやさしくあてたときも、触角だけは濡れるのを嫌がるそぶりを見せたのでやはり気をつけなければならないらしい。


 さて、ほかに身体的特徴といえば、実をいうと、その、彼女には重要な部分がないのである。だからその裸体には――まぁ幼いからだつきであるという意味でも――凹凸がまったくない。これは生命として成り立つのか、もろもろの身体活動がどのようになされるのか、まことに疑問だが、なににせよ、はじめてその姿を見たときの衝撃はつらつら述べなくとも結構だろう。面食らって、とにかくからだを洗ってあげて、湯船にともに浸かるときでもあたまのなかはしっかりこんがらがっていた。


 それでも、風呂からあがって、野菜室に投げられていた冷凍グラタンをレンジで温めはじめてからは……そんな宇宙人の身体的差異なんてどうでもよくなっていた。結局、彼女たちがどういう種で、どういう系をなし、どういう暮らしを営んでいるのかというのは、究極的にはわたしにとって微塵も関係ないのだと気づいたからだ。目のまえにいる宇宙人は、たしかになんらかの種族のひとりで、宇宙の果てでは群れをなしてふしぎな仕組みで繁栄しているのかもしれないが――それはやはり、わたしと、いま目の前にいるこの幼い宇宙人との話ではなく、宇宙の果てというほんとうに存在するかもわからない場所の物語なのだ。


 差し迫っている問題は、そんな気の遠くなるようなスケールのことではなくて、いってしまえば俗な、つまり宇宙人が冷凍グラタンを食べてもだいじょうぶなのか――エビアレルギーとかないのか、乳製品はいけるのか、そもそも地球の食べ物って口に合うのか――という卑近な話なのである。


 アツアツのグラタンをローテーブルに運んだころには、すでに二十四時を回っていた。宇宙人は丸型のクッションを抱いてひとり、三角座りしている。ちいさめのシャツを選んだものの、それでも裾が余りすぎている恰好は、その間抜けなカエルのデザインもあってかわいらしかった。


 身なりを多少整えたからわかるが、彼女はずいぶんかわいい顔立ちをしていた。もちろん、幼児というのはどんな子であっても天性の愛らしさをその身に宿しているものだが、この宇宙人はとくに格別だった。目元はくっきりとして二重だし、鼻筋はシャープで、もっと成長するとおそらくアイドルにもなれそうなくらい愛くるしい姿になるのだろう。前頭部の触角だって、見慣れてしまうとチャーミングだ。


 それに、シャンプーで洗うまでわからなかったのだが、彼女の灰色だと思われていた髪は、実際には銀色ともいえそうなほどうつくしい輝きのある白だった。これは、より丁寧に手入れをすれば、だれもが目を引く艶のある魅力を湛えだすにちがいない。もし時間と、なにより体力があれば、じっくり梳かしてあげたいのだけれど、あいにく余裕がなかった。グラタンを平らげたら、すぐに眠らなければこわれてしまいそうだった。


 とにかく、わたしたちは腹を満たすために、スプーンでグラタンを食べつくすほかなかった。宇宙人も、最初はなんだかんだ警戒して、一口目を運ぶのに数分の時間を要したが、いざ口にすると止まらなかった。彼女はしばらくなにも食べていなかったらしい。


 すっかり平らげると、さっさと寝ることにした。そのまえに歯を磨いて、宇宙人の歯ももちろん磨いて、それから用を足す。宇宙人もわたしのあとにトイレに入った。どうやらひとりで済ませられるらしかったが、どういうやりかただったのかは神のみぞ知るところである。


 照明を消して、わたしがベッドに入ると、宇宙人はどうしたものかとぼんやり立ちすくんでいた。シングルベッドだが、ちいさい子どもとふたりでなら充分寝られるので、来るなら来い、と腕を広げてみる。


 はたして、その宇宙人はベッドにもぐってきた。しかもわたしの腕のなかにからだを丸めて、ずいぶん心を赦してもらえたらしい。わたしは懐かしいきもちになって、彼女のあたまを撫でてやった。触角にさわると嫌がるので、なるべく頭頂部から後頭部を撫でた。


「妹にも」と、わたしは独り言ちる。「こうしてあげてたな、たしか……」


 やがて天使のような寝息が聞こえはじめて、わたしもその健やかな規則正しさに、安穏とした眠りへいざなわれていた。ぬくもりのある眠りは、もうずっと喪っていたもののひとつだった。




   §




 それから宇宙人との共同生活がはじまった。といっても、彼女は宣言どおり「人畜無害」で、一日中クッションを抱えてうずくまっているだけ、手はかからない。


 だいたい、幼いおんなのこというのは、もっと部屋を走りまわったり、外でたまにけがをしたりして、それにしょっちゅう駄々をこねてわがままをいうのが仕事だと思うのだけど、この宇宙人はいつもおとなしく三角座りをしていた。


 こうも微動だにせず、お手洗いにいくときとベッドで眠るとき以外ろくに動かない子どもが部屋にいると、かえって気味がわるい。とはいえ、そもそも、宇宙人は発達の段取りが地球人のそれとちがうのかもしれない。もしくは、見た目が子どもっぽいだけで、なかみは澄ましたクールなおとななのかもしれない……ちょうどどこかの名探偵みたいに。


 どちらにせよ、元気いっぱいで部屋を散らかされるよりましだというのは、たしかにいえた。それに、やはり宇宙人のことだから、なんでも地球人の尺度で彼女の「おとなしさ」をはかるのはよくない。


 宇宙人との一日は、それまでのひとり暮らしと較べて、だから劇的な変化があったわけでもなかった。結局、同居人がふえたとしても、わたしは昼は家にいないので(そして哀しいかな、帰宅時間はきまって深夜である)、彼女と過ごす時間はたいして多くはなかった。


 日中、宇宙人はずっとひとりで部屋にいた。この点で、彼女はついていく人間をまちがえていた。わたしには、実のところ、現住居の周辺に頼れるようなだれかがいない。それも、あたまに触角がはえた妙ちくりんなおんなのこを預けられるような場所なんて、新幹線で六時間の実家ぐらいしか知らない。


 だから彼女はずっと孤独だった。夜遅く、わたしが枯れた草木のようにくたびれて帰ってくるまでは。それでも彼女はとくに寂しがるようなそぶりも見せなかったし、そもそもわたしの帰りが遅いことも、いうほど気にしていないようだった。


 考えてみれば、彼女はこれまで、段ボール箱という劣悪な環境でひとり、雨風に耐え忍んできたわけである。それが、わたしの家にいれば、屋根もあるし、水もあるし、きれいなトイレで用を足せるし――たぶん、それだけで充分なのだろう。


 とはいえ、幼いおんなのこをひとりきりに置き去って仕事に行くというのは、やはり心苦しかった。


 せめてもの罪滅ぼしというか、幼児用の服を揃えるついでに、くまのぬいぐるみをネット通販で買った。赤いフェルト生地でつくろわれた、つぶらな瞳のくまだった。あんがい気に入ってくれたようで、ずっと抱えていた丸いクッションがくまのぬいぐるみに置き換わるのに、さほど時間はかからなかった。




 宇宙人はなにを食べるのか、という重大な生活問題に取りくむ必要もあった。が、結論はあっさりで、イチゴ以外ならほぼ食べられるという感じだった。


 宇宙人は、ほんとうになんでも食べた。ふつう、こういう年頃の子どもは偏食気味で困るのだけど、彼女はなにを出してもパクパク食べる。唯一、イチゴだけはだめだったが、これはいわゆるアレルギーとか、それとも消化器官のしくみとして無理だとか、そういう話ではなくて単なるすききらいらしかった。


 で、そうとわかれば、こんどは献立を考える段階にはいる。とはいえ、わたしにはどうしても料理をする余力がない。日々の仕事で手いっぱい、家に帰ったら死んだように眠るくらいしかできないのに、そのうえ宇宙人の食事の面倒を見るというのは、比喩でなく死ぬ。


 だが、冷凍食品で昼も夜も済まさせるというのは、いよいよ良心が痛みすぎて破裂しそうだった。まがりなりにも宇宙人を拾った身として、そういうぞんざいな扱いを彼女にしてしまうのはよくなかろう。やはり彼女にも人権はあるのだろうし……(とはいえ、彼女に戸籍はあるのだろうか? そもそも宇宙人でも登録できるのだろうか? というようなことを考えはじめると迷宮入りするのでやめよう)


 食事を用意する。やるしかなかった。わたしの、もともと短かった睡眠時間を削ってでも、とにかくやった。たとえばカレーみたいに作り置きできるものを前日につくっておくとか、ごくまれにある休日は台所にこもって食材を用意するとか、とにかくやった。


 で、ひたすら食事をつくっておいて、小分けに冷凍保存しておく。宇宙人には、だから解凍のしかただけ覚えてもらった。これで朝昼晩の食事をぎりぎり用意した。


 自炊するのは数年ぶりだったが、おもいのほか腕はなまっていなかったようで、宇宙人にはぞんがい好評のようだった。彼女は残さずきれいに食べてくれたし、休日でわたしができたてごはんを作れたときは、無言でおかわりを催促することもあった。とくにチャーハンは彼女の大好物になったらしい。


 宇宙人と暮らしはじめてから、わたしは会社に寝泊まりすることがなくなった。なくなったというより、できなくなった。彼女がわたしの家で、ひっそり暮らしながら食いつないでいくためには、わたしが、たとえどれだけ遅くなろうとも家に帰らなければならなかった。


 上司からは職務怠慢の烙印を押されたが、タスクはこなして帰るので謂れないことだった。そもそも、この絶望的な労働環境は、もとより会社がブラックであることを差し引いても異常だ。


 というのは、数か月前、十名ほどの社員が一斉退職するという哀しい事件が起こった。これほどの働き手を喪ったのは、ひとえに弊社の自業自得だが、しわ寄せはすべて残った社員にくるものだから苦しい。本来、わたしの職域ではない業務が雪崩れこみ、もともとの仕事にあわせて泡を吹くほどの業務量になった。


 だからといって、まぁ、わたしは、やめていった同僚たちのことをとやかくいうつもりもないし、みんな、これから先うまくいけばいいと思う。そうでないと、ちょっと報われない。


 仕事が落ち着くことはなかった。というか、たぶん、もうずっと業務量が減ることはない。だからわたしも、さっさと貯蓄を充分にして、こわれてしまうまえに会社とおさらばするつもりだ。でも、その計画も、宇宙人のおかげで先延ばしになった気がするけれど。


 とにかく、わたしは仕事をなるべく切り上げて、終電でいいから家に帰る。からだをひきずるようにして玄関を開けると、なぜか宇宙人が廊下に座って寝ている。


 彼女はわたしの帰りを待っていてくれる。毎日まいにち、眠いなら先にベッドで丸まっていればいいのに、そうしない。しかも、夜ごはんすら食べていないことさえあった。


 廊下で、くまのぬいぐるみを抱きしめて眠る彼女を見ると、わたしはもう、すべてのことがらが善い方向にどうでもよくなった。肩を揺すって、それでも起きないときは触角にふれて、するとちょっと不機嫌そうに目を覚ます彼女を見ると、ほんとうに愛おしかった。


 それだけで、わたしは死なないでいられる。




 わたしたちが会話することは滅多になかった。わたしは早朝と深夜にしか家にいないし、宇宙人はもともと寡黙な子どもだったから、ひとつ屋根の下でも会話が発生しにくかった。


 それでも、わたしから一方的に話しかけることはあった。それは深夜、寝ずに(もしくは寝ながら)わたしを待っている宇宙人に、そう無理して起きていなくてもいいと伝えること。


 そして、まだごはんを食べていなかったときに、いっしょに食卓を囲んで、そのさい料理が口にあうか訊ねること。


 宇宙人は、往々にして声を発して応答することがなかった。なににしても、たいていは首をまっすぐ縦に振るだけで、それから伏目がちになってしまう。すこし寂しい対応ではあったが、わたしにとってはそこまで気にすることでもなかった。


 一度だけ、彼女の身の上について訊ねたことがある。それは春の終わり、世間一般では大型連休ともてはやされている時期のことだったが、そんなもの、わたしには夢のまた夢で、いつもどおり疲れ切っていた、夜更け。


 ふたり、静かな部屋でチャーハンを頬張りながら、どことなく浮ついた夜だった。晩春の暗やみというのは、ひとのたましいを空中ブランコに乗せてくれるような緩やかな空気感がある。もしくは、世間一般の浮かれた雰囲気にあてられたのかもしれない。どうであれ、わたしはすこし気分がよかった。


 それで、いつもより多めにチャーハンを用意して、ささやかで豪華な晩餐をもよおすことにした。うちにはテレビがないので、部屋にはスプーンで皿をひっかく音がこだまするだけ、居心地のいい静けさがある。


 その静けさに、でもちょっぴり華を添えてみようと思い立って、わたしはまずチャーハンが口に合うかを訊ねた。愚問だった。そのころにはもう、宇宙人の大好物はこのチャーハンであると知っていたので、わざわざ訊くまでもなかった。そしてもちろん、彼女はいささか力強い面持ちでしっかり肯いてくれた。


 それから、わたしはいまさらになって、彼女の名前を訊ねた。このとき、宇宙人の好みをすっかり把握していたように、ともに暮らしはじめてすくなくとも二週間が経っている。だのに、実をいうと、名前をまったく知らなかったのである。


 苦しい言い訳をすると、名前を知らなくても困らなかった。わたしが宇宙人を呼ぶときは「きみ」とだけいえば済むし、そもそも彼女は家から出ようともしなかった。だれかに彼女のことを話すことだってなかった。ならば、名前は知らなくともやっていける。


 わたしの問いかけはあくまで、時期が遅れすぎた世間話ていどのものだった。知ってどうするということもないし、ちょっと呼び方が「きみ」から固有名詞にかわるだけ。


 でも、宇宙人はうんともすんともいわず、もはやわたしの言葉を聞いてもいなさそうだった。あいかわらず寡黙にチャーハンを頬張っている。


 わたしとしても、そこまで期待していたわけではない。しかし、彼女の声を聞いてみたいという思いもある。宇宙人を迎え入れたあの日から、この開かずの口からかわいらしい声を聞いたことは数えるほどしかない。


 次の矢。故郷を聞いてみた。宇宙人というのだから、その郷里はきっと広大な空間をただよう惑星のひとつなのだろう。ついでに、どうやって地球に来たかも訊ねてみた。答えてはくれなかった。


 わたしはそこで肩を落として、だがあきらめわるく作戦をかえた。こっちが一方的に問いただすのではなく、こちらから情報を与えてみようと思ったのだ。


 そして、わたしは青森にある実家の話をした。豆腐屋を営むすこし年老いた両親と、いまも実家に残って家業を継ごうと奮闘する妹のことを語った。妹とわたしはいくらか歳が離れていることも、あの子が幼いころは、よく世話を焼いていたことも話した。


 宇宙人はチャーハンを黙々と食べすすめながら、とはいえわたしの話にも耳を傾けているようだった。そして冬、雪が降り積もるころの情景をわたしが語りだすと、もはや食指も止めて聞き入っていた。わたしは、雪の色というのが、宇宙人のま白い髪とおなじように透きとおってうつくしいのだといった。いつかこの子に見せてあげたいと思う。


 いくらわたしが青森の情景を語っても、彼女がみずからの身の上を告白してくれるようなことはついぞなかった。だが、後日、線文字Aのような謎の文字列をてきとうな紙に書いて見せてくれた。その文字列は二行あって、宇宙人はうえの行を指さして「わたし」、したの行を指さして「ほし」といった。どう読むの、と訊ねても、首を傾げられるだけだった。たぶん、日本語の発音で言いなおすのは難儀なのだろうと思う。




 ――宇宙人の出自について、ほんとうのところをいうと、わたしには察しがついていた。だが、これはあくまで推量の域を出ず、おそろしいほど確実性に欠ける。そしてなにより、わたしの推察が正しければ、彼女は真実に孤独なのかもしれなかった。


 五月にしては暑い、寝苦しい夜だった。宇宙人はわたしの腕のなかですぐ眠りに落ち、規則正しい寝息を立てはじめたが、わたしはうまく寝つけなくて、しばらくSNSを見ていた。


 かわりなくて味気ない、凡庸なタイムラインだった。知らないひとの声高な主張がおすすめとして表示され、それをスクロールして虚空の彼方に追いやるというのを延々繰り返す。


 これで眠れるわけがなかった。むしろ眩しい光に目が冴えるばかりだ。それでも続けてしまえるのがSNSのすてきなところである。が、明日も早い。いいかげん電源を落としてネット徘徊をやめてやろうと、いよいよ決心したときに、その動画が流れてきた。


 どこかの国の戦闘機が、未確認飛行物体を捉え、あまつさえ攻撃を加えたという映像だった。動画を投稿したアカウントは、いわゆる「オカルト」をメインに発信しているその筋の有名人で、普段なら気にも留めずに虚空の彼方へ送りつけられる常連だった。


 だというのに、その動画だけは、妙にわたしの気をひいた。画質のわるい、白黒の、しかも肝腎の「未確認飛行物体」も「攻撃のようす」もよく見えないお粗末な映像で、ついでに無音だったが、それでも目を離せなかった。


 数分の動画が終わって、わたしは息を呑んでいた。なぜか嫌な予感がして、喉の奥が渇いた。そして、腕のなかの宇宙人がうなされていることに気づいた。


 彼女がそういうふうに寝息の規則正しさを崩すのは、それがはじめてだった。わたしは、いま再生していた動画と彼女の唸りを関連付けずにはいられなかった。あるいは偶然かもしれない。それ彼女は寝こけていて、動画は無音だったのだから、影響があったと考えるほうが不自然である。


 それでも、もし――ほんとうに未確認飛行物体とやらが戦闘機の攻撃を受けたのだとしたら? コントロールを喪ったそれが、はてしない空をさまよい、日本のどこかに墜落したのだとしたら――あるおんなのこが、奇跡的にひとり生き延びて、未知の惑星をあてどもなくさすらうほかなかったとしたら……


 気づけば、わたしは宇宙人を抱きしめていた。彼女の、ものがなしい汗のにおいを感じながら、その後頭部を撫でた。わたしの推察は、ただ無意味だ。当たっていようがはずれていようが、そんなことはどうでもいい。


 事実として、彼女は孤独だった――それが、ひたすらに実感せられたのだ。彼女はひとりぼっちだ。わたしとおなじように……いや、わたしよりも、ずっと、ずっと。




   §




 五月の暮れ、わたしは著しく体調を崩した。


 早朝、体温をはかると三十八度をこえていた。わたしはとにかく会社に連絡したが、まっ先にいわれたのは「仮病」の一言であり、つぎに出されたのは「出社」のお導きだった。


 わたしは無理やりからだを起こし、さっさと支度をして家を出た。駅の改札で倒れかけ、満員電車で窒息しかけ、それでも息をぜいぜい切らしながらオフィスに到着したころには、世界がセピア色だった。


 この体調不良は、どう考えても、最近の無理が祟ってのことだった。仕事をかなりむちゃなスピードでこなし、どうにか終電で帰ったら、睡眠時間を削って自炊をする。まえまえから度重なる残業とパワハラ、それを乗り切るためのカフェインに文字通り身を粉にしていた状態で、結局はこなせるような無理ではなかったのである。そうやって三十八度の熱を出し、休むわけでもなく、死にかけながらまた仕事をする羽目になる。一周まわってお笑いぐさだ。


 もはやわたしに自我はなかった。ぼんやりした視界で、なんだかあわただしくわたしの手先が動いている。キーボードを叩く音が、うすぐらい洞窟を反響するみたいに聞こえる。今日、わたしは人間ではなく、不出来な一体のロボットだった。


 やがて夜になり、もとよりひとのすくなかった職場からはわたしを残してみんな去り、死に物狂いでわたしも仕事を終わらせると、終電を過ぎていた。絶望した。この世のすべてが巨大な怪獣の腹の底に落ちていくのを待つような、深いあきらめがあった。わたしはオフィスのまんなかで、呆然と立ち尽くす。やがて、亡霊のようにふらふらと、財布とスマホだけを持って夜更けの街に向かう。


 そのころになると、街も眠りに就く支度をはじめていた。だれもが暗やみのなかに息をひそめて、わずかな湿り気を孕んだ五月の哀しみを肺に収めている。わたしは向かうところなく歩き、知らず知らずのうちに駅のまんまえに立っていた。


 と、そうだ、ふいに天啓が降りる。駅にタクシー乗り場があった。わたしは駆けた。足がもつれても走るほかなかった。幸運にも一台だけ残っている。運転手は座席で寝ていたが、窓ガラスを叩くとすぐに起きた。


「どちらまで」


 わたしはアパートの住所を告げたが、一度目は舌がまわらず、訊き返される。二度目でどうにか伝わると、タクシーはゆったり動きはじめた。


 家に着くまでの時間、わたしには車窓の景色がてんでばらばらな、意味の欠如したものごとに思えて気分がわるかった。ものとものとが結びつかず、そこには有意なことなどもたらされず、ひとは孤独で、星は死んでいた。運転手はわたしに一言も話しかけず、ただエンジン音だけがたしかだった。


 いまごろ、家では――と、わたしはぼんやり考える。宇宙人は、わたしを待っているだろうか。いつものように、くまのぬいぐるみを抱えて、廊下で眠りこみ、わたしの帰りを夢のなかでひたすら待ってくれているだろうか。わたしの帰りがずいぶん遅いのを、訝しんでいるのだろうか。それとも、とっくにあきらめて、ひとりでカレーを解凍し、腹を満たしたらベッドで丸まっているのか。このどれでもいい。ただ、わたしは、宇宙人にいてほしいのだ。帰ったら、わたしの家に、ぽつねんといてほしい。いちばん怖いのは、わたしに愛想をつかして、帰りを待つのを彼女があきらめることではない。そこにいないことだ……いつのまにか、ほんとうに知らないあいだに、彼女はわたしの胸のうちの広いスペースを陣取っていたらしい。わたしは彼女を喪うのが怖かった。息切れぎれになりながら、それでも彼女が待っていてくれるなら、ううん、ただ家にいてくれるなら、仕事に行くし、夜にはきちんと帰ってみせる。どこかで倒れても、這って帰る。這って帰って、それから、「ただいま」をいうだけで……すべてが報われる気がするのは、なぜだろう。


 わたしは泣いていた。だから運転手は話しかけなかったのだ。やがてタクシーは停まり、ぼろぼろ涙を流しながら支払いを終えると、喉が灼けるほどの咳をしながら部屋に向かう。玄関の鍵をまわし、ドアノブを捻る。


 宇宙人は、そこにいた。扉が開く音で、彼女は目を覚ましたようだった。寝ぼけまなこをこすりながら、ほんのすこし口角を吊上げるのを見て、わたしは穏やかに「ただいま」と告げ、倒れた。


 意識がもうろうとする。呼吸ができない。噴きだす汗がフロアに滴りおちていく。だれかがわたしの腕をつかむ。ちいさいてのひらだ。宇宙人だ。わたしは嘔吐した。吐瀉物がちょっぴり赤い。


 視界がにじむ。もう宇宙人の顔もろくに見えなかった。遠くから声がする……いや、ずっと近くから。玉のようにうつくしい、彼女の声だ。わたしの名前をさんざん繰り返している。


 わたしは微笑む。ほんとうに微笑みの表情をつくれていたかは、知らない。それでも、宇宙人を不安がらせないように、微笑むしかなかった。それが、わたしの、唯一できる正解だ。わたしがいつまでも喪わなかったものの、きっとひとつだ。


 だいじょうぶ、わたしはほんのちょっぴり眠るだけ。朝になったら、目が覚めて、またきみのために働きに行く。そして、こりもせず夜遅くに帰ってきて、それからきみを抱きしめて眠る。だいじょうぶ、それならきっと、わたしたちは、だいじょうぶ。きっとそうなる。


 わたしは微笑んでいる。次第に世界が遠ざかっていく。宇宙人の熱すら感じられなくなっていく。やがて、もうどうしようもない眠気が襲ってきて、もうすぐだと思う。薄れゆく視界の端で、宇宙人が家を飛び出していくのが見えた。




 スマホのバイブレーションで目が覚めた。薄暗い、見慣れた天井が見える。どうやら自宅の廊下で仰向けになっているらしい。上体を起こそうとすると、口元になにかあてられているのに気づいた。取り外してみる。細長いケーブルがつなげられた白いマスクだった。


 わたしはちいさく咳をして、どうにか起き上がる。からだの節々が痛むものの、死にそうなほどの息苦しさはない。近くには吐瀉物が渇いて散乱したままである。わたしのからだには薄い毛布がかけられていた。


 そして、わたしの手を握ったまま、ぬいぐるみを抱き、挙句にひとの太腿を枕にして宇宙人が寝ていた。わたしはいま、どういう状況なのかがいまいち飲みこめず、とりあえず彼女の白い髪の毛を撫ぜて……それからふいに思い出して、落ちているスマホを拾い上げた。バイブレーションはとっくに止んでいた。


 時刻にして、昼の十一時。そして日付は――わたしの記憶が正しければ、三日飛んでいた。


 まさか! とスマホの通知を遡っていくと、まず上司からの鬼電の履歴があり、次に母、妹、父の電話とメッセージが数十件。それに加えて、青森の友人からの安否確認の連絡が入っている。直近のものは妹からの不在着信で、それが目を覚ましたときのものだろう。


 一気に背筋が冷えてきた。とにかく、だれかひとりにでも返事をしなければ――ひとまず妹に電話をかけようとスマホを操作していたら、また通知が入った。妹からのメッセージ。


『あともうちょっとで着くから!』


 はて。着く、とはいったい――冷静になって、妹からのメッセージを見返してみる。『生きてますか』『だいじょうぶ?』『おねえちゃん?』『返事して』『おねがい』『心配だよ』『生きてるよね?』『明日行くから』……


「って、え⁉」


 思わず叫んでしまった。すると、その声に反応してか、下半身のあたりでもぞもぞ動く気配がする。


 宇宙人が起きた。


 そして、ばっちり目が合った。


「……」


 宇宙人はあんぐりと口を開いて、わたしを見つめている。まるでなにが起きているのかわかってないみたいだ。それは、はっきりいってこちらが浮かべるべき表情だと思うのだが、しかしわたしは肩をすくめて、


「ごめん、起こした」と苦笑する。「えっと……おはよう」


 宇宙人はこくりと肯き、それからぽろぽろと、桜が散るような涙を流した。そして、わたしの実体をたしかめるように胸に触れ、ぎゅっと抱きしめて、声をあげて泣いた。わたしはそれを、ただただ受け止めて、気づくとふたりで泣いていた。


 気分が落ち着いてくると、とにかく、廊下を片付けることにした。床にこびりついた吐瀉物は悪臭を放ってどうしようもなかったが、どうやら妹が来るらしいのでなんとかするほかない。わたしはからだがうまく動かせなかったので、指示役に徹し、実際労働は宇宙人が相当がんばってくれた。そうして床を磨き、消臭剤を駆使して、比較的ましなにおいにすることはできた。


 それから毛布を片付けて、さまざまに入っている連絡に返事をする――そのまえに、まだどうにかしなければならないものが、廊下にあった。


 細長いケーブルがつながったマスク。わたしが目覚めたとき、装着していた謎の代物だ。ケーブルの先にはメタリックな直方体があって、それは宇宙人が両手をひろげてなんとか抱えこめるくらいの大きさである。表面には線文字Aのような不思議な文字列が彫られていた。宇宙人の文明のものだと、見た瞬間にはっきりわかった。


 この簡素でメタリックな装置は、わたしたち地球人の言葉で表すなら、きっと「生命維持管理装置」となるのだろう。現に倒れたわたしに装着されて、回復するまで眠りを保ってくれたのだから。


 とはいえ、いったい宇宙人はこれをどこから持ってきたのか。訊いてみると、彼女はゆっくりかぶりを振って、また泣きはじめた。それは、わたしが目を覚ましたときの、安堵の涙とはちがった。もっと明確に哀しく、寂しく、孤独をかみしめるような涙だった。


 わたしは――彼女をもういちど、強く抱きしめた。その涙は、ほかのだれでもない、わたしが受け止めなければいけない涙だった。逃げ出してはいけない。ううん、逃げ出す必要はきっとないのだと思う。


 妹が来るまでのあいだ、わたしはすべてのものごとを後回しにして、ひたすら宇宙人をあやしつづけた。彼女を抱きしめ、くまのぬいぐるみで気を引いた。そして青森の、冬の話をした。雪が壁のように積もり、暦のうえでは春になっても溶け切らないことを語った。それから、仕事をやめて、ふたりで青森に行こうと約束した。妹には、これまでのことを、宇宙人を拾ったことを、そしてこれからのことを――すべて打ち明けようと決めた。


 それで、豆腐屋の家業をわたしは継ぐのだろうか。たぶん、それはない。地元からすこし離れたところに職場をさがして、また平凡な会社員になるのだ。そして、てきとうなアパートを借りて、宇宙人とふたり静かに暮らし、いつか田舎の雪景色に身を沈める。わるくない。


 正午近く、ふたりぼっちの薄暗い廊下で、ゆっくりと、ぼんやりと、都会という、宇宙という孤独が鎌首をもたげていた。宇宙人は泣き止まない。彼女はこれから、慰めのない、ひたすらな寂しさとともに生きていかなくてはならないのだ。ただ、宇宙にはこういう言葉だってあるらしい。「いきものには――ことばにできないさびしさがあり――それはおおきなさびしさだから――いきものどうしで分ちあわねばならない」


 わたしたちはきっと、もう充分な時間、たがいに孤独を噛みしめてきた。その孤独を、いまからは咀嚼しきって、こんどは分けあう手番だろう。わたしは、幼いおんなのこのすがたをした、愛しい宇宙人を抱きしめる。うつろう世界の、深淵のふちで、涙のあとはきれいだった。


(了)

〈執筆中に参照したもの〉

 Theodore Sturgeon "A Saucer of Loneliness"

 訳は小笠原豊樹「孤独の円盤」(シオドア・スタージョン『一角獣・多角獣』早川書房、2005)をかなり参考にしています。

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― 新着の感想 ―
[一言]  面白かったです! すごく好みのタイプの物語でした。  忙殺されながら生きる、孤独な女性と宇宙人の少女との交流(序盤は交流と呼べないくらいでも)がいいです。  少女の存在が、どんどん大切に…
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