風船
私は宙に浮いていた。なぜ浮いているのかは知らない。不思議で仕方ない。気づいたら浮いていたのだ。
街を初めて空から眺めた。そこには山の傾斜に沿うように建物がずらりと並んでいた。街の終わるところは海だ。海は青く、空と鏡写しの様に思われた。この街は人口3万人程度しか住んでおらず、実に小さい街だった。私は、私の世界のあまりの小ささに驚嘆した。
陽が高くなっていった。陽の光が徐々に建物の影を短くした。海は陽の光を、燦々と水上に揺曳させていた。私は街を細かく覗いた。すると、不自然に整列した建物の合間を縫うように、人々が黒く蠢いていた。この光景は、狂気的であり排他的であり圧倒的だった。ときおり黒い蠢きに肌色が透ける人々もいた。十人二色、8対2である。
そのままぷかぷか自由に動き回っていると、ある公園で葉桜が咲いているのが見えた。葉桜は風に揺れて、丁度ピンク色だけを少しずつ落としていた。人工物の頂点的システムであるcityに忽然と存在する作為的な自然は、ただただ徒労だった。自然に作為が介入して、果たしてそれは自然と言えるか?自然さえも人工物に変貌させる人間は傲慢か?
私はそんなことを考えたが、実のところそんなものはどうでもよく、葉桜を見ると桜餅を食べたくなるのだった。
よく見ると葉桜には青い風船が引っ掛かっていた。その下では子供が泣いていた。私は浮いているのだ。この時を逃してどうする。私は風船を取ることにした。ぷかぷかゆっくり、ふわふわ確実に風船に近づいて、とうとう風船を取ることに成功した。私は風船を持って子供の所に降りて行って風船を渡した。しかし、子供は青ざめた風で、風船も受け取らずどこか遠くに逃げていった。
なんて無礼な奴!そう思ったが無理はない。浮いている人がいればビックリしてしまう。当然だ。
急におなかの空いた私は家に帰ることにした。浮いているときの移動にも慣れて、ひゅうっと力を加えると家までは早かった。空を一瞬で翔けた。
家に着いた私は二階の窓から戻ろうとした。すると、窓からはベッドで寝ている私の姿が見えた。私の傍で肩を震わす母の姿があった。
ああ、そうだ。私は知っていたのだ。浮いている理由も、子供が逃げ出した理由も全部。私は起きたら死んでいたのだ。なぜかは知らないが、そればっかりはそうなのだ。私は今幽霊の状態だ。だから浮いていられたのだ。だから子供には私が見えず、ひとりでに戻ってきた風船に怯えて逃げ出したのだ。
私はぷかぷか浮きながら、私を見た母を見た。私は心の中で、私の肉体に礼を言った。ありがとう。悲しんでいるであろう母にも礼を言った。ありがとう。
すると、母がすごい勢いで浮いている私の方に振り返った。母の顔は怒っていた。
「いつまで出かけているのさ。浮いていないでいいから帰ってきて宿題をやんなさい」
と一呼吸で言った。なんだ私は死んでいなかったのか。