第1話 プロローグ
倅はカップに残っていた珈琲を、一気に飲み干した。
「じゃ、そろそろ」
「……もう帰るのか」
私は時計を見る。東京で一人暮らしている倅のアパートまで、ここから帰る時間を考えれば、妥当に思える時刻だった。
随分と長く話し込んでしまったようだ。
倅が仏壇のある部屋に向かったのを尻目に、私は彼の上着をハンガーから取り外した。
玄関でせかせかと上着を着込む息子、淳史の背中に、私は声をかける。
「武志にも、たまには帰ってくるように言ってくれ」
「あー、どうかな。兄貴は連絡つくか分からん」
「各地飛び回っているとはいえ、流石にコンタクトは取れるだろう」
「まあ現役時代の親父程、連絡付きにくい訳じゃないだろうな」
「それはそうだ。現役時代の私を舐めるな」
私はクスリと笑って答える。
しかしまあ、倅も随分と落ち着いたようだ。数年前ならば、そんなブラックジョークは言えなかっただろう。
私の妻、倅にとっては母に当たる光子の死も、随分と昔の出来事になってしまった物だ。
少々懐かしんでいると、倅はジトっとした目線を寄越してきた。
「そろそろ親父も働いたらどうだ。定年にはまだ十年以上早いだろ」
「……財産は問題ないだろう?」
「世間体の話をしている」
「それを言われると弱いな」
隠居生活と言えば聞き触りはいいが、結局の所、五十歳にして無職という事実がある。
しかし前職……CIAを諸事情で辞めてからは、何事にもやる気が起きない生活が続いてしまっている。とはいえ流石にそろそろこの自堕落な生活に終止符を打つべきか。
「考えておこう」
「おお、親父が考慮してくれるだけで前進だな」
「実の父に対して随分と失礼な物言いだな。お前の方はどうなんだ」
「……? いやちゃんと働いているけど」
「いい相手は居ないのか?」
「ああ、そういう話……」
淳史は辟易とした様子でため息をついた。
「実家に帰ってお見合いがどうだの相手がどうだのと言われる話、俺には無縁だと思っていたんだけど」
「何せ武志の方は期待できんからな。息子二人生涯独身となれば、あの世で光子にどうどやされるか分からん」
「……だったら早く親父も定職についてくれ」
「その話はどう繋がったんだ?」
「相手の親御さんに挨拶する段になったら、困るだろ。俺にどう紹介させるつもりだ」
「なるほど……」
確かに相手方の家族に、父親が無職だと紹介するのは不味いだろう。
……む?
「お前まさか既に相手が……」
「……いつまで玄関で立ち話してんだよ。もう帰るぜじゃあな!」
淳史は強引に話を切ると、さっさとノブに手を回してドアを開ける。
午後のぬるい風が、室内に流れ込んできた。
「では、またな」
「達者でな親父」
ドアが閉められた音が、室内に響く。
それが止めば、家は随分と静かになってしまった。
「ふぅ」
特に意味もなく息を付き、リビングに戻る。
椅子に深く座り、珈琲を飲もうとしたところで、自分のカップも空になっている事に気がついた。
新しく挽くかと考えたが、思えば今日倅のために入れた珈琲で、豆を使い切ってしまっていた。
とはいえ今の私は珈琲の気分である。どうにも諦めが付かず、近所のコンビニに購入に出かけるのであった。
◇
「……売り切れ……だと」
コンビニの調味料の棚にコーヒーは並んでいる訳だが、該当する場所は空だ。
顔馴染みの店員に聞いてみるも、在庫も無いらしい。
「普通売り切れることは無いんですけどね……」
その顔馴染み店員である、彼女はぼやく。
「保存も聞きますし、言っちゃなんですが田舎ですし、そう売り切れることは無いのですが……店長が発注忘れてましたかね」
田舎。
まあ確かに田舎か。関東圏ではあるが。
彼女は身なりからして都会育ちの雰囲気がある。名前は、名札には「サリ」と書かれている。外国人か、その血が入った日本国籍かと言った所だ。随分と流暢であるから、日本での暮らしは長いと思われる。
私がいつも豆を買いに来るのはここのコンビニなのだが、シフトの関係か良く出会う。そのせいかあちらから声を掛けてくる事が多かった。
さて、目下の問題であるが、もう一つのコンビニとなると少々遠い。そこまで今から出向くのは面倒だ。
「では、今回はインスタントで良いです」
風味は劣るが、不味いわけではない。拘りはあるが、無理に執着することも無いだろう。
さっさと会計を済ませ、店を出ると、後ろから追ってくる気配がした。サリさんだ。
彼女は両手でコップを持っていた。
「すみません、こちら、お詫びの品です」
「おお、それは態々」
彼女が持ってきたのは、いわゆるコンビニコーヒーであった。ホットのラージサイズである。
正直過度な対応な気もするが、今更拒否するのも気を悪くさせるだろう。ありがたく受け取っておく。
「代金は……」
「要りません。私の奢りと考えてもらって」
「しかしだな」
「それにぶっちゃけ、コンビニのコーヒーってくすねてもバレませんし」
「そういう問題では……」
私は財布から小銭を出すと、彼女に押し付ける。
バレないとしても、彼女にそのような行為をさせる訳には行かない。奢られるにしても無職の五十歳が若い女性から奢られるというのは、多少なりともある私の自尊心を傷つけかねない。
彼女は随分と粘ったが、結局受け取って店に帰っていった。
客が少ないとはいえ、持ち場を長く離れる訳にも行かなかったのだろう。
「ではまた、入り用になったら訪ねます」
「ええ。さようなら」
彼女の微笑みに見送られ、私は帰路についた。
◇
後から考えるに、恐らく毒殺であった。
受け取ったコンビニコーヒーの中に、即効性の強力な毒物が混入していたのだろう。異物に気づいた私は即座に指で喉を付き吐き出したのだが、間に合わなかったのである。
事故で混入するとは考え難い。恣意的な物だ。
そして犯人は半自動的に、店員のサリだと当たりがつく。思えば随分と早い段階で声を掛けてきたものだ。
いつから計画されていたのか。いや、最初からか。
証拠隠滅を図るような犯行じゃない。自らが捕まる事を前提とした計画だ。
どの国の手の者だろうか。現役時代に恨みを買った国など、数え切れぬ程ある。それほど私の居た部隊は特殊だった。
しかしまあ、引退して随分と私も丸くなった物だ。これほどありがちな手段に引っかかるとは。
正直な所、引退した上、当時から今にかけて殆ど機密情報を持つことがなかった私に、殺すほどの価値はないと高を括っていた部分もある。
人の恨みというものを舐めていたな。
ともかく、私の人生は齢五十歳にして、県道の電柱下に倒れ伏す形で幕を閉じたのであった。