初夜 僕、ダークエルフになります。
その女は月とともにあらわれる。艶やかな髪を弾ませ夜の街を徘徊し、朱い瞳で男の胸を射止めてまわる。その圧倒的な存在感から、いつしか彼女は『月の女王』と呼ばれていた。
◇
「ありがとうございましたー」
扉がからんと閉まる。ここはマジックショップ『猫の目』。ここで僕は下働きをしている。
かつては小村栄太という平凡な学生だった。生前はエルフが大好きで、学業そっちのけでエルフもの買い漁っていた。しかし何の因果か本棚が倒れ、あっけなく圧死。エルフへの未練がそうさせたのか、僕はファンタジーの世界に転生していた。いやぁ、まいったね。
薄い本とはいえエルフに殺されるなんて、ある意味幸せだったのかもしれない。天道人間道修羅道畜生道餓鬼道地獄道と、仏教では六道のいずれかに転生するというが、ここはどれにあたるのだろう。ファンタジーの世界に仏教もクソもないだろうけど、せめて平和な世界であるといいな。
そのあと異世界とはいうものの、農家の三男坊として生まれ牛とともに成長し、特別な能力に目覚めることなく、平々凡々と転生前と同じだけの年齢を重ね、親元を離れてこの『猫の目』で働いている。
「はい、お疲れさん。もうあがっていいよ」
コボルトの店主から許可をもらい、もそもそと着替え店をあとにする。こんな世界に生まれ変わったのに不思議とエルフには出会えていない。それが唯一の不満だった。
「ただいま、っと」
部屋に戻ると鞄から一冊の本を取り出す。この『エルフのはなし』は、この世界で初めて手に入れたエルフものだ。お目にかかれないエルフへの不満を、これを読んで少しでも解消する。最近では月の明かりを頼りに寝る前に、これを朗読するのが日課になっていた。
なんてことのない日常を繰り返す。飛び上がるほどの嬉しさも、身を震わせるほどの悲しさも、怒髪天を衝くような怒りもいらない。凪だ。凪のような生き方だ。
誰からも注目されないかわりに、厄介事にも巻き込まれない。みんなのモブでいること。明日になれば誰もが僕のことを忘れるような、希薄な人間関係。転生前からそういう生き方が身についていた。別に寂しいとも虚しいとも思わない。僕は与えられた運命をやり過ごすだけなんだ。
◇
「起きよ」
誰かが僕を呼ぶ。もう朝か?
「吾が起きよと命じたのだ、さっさと起きよ」
そこには輝かんばかりの美女が仁王立ちで見下ろしていた。あまりの美しさに声が出ない。
「吾は月に住まう夜の神、月の女王である」
金の髪が腰までさらりと流れ、透き通るような白い肌があたりを照らす。海より澄んだ青い瞳に、少女の面影を残した鼻と唇。エルフを匂わせるすらりと伸びた耳。そしてこぼれそうなほど豊かな胸!
さすがエルフの守護神と言われるだけはある。どれをとっても完ぺきな美しさだった。
「発言を許す」
それにしても僕をまたがないでもらえるかな、布面積が小さいそのお召し物では、見上げるといろいろと見えてしまう。昂る気持ちを落ち着かせなきゃ。
「あの、ご用件は?」
神様みたいだからとりあえず、失礼のないように正座でおそるおそる尋ねてみる。
「うむ、吾が月から下界を眺めるたびに、お前のエルフを称賛する声が聞こえてな」
朗読してたの見られてたのか……めっちゃ恥ずかしい!
「ふと友人を思い出し、懐かしい気持ちになったのだ」
ふっ、と女王さまの顔がほころんだ。へーそんな顔もするんだ。案外かわいいとこあるじゃない。
「そこで、毎夜吾とその眷属であるエルフを崇める貴様に、月の加護をくれてやることにした!」
勢いよく両腕を開き体をのけぞらせる。だから見えるって! ん? 月の加護?
「これより月が出ているとき、貴様はエルフの体となる。吾の分身となり下界の者どもを残らず平服させよ、さあ存分に吾を楽しませるがよい!」
勝手に宣言すると辺りが白く霞み、見慣れた部屋の中にいた。なんだったんだ。これは……壮大な夢?
◇
ぼんやりした頭で寝返りを打つと、胸に圧迫感があった。胸? 月の明かりを頼りに体をまさぐると、そこには大きな膨らみが。やっぱり胸だこれ! 慌てて明かりをともし確認する。細くしなやかな指、滑らかな腕。
驚きを隠せぬまま暗い部屋に明かりをともす。自分の見た目に興味がなかったから、全身を映す大きな鏡なんて持っていない。鞄の中に手鏡があったような……あった!
コンパクトに四角く切り取られた世界をのぞき込む。きらきらと輝く銀の髪、月の光をはじく褐色の肌、ワインより深い瞳、蠱惑的な厚い唇。ピンと伸びた細長い耳。どれも見慣れぬ部分ばかり。こんなの僕の顔じゃない。
どれも造形はあの神様と同じだが、配色は写真のネガみたいに反対だ。月の女王さまは少女のように無垢な美しさだったが、鏡に映る姿はじっとりとした色気を漂わせている。
「ダークエルフだ」
ときに勇敢にときに邪悪に、そしてときに淫乱に描かれるダークエルフだ!淫紋が似合うあのダークエルフだ!脳内の秘蔵フォルダが次々と開いてゆく。
心臓がバクバクと鳴り響く。頬から耳にかけて熱が駆け巡ってゆく。朱い瞳に吸い込まれ視線を逸らすことができない。ええやん。めっちゃええやん! 下手な関西弁が雄叫びとして口をつく。
そして、自分の胸元に目を落とす。そこには襟ぐりを伸ばしきるほどの谷間が! これは夢にまで見たふくらみだ。まさか実物を触る前に手に入れてしまうとは。そっと震える指を抑えきれないままそっと触れてみる。……おお、ほんのり汗をかき、しっとりとした肌が指になじむ。形を崩すたびに谷間から熱い空気がこぼれる。なんて柔らかいんだ。そしてこの弾力。
これ以上は手持ちの鏡では確認できない。せっかく女王さまから頂いたんだ、上着を脱いでしかと確認するしかあるまい! そう、これは必要なことだ。自分の身体であるにもかかわらず、恐る恐る慎重にシャツをめくってゆく。はっ!その前に。
ベッドから降りてぴょんとジャンプする。おお、揺れる揺れる。胸って本当に揺れるんだ! ギシギシと床がきしむのも構わず飛び跳ねる。なにこれ、別の生き物みたいによく跳ねるじゃないか。楽しくて仕方がない。息もはずむが構うもんか。何度だって跳んでやる。
よし、じゃあ今度こそ上着を脱ぐぞ、いくぞ、夢にまで見た光景が待っている。いくぞ!
「おい、てめえ、もやし野郎!うるせぇぞ!」
勢いよく扉を叩く音がした。真下の階のゴブリンだ。はしゃぎすぎてしまったか! 僕はあのゴブリンが苦手なんだ。なんというか、粗野で乱暴そうで。今まで怒らせないように細心の注意を払っていたけど、ついにやってしまった。おそるおそる扉に近づく。
「てめぇ、今さら寝たふりしてんじゃねぇ!こちとら朝がはえぇンだ!一発ぶん殴んねぇと気がすまねぇ!」
ダメだ。怒りが怒りを呼んでいる。このまま扉を壊されるのも困るし……意を決して扉を開ける。
「うるさくしてすみません。少しはしゃいでしまって」
扉を開けてすぐに謝る。これで何とか勘弁してほしい。
「……ぉぉう」
緑の肌のゴブリンが顔を赤く染めている。あ、そうか今ダークエルフになっているんだけ。こいつ顔がゆるんでるぞ。
女王さまの造形はゴブリンすら魅了するようだ。そうと分かるとつい調子に乗ってしまう。
「ほンとうに、ごめンなさい」
気持ち悪いほど甘い声を出して、ゴブリンの頬をふわりとなでる。
「……全然かまわない。いや、むしろ歓迎だ。君みたいなひとに出会えるなんて……」
あ、これあかんやつや。あまりにも効きすぎたみたいだ、完全に目がイッてる。
「君の名前を知りたい」
がっしりと手首をつかまれた。腕を振りほどこうとあがいても、ゴブリンはますます力を込めるもんだから抜け出せない。やべぇ、こいつマジになってる。このまま押し倒されたら逃げられない。
脳内で今度は「ゴブリン×エルフ」のフォルダからあれやこれやが次々と開いていく。もちろんR指定のやつ。力ではかなわない。なら別の方向でこいつを脱力させないと。
「だめ。また月がのぼるときに」
なんとなくはぐらかすと、ゴブリンの唇に指をあてた。握力が抜けたのを幸いに、手首を抜き取ると素早く扉を閉めた。ゴブリンよ、余計なことをしてすまなかった。実は僕はさえないもやし野郎なんだ。君の情熱は受け止められない。せめて僕以外に向けてくれ。
「これは運命だ! こんなに身体じゅうが痺れたことはない! オレ、君のためにこの扉から愛を謳うから! これから毎晩君を思って情熱を捧げるから!」
しまった。とっさにとった行動が、更にゴブリンの何かに火をつけてしまったようだ。扉の前でなんかずっと叫んでる。扉を破られないか心配でならない。急いでクローゼットを扉に移動させ、ベッドを起こし、テーブルを寝かせバリケードを作る。
仕方ない今日はお宝の確認はできないようだ。ナイフを両手で構え迎撃の姿勢をとる。恐ろしい怒鳴り声にひるまぬよう、毛布をかぶり一切外の音が聞こえないようにした。
頼む帰ってくれ! 僕が今まで集めてきたデータたちが証明しているんだ! ゴブリンとエルフは添い遂げられない! 絶対にボロボロになるまで犯される!
まんじりともせず身をこわばらせていたが、やがて疲れて深い眠りへと落ちていった。