1ポイント:ミルキーウェイ
「今日、天の川ちゃんと観れっかな」
待ちに待ったこの日、俺は学校から帰宅するなり天体望遠鏡の手入れを始めた。頻繁にするものではないが、一年に一度は綺麗にしている。
これは昔、親父が使っていたもので、小学三年生頃まで夏になると決まって親父と俺、近所に住む同級生・姫野香織の三人で集まって星を眺めていた。俺の天体好きは天文学者である親父の影響だ。
研究で忙しい親父との唯一の楽しみが、一緒に星を眺めること。当時は少し鬱陶しく聞いていた星にまつわる話も今となっては懐かしい。
でも、あの頃一緒にいたはずの二人には、これから先ずっと逢うことができない。親父は癌で、香織は交通事故で死んでしまったからだ。
詳しくは分からなかったが、「その星を発見できれば天文学史に名が残る」と称えられるほどの研究に親父は毎日のように明け暮れていた。俗に言う『世紀の大発見』を成し遂げようとした親父は当然ながら研究所に籠りっきりの生活。家に帰ってくるのは一年のうち数えられるほどしかなかった。
でも、研究に没頭している姿は本当に恰好良く、俺の憧れだった。
母親は、好き勝手やってる親父に文句一つ言わずに家庭を守りながら、静かに見守っていた。心の底から研究が成就する日を待ち望んでいたのだ。
あと少しだ――そう電話で話していた翌日、親父は倒れた。
当初は過労と診断されたが、のちに胃癌であることが発覚。すぐに入院することになった。癌の進行は思いのほか早く、その体を日に日に弱らせていった。抗癌剤治療の努力も虚しく、親父はその二年後に他界。結局、夢を叶えることはできなかった。
その悲しみに追い打ちをかけるように香織の一報が入ったのは一年後のことだ。
「よし、これで準備完了っと!」
ブロアで埃を落とし、アルコールを沁みこませたクリーニングペーパーでレンズを拭きあげた。次に三脚に鏡筒を設置・確認。当然ながら、鏡筒の高さ調節は本番の一発勝負。如何に綺麗な天の川が観られるか、あとは俺の腕次第ってわけだ。
レンズの汚れを取る際、ティッシュで無暗に拭くのはご法度で正しいやり方を知ったうえで手入れをしてあげることが重要。
勝手なイメージだけど、ティッシュで拭いていい機器はこの世にはないと思う。子供の頃にそれでレンズを拭こうとしたら、親父にひどく叱られたことを覚えている。
とにかく、あとは天の川が現れるのを待つだけだ。
「明彦~、ご飯できたよ!」
キッチンから母親の声が聞こえてきた。
「分かった!」
現在の時刻は午後六時。天の川の観測予想時刻まで、あと四時間。ネットで調べたら、それくらいがベストらしい。
今年こそは…。
期待に胸を膨らませながらベランダの戸を閉め、食卓に向かう。
実はここ数年、雨の影響で天の川は観れていない。
明日は天文学部の皆で集まり、今日の観察結果を各々、発表しあうことになっている。
食事と風呂を済ませた俺は再びベランダに出た。外はすっかり暗くなり、星たちも輝きを増している。望遠鏡を覗くと、そこはまさに別世界。
この日は彦星の名で知られる、わし座の一等星アルタイルと、織姫の名で知られる、こと座の一等星が天の川を渡って年に一度再会すると言い伝えられている。この伝説は、中国で生まれたものだそうだ。
織姫と彦星の願いが成就したことにちなんで日本では短冊に願い事を書き、それを願う風習が今でも残っている。
ベタではあるが、俺は文字通り星の数だけある神話や伝説の中でも、この話が一番好きだ。子供ながらに、そのロマンチックさに憧れていた。
「おっ、まさか…あれか?」
レンズの向こうに淡く白い光が見える。すぐにいて座が確認できた。そこから西の順に、さそり座、さいだん座、じょうぎ座、みなみのさんかく座、コンパス座、ケンタウルス座、はえ座、みなみじゅうじ座、りゅうこつ座、ほ座…という星座たちが連なっている。これは間違いなく天の川だ。
「ついに観れたよ、母さん!」
リビングにいた母親に思わず叫ぶ。
「急にどうしたの?」
困惑した様子で駆け寄ってくる母親。
「天の川が観えたんだ!」
「えっ?」
俺は興奮したまま、望遠鏡を覗くよう促した。
「あれが天の川?」
「うん」
「綺麗ね~。私、こんなにハッキリ観たの初めてだわ!」
そう言ってしばらくレンズを覗いていた母親は、
「お父さんも天国から観てるのかな…天の川」
俺に向き直って苦笑交じりに呟いた。その表情は、どこか寂しげに見える。
「観てんじゃねーの? 親父が一番好きだったし、こういうの」
そんなことしか俺には言えなかった。
俺がやったことが善いことだったのか、悪いことだったのかは分からない。親父のことを想い出させてしまったことだけは確かだったけど、
「観せてくれてありがとう」
その一言に救われた気がした
リビングに戻る母親の背を見送った後、再び俺は望遠鏡の前に屈みこんだ。
緩やかなカーブを描きながら、どこまでも続く光の帯――ミルキーウェイ。
夜空とそのコントラストは、言葉で言い表せないほど美しい。俺は時間も忘れて見入っていた。
観察記録を書き終わり、天の川も消えかかったところで今日の観測は終了。マンション七階からの眺めは余計な光も入らず、文句なし。天体観測には打ってつけの場所だ。
望遠鏡をベランダの左隅に片づける。ビニール紐に『ぜったいにさわるな!』と書かれた段ボール紙を通した境界線の内側がいつもの定位置だ。いちいちその紐を取り外してから移動するのは面倒だが、そのまま置いておくのは嫌だ。
ちなみに、段ボール紙の文字は俺が小二の時に書いたものだ。下手すぎる。
「ん?」
望遠鏡を抱え上げようとした瞬間、俺の視界を何かが横切った。
反射的に望遠鏡を覗きこむ。
そこに映ったのは小さな人影だった。マンションの左に見える裏山に向かって、それは徐々に小さくなっていく。
誰なんだ? あの子――そう思うより先に体が動いていた。こんな感覚は初めてだ。
俺はあの子に会わないといけない気がした。
あの子に呼ばれている。
俺は何もかも置いて裏山へと急いだ。
そこには、十歳くらいの女の子が倒れていた。
頭にクリーム色の輪っかを浮かべ、両腕から柔らかそうな羽を生やしている。
ミディアムヘアの金髪で、その顔は見た目よりもさらに幼く見えた。
「天使だ」
直感的に出た言葉。
でも、フィクションでない確信が何故か俺にはあった。周りに誰もいないことを確認して、その子に近づく。
自分の膝に頭を乗せた状態でその子が目を覚ますのを待った。
「可愛い」
寝顔を見て、思わず本音が出てしまう。
「ん…」
「!」
まさか、聞かれてしまったか?
その子は俺の心配をよそに左右に身じろぎした後、ゆっくりと目を開けた。
「どなたですか?」
目を擦りながら、か細い声で呟く女の子。
「えっ、えっと…俺は牛尾明彦。それから、君が空から落ちてきたところを助けたんだ」
「そうだったんですか。ありがとうございます。あの…手を放してもらえますか?」
「えっ?」
手元を見てハッとする。無意識に彼女の手を握ってしまっていた。
「あっ、ごめん! 怪我はないか?」
そう尋ねながら、見惚れてしまう。その全身から神々しいオーラがビンビンと放たれていた。
そして、改めるまでもなく、超絶★スーパー可愛かった。
この瞬間、俺は彼女に一目惚れしたのだった。