魔獣使い
梅雨の合間というのだろうか。その日はとても良く晴れていた。路の両側はどこまでも田んぼが続いていて、まだ幼い稲の頭をかすめるように風が走っている。何か見えない獣が上を通り過ぎているようだと子供は思った。子供は家の外に出ることを禁じられていた。実際今も外を歩いている訳ではなく、この時代には珍しい車に乗せられている。車に乗るのも初めてだが、田んぼを見るのも、川を見るのも初めてだった。家を出る時は新聞で読んだ最近街で多くなったという「街灯」を見るのを楽しみにしていたが、今は昼間だしこの場所は「街灯」など無い場所らしくそれらしいものは無い。しかし、初めての車や初めての景色を見れば「街灯」が見られなかったことはそれほど残念ではなかった。しかし、母は「街灯」が見られなかったことをとても残念がった。母が見たかったわけではない。息子が楽しみにしていた「街灯」を見せることができなかったのが悲しいのだと子供にも分かっていた。と言うのも、子供は今日から家族と別れある家に預けられるのだから。
その家は、人里とは離れた場所にあった。高い板塀に囲まれ、瓦を擁した観音開きの門はしっかりと閉じられていて、人通りなど無いのに中は見えない。その立派な門の前に車が止まると、すぐさま潜戸から迎えの老人が現れた。母は子供に荷物を持たせ老人に短く挨拶をした。老人は一つうなずいただけで子供が母と別れを言う暇も与えずすぐに家に入るよう促した。母を見ようと振り返るも戸はすでに閉じられ母の顔を見ることはできなかった。門から玄関までの2間ほどは石畳がひいてある。その短い石畳の両側も竹と生垣がしっかりとした壁になり、家の中どころか庭をうかがい知るのも難しい。生垣の間に庭に入る竹づくりの戸があるが、竹は隙間なく、飾りもないつくりでしかもしっかりと内側から鍵がかかっているのか開くことは無い。もっとも、そのことに子供が気づくのはしばらく後になる。老人は子供がついて歩くのを気にすることもなく早足で家の奥へと歩いていく。子供は小さな両腕に風呂敷包みをかかえおいてかれまいと駆け足で老人の後を追った。そして、主人らしき人物の居る部屋に通された。
その部屋は庭に面しており、外の風を通すためかすべての戸があけ放され、季節がら紫陽花など楽しめるようになっていた。
家の主は二十代前半ほどのまだ若い男で、洋風な髪型で浴衣姿といういでたちで肘かけにもたれゆったりと座っている。主は子供の方に目を向けるが、とても子供好きとは思えない顔である。
「初めまして、今日からお世話になりまする。」
子供は縁側に正座し、深々と頭を下げた。
「うむ、まぁ入れ」
と主人がめんうどくさそうに座布団を指すと
「あい、わかりました。」
と、主の思いなど気にするそぶりもなくトコトコと敷かれた座布団にちょこんと正座し。また深々と頭を下げる。主人は感心したような顔でその子供を見た。
「お前、年はいくつになる」
「あい、数えで五つになりまする。」
「名はなんと申す」
「炎と申しまする。」
聞けばポンと小気味よく返事をする。面白くはあるが主は少々顔をしかめた。
「して、お前はこの家に何をしに来たか親御から聞いておるか」
「あい」
「説明してみよ。」
「あい。私の家は魔獣を使いまするが、私には修業が必要であるから、師匠について勉強せよと申し付かりました。」
「師匠…」
「あい、師匠はそれは立派な魔獣使いだと言われました。」
師匠と言われた主は「なるほど…」とつぶやき思わず子供から目をそらした。師匠などと言われるのは少々気おくれなのだ。気を取り直し話をづづける。
「ところで、炎とやら。」
「あい」
「お前の家が魔獣使いであるなら、簡単に自分の名を人に教えるなと教わらなかったか。」
主は少し意地の悪そうな顔できいてみた。が子供は
「あい、教わりました。」と答える。
「しかし、これは通り名であります。」
子供は、当然といった風に返事をする。さすが魔獣使いの家だということか。
「なるほど、では本名は別にあるのだな」
主が感心してそのように言うと
「あい、なので私は私の真名を知りませぬ。」
と、これも当たり前のような顔で答える。
「お前、自分の名前を知らぬのか」
「あい、私は少々おっちょこちょい故、両親は私に真名を教えるのはまだ早いと言われました。」
魔獣を使う家系で、子供に通り名をつけ真名を教えないのはよくあることだが、修業に出された場合、家を出る前に子供に真名を教えるのはまあまあ常識である。というのも、魔獣を使う仕事は大変危険で、子供が何年も修業に出されている間、親が死んでしまうこともあるとも限らない。真名が分からなければ魔獣を使う力が弱くなる。それほど生まれてすぐにつけられたその子の名前とは大事なものである。
子供に真名を教えない場合は、あらかじめ師匠となる者に真名を教えておくものだが、主は親御から聞いていなかった。もっとも、子供の真名の管理など頼まれてもそれを聞いたかは微妙だ…と主は考えていると。
「御心配には及びませぬ、私の真名はこれが存じております。」
と、子供は自分のわきを見た。そこにはいつからいたのか獣が伏せている。
「それは、お前の使い魔か」
「あい、炎と申しまする。」
子供と魔獣に同じ名を付けるとは、あきれた親である。
「両親は私が使い魔の名を覚えやすいようにと私と同じ名を付けました。」
炎がにっこりと笑って炎を見ると、炎も従順そうに顔を向ける。
「その魔獣の真名は…」
「あい、炎が知っておりまする。」
師匠と呼ばれている主は少しめまいがした。何という事か。魔獣使いとは、自分の真名と魔獣の真名を契約に用い、その真名を制しているのは当然魔獣使いの方である。それができて魔獣を使役できるのだ。しかし、炎の場合は全く逆でこれでは炎が魔獣に使役しているようなものだ。
しかし、と主は考える。そもそも炎の年で魔獣を使役している魔獣使いなど普通はいない。それは、炎が特異な生まれのためであるから他ならない。しかも、その炎という魔獣は人語を解するのか…?と思い
「ならば、その炎という魔獣は人の言葉は話せるのか」
と問うてみると
「いいえ、炎はまだ幼い故、人の言葉は話せませぬ。私にもっと力があれば、話せるようになると両親はいうのですが…」
と言って、炎が炎の頭をなでると、気持ちよさそうに「クルル」というような声を出す。人語が話せなくても解せるのであればこの会話も聞いているという事なのだろうが、そのようには思えない。主は小さくため息をついた。
「ところで、炎。お前はそのように日中ずっと魔獣を従えておるのか」
主は二人を見ながら聞いてみる。
「いいえ、炎は私が望んだ時にだけ出てきまする。」
「ほう、例えばどんな時だ」
「夜に厠へ行くときにいつも出てきてくれまする。」
ずいぶんお安く出現するものだ。
「…他には」
「叱られて蔵に閉じ込められた時にも出てきてくれまする」
「呼べば出てくるのか」
「呼べば出まするが、呼ばぬとも出まする。」
「呼ばぬとも出てくるとは?」
「この家に入ってからは、炎はずっと私についておりまする。」
炎は少々不満そうに魔獣の炎をみた。どうやら、魔獣の炎は子供の炎の意図に反して現れているようだ。
主はしばらく考える。言葉は話せぬが主の代わりに真名を覚えている魔獣。しかも、この家に入ってからずっと主のそばを離れない魔獣。そして、炎の特別な事情。
「うむ」
主はうなづいた。すべて理解した。のではない。よく分からないのだが。
「わかった」
とりあえずそう言った。とはいえ、何もわかっていなわけではない。
「炎よ」
「あい」
「その魔獣、お主がこの家に入ってからずっと主のそばを離れないのは、この家は他に魔獣がおるからであろう」
「魔獣がいるのですか」
炎が不安げな顔をした。魔獣使いの家なのだから魔獣がいるのは当たり前なのだが。
「魔獣使いになろうともいうものが魔獣を怖がってどうする。お前の家にもいただろう」
主が笑うと
「私はこわがりゆえ」
炎が気まずそうにつぶやく。そういえば、夜道や家の厠も怖いと言っていた。五つとはまだそれほどに幼いのだ。
「案ずるな。魔獣は私に使役している者たちで、お前をとって食ったりはしない」
「しかし、世の魔獣は恐ろしい姿をしているのではないですか。」
炎が不安げに主に尋ねる。
「魔獣にもよるが、しかし、炎とて魔獣だろう。お前は炎の姿を恐ろしいと思うのか。」
「炎は犬でございまするゆえ」
「犬?」
「あい、炎は今は小さな犬の形をしておりますが、私が本当に恐ろしいと思った時には大きな犬の形を致しまする。」
そう言われてみると、炎は白い柴犬の形をしている。
「そうか…」
魔獣を見る目を持っていないのだな。主はそう心の中でつぶやいた。
炎の家は代々魔獣使いの家だと聞いている。この業界は狭いので主も炎の両親や、祖父母のこともよく存じている。よく存じているからこそ、炎を弟子にすることを断ることはできなかったのである。しかし初めての弟子にしては、少々難物である。難物ではあるが、引き受けた以上、面倒を見るしかない。
主は腕を組んでしばらく考えてから、部屋の外の老人に声をかけた。
「宗八、炎を頼む」
宗八と呼ばれた老人は、炎をこの部屋へ連れてきた人物である。炎は気付かなかったが、ずっと縁側に控えていたらしい。
「承知いたしました」
老人はそう言うと、炎に手招きをした。炎は主に深々と頭を下げると自分の荷物である風呂敷包みを胸に抱え、廊下に出るともう一度主の方を向いて頭を下げた。そして急いで宗八の後を追っていった。
5歳の子供とは、あんなものだろうか。いや、5歳にしては礼儀正しいし、なによりよく口が回る。あの小さな、いささか難物の弟子とのこれからのことは想像もできない。「まぁ何とかなるだろう」そうつぶやいてから
「おい、寝床の用意はしてあるか」
と隣の部屋の方へ声をかけた。
「はい、整っております。」
すぐさま若い男が返事をする。
「よし、寝る」
主はそういうと、ふすまを開け隣の部屋へ消えていった。
魔獣使いは主に夜に働く。日中は休んでいることが多いのだ。
炎は老人の後を追った。この家に着いた時もそうだが、宗八という老人は子供の歩調に合わせて歩いてやろうという気質ではないらしい。炎が老人についていくには少し小走りにならないとついていけない。と、宗八はある部屋の前で急に立ち止まった。炎は止まり切れず宗八に風呂敷包みごとぶつかった。しかし、宗八は気にも留めず
「ここがお前様の部屋だ」
と、炎をみた。炎はまだひっくり返っているところだった。
「手水は廊下の突当りが一番部屋からは近かろう。布団はこのようにいつも畳んでおけばよい。お前様の背丈では押入れには届かなかろう」
炎がひっくり返っていることなど気にも留めず、部屋の説明を始める。炎は床に打った腰をなでながら部屋を見る。部屋の広さは6畳くらいで炎の実家の寝間と変わらない。ただ、炎はいつも両親と一緒に寝ていたから広すぎるような気がした。
部屋には布団のほかに、行燈と小さな机が用意されていた。
「さ、荷物を置いてついておいでなさい。仕事の説明をするからね」
「あい」
炎は部屋の机の上に荷物を置いた。部屋を出ると宗八はもう先へと歩いている。炎は急いでまた宗八の後を追った。
炎の仕事と言って宗八が教えたものは、薪運びと水汲み、庭の水撒きぐらいであった。ただ、炎にはどれも初めての作業であったので真剣に宗八の話を聞き、宗八をまねた。宗八も炎を急かすことなくしっかりと仕事を教えた。
また、ほかの使用人たちにもあいさつに回った。炎の家にも使用人はいたが老人と中年女性の二人だけだ。しかし、この家の使用人は十人はいるだろうか。それぞれ掃除をしたり、夕餉の準備をしたり、なにやら帳面を見ている者もいたが、何をしているのか分からない者もいた。
炎の家では、両親も使用人も炎を非常に大事にした。家の外に出さないだけでなく、水で遊べば熱が出ては大変と家に入れられ、箒を持っては、手に傷がついては大変と止められた。普通の子供なら駄々を捏ねそうなところであるが、炎は素直に従った。なぜなら、母が「炎が不憫だ」と泣いているところを何度も見たし、使用人の二人も炎がいないところで「不憫な」と話しているのを見たからだ。「不憫」の意味は「かわいそう」だと何となくわかったが、炎は「かわいそう」だと思われたくなくて、周りの大人たちの言うことに素直に従い、「そんなことはなんでもない」と言う風にしていたのだが、大人たちはその姿をいじらしいととらえ炎にとてつもなく優しかった。祖父だけは炎を厳しくしつけ時にはきつく叱ることもあったが、祖父が笑った顔はとても優しく明るかったので炎は祖父が大好きであった。
宗八は炎をかわいがる風でもなかったが、初めて一人前のように仕事を与えられたこともあり、厳しい態度も祖父を思い出され好もしく感じられた。しかし、他の使用人達は宗八のように厳しい態度だったわけでもかわいがる風でもなかったが、すこし怖いような感じがした。初めての大人ばかり環境にすぐになじめる子供は少ないが、「この人たちと仲良く出来るだろうか」炎は不安げにそう思った。
一通り屋敷を見て回っていると、そろろそ夕餉の頃合いかという時間となった。
「食事はいつも主人と摂ることになっておる」
老人はそういうと、また最初の部屋へと炎を連れて行った。炎は最初『食事は主人も使用人も一緒に摂る』と言われたと思った。実際、炎の家では食事はみんなでにぎやかに食べていたのだ。しかし通された部屋にはお膳が二つあるだけである。どうやら、食事は主と炎の二人で摂るという事らしい。
「宗八さまたちはどこで食べられるのですか」
宗八さまと言われた老人は初めて炎の顔をまじまじ見た。
「あっしらは別のところに食べる場所があります。お前さんはあっしらの事は気に召されるな」
宗八はそう言うとはじめて笑みを浮かべた。
炎が膳の前に座りしばらく待っていると主が隣の部屋から出てきた。どうも寝ていたらしいと炎にもわかった。またしばらくすると飯炊きをしていた若い女性と、女中頭と言っていた中年女性が食事を持ってきた。献立は白いご飯に汁物。魚の焼き物に芋の煮物がついている。炎の実家よりも豪華な献立である。炎は思わず「わぁ」と声を上げた。
「お前の家は普段どのような物をたべているのだ」
主は炎に尋ねた。
「家では白いご飯はたまにしか出ません。おかずは香の物か小さな魚と菜っ葉が入ったお椀がでまする。」
膳の用意をしていた若い女がそれをきいて「ぷっ」っと笑った。炎はそれに気づくと恥ずかしくなって俯いた。
「紅玉、無礼だぞ。下がれ」
主が女中に向かってそのように言うと
「あれ、これは失礼しました」
と、紅玉と言われた女中はおちゃらけたよう笑って部屋を出て行った。もう一人の女中頭も頭を下げただけでしずしずと部屋を出て行った。炎はまだ顔を真っ赤にして俯いている。
「家のものが不躾で失礼なことをした。」
ふと炎が顔を上げると、炎にとって師匠である人物が炎に対して頭を下げている。急に炎の心のもやもやしたものが晴れた気がした。
「折角の夕飯だ。おいしく頂かねば損だぞ」
主は頭を下げたまま上目づかいで、それでいていたずらっ子のような笑顔で炎を見た。
「あい、いただきます」
炎はにこりと笑うと、礼儀正しく「いただきます」をしてご飯を食べ始めた。主もそれを見て膳に箸を付けた。二人は大して会話すことなどは無かったが、あれがうまい、これがうまいと言いながら夕餉の時間を過ごした。
主は食後しばらくすると着流し姿に着替え、何人かの使用人を連れ仕事へと出て行った。出ていく際に宗八に「炎を頼む」と言い残し、炎には「ゆっくり休め」と声をかけた。
宗八はまず炎に風呂に入らせた。一緒に入ることは無かったが、脱衣所から「湯加減はどうだ」とか「しっかり洗えたか」などたびたび炎に話しかけた。風呂から上がると家から持ってきた寝巻に着替え、昼間案内された炎の部屋に連れていかれた。
炎は布団を一人で敷いたことがなかったので、宗八も一緒に寝床の用意をした。炎が布団にこもったところで
「今日はゆっくり休まれよ」
と言って、明かりを消し奥へ下がっていった。
炎は初めて一人になった。布団にこもっていると急に色々思い出された。優しかった実家の使用人や家を出る時心配そうに見送った父の顔。そして、しっかり別れを言えなかった母のこと。次々思い出され涙が出た。涙はとめどなく流れ寝巻の袖やら布団やら枕やらを濡らしていく。そうこうしているうちに炎は寝息を立て眠ってしまった。そして、いつの間にか大きな犬の形になった魔獣の炎は主の傍らで警戒するように周りを窺っていた。
翌朝、まだ日も登りきらない時間、炎の寝間の縁側から「仕事の時間でございます」という宗八の声が目覚ましとなった。炎は眠い目をこすりながら昨日言われたように井戸から水を汲んでお勝手の甕の中に水を溜めた。炎の力では甕に水を溜めるのに井戸からお勝手まで8往復はしなければならなかった。魔獣の炎は主人を手伝うことなく同じように8往復行ったり来たりするだけだ。姿は白い柴犬の姿である。炎が何往復もしているのを片目に宗八は慣れた手つきで薪を割り、炎の水汲みが終わると「次」と薪の山を指さすと炎は「あい」と返事をし、薪を抱えられるだけ抱え、風呂の焚き場まで薪を運んだ。同じく炎もついてくる。炎が薪を運んでいる間、宗八は風呂を沸かし始める。しばらくすると風呂場から湯をかぶる音が聞こえてきた。「湯加減はどうですか」「うむ、ちょうど良い」。聞こえてきたのは師匠の声であった。いつの間にか仕事から帰ってきているらしい。
「炎はそこにいるのか」
風呂場から声が聞こえたので
「あい、ここにおりまする」
と返事をする。
「もう一人の炎はどうしておる」
「あい、ここにおりまする」
何ともなしにそのように返事をすると、宗八が驚いたように炎を見たことで、炎は初めて宗八に魔獣の炎が見えていないことに気が付いた。しかし、魔獣使いの家に仕える宗八には不思議なことも慣れたものでそれだけの事であった。風呂焚きの火加減が安定したところで
「坊ちゃん、残りの薪はお勝手の方へ」
置かれた薪の山を指さした。炎は宗八に「坊ちゃん」と呼ばれ、ちょっとびっくりしたものの「あい」とまた大きく返事をし言われた通り薪をお勝手へと運んだ。お勝手には使用人たちが朝ごはんの用意を始めていた。
「おや、坊ちゃん。朝早くからご苦労様」
不愛想な女中頭がこれまたにこりともせず炎に話しかけた。ここでもまた「坊ちゃん」と呼ばれるらしい。
「あい、おはようございまする」炎は少し恐縮して深々と頭を下げた。そんな炎を見て紅玉がまた
「坊ちゃんなんてなんだかこそばゆい呼び方だね」と「きゃはは」と笑い膳を奥の部屋の方へ躍るような足取りで運んでいく。見事な身のこなしに見とれていると
「坊ちゃんも朝餉をとってきなされ」と宗八は女中頭に「ぬれ手拭いをやっておくれ」と言うと女中頭は少し嫌な顔をしたように見えたがすぐに手拭いと桶をとってきて手拭いで炎の顔を拭き、手をぬぐい、最後に足を洗った。女中頭も魔獣の炎を気にする風でもないが、見えているのか見えていないのかは分からない。
足の濡れたのをふき取ったところで昨日の師匠の部屋へと向かった。師匠はもうすでにさっぱりとした姿で膳の前に座っていた。朝の献立は白いご飯に汁物、香の物、菜っ葉の御浸しと言うものである。炎はまず両手をついて「おはようございまする」と師匠に挨拶をした。
師匠は「おう」とだけ返事をすると、膳に着けと手で合図をしたので炎はその通りにした。と、師匠が
「今日の気分はどうだ」
と炎に尋ねると
「すこし眠とうございまする」
と正直に答える。
「まぁそうであろうよ」と師匠はつぶやき
「では、食べるとするか」と朝食を食べ始めた。
炎も「いただきます」と丁寧に手を合わせ朝食を摂り始めた。もう片方の炎は休憩とばかりに炎の横で丸まって寝はじめた。
朝食後、師匠はまた奥の部屋へと寝に行ってしまったので炎は宗八のところへと戻った。当然魔獣の炎も炎にピタリとついてくる。宗八はなにやら帳面を付けているところであったが、炎の顔を見ると「ああ、戻ってきたか」と言って、傍らにあった弁当箱のようなものを持って歩き出したので、炎も黙ってついて行った。
ついて行った先は炎に与えられた部屋であった。宗八は机の上に箱を置くと「さぁ」と炎に座るよう促した。炎が机の前に座っている間、宗八は箱の蓋を開け中から短冊ぐらいの大きさに折られた半紙を取り出した。半紙の下には硯や小ぶりな筆などが収められている。小ぶりな筆と言うのは、書初めなので使うような筆ではなく、俳句を書くような細筆のことである。
「文字は書いたことがあるかね」
「あい、おじいさまから習いました。」
「ならば」と硯やスミが入った箱を炎の方へすっと滑らした。そして、半紙を広げ、懐から水入れを取り出し箱の中の硯に注いだ。
「墨をすりまするか?」
炎が墨を持とうとすると
「いや、まず水で練習してみなされ」
と、宗八はまた懐から別の紙を取り出した。紙にはぎっしり文字が書かれていた。すべて仮名ではなく漢字である。炎はそれを見ると
「般若心経でござりまするか」と宗八に尋ねた。
「そのとおり、さすがですな」
とあまり感情が動くことがない宗八が感心の声を上げた。が、炎は顔を赤くしてうつむくと
「あい、ですが私が読む経には、母上がふりがながを付けてくれました故、これを読むことはできませぬ」
と、さも申し訳なさそうに答える。このようなお経を大人でもふりがな無しで読めなかったとしても恥ずかしいものではない。宗八はにこりと笑うと
「わかり申した。私がふりがなをふっておきましょう。」
そう言って、炎の見やすいあたりにお経を広げ、
「主から坊ちゃんに文字を書く練習をさせるようにと言いつかっております。私の指の動きを見て一文字ずつ書く練習を致しましょう。」
そう言ってから宗八は袖口から筆を取り出し、筆に水を含ませると半紙の上に「般」と言う文字を書いてみた。炎は、一生懸命目を凝らして宗八の筆の動きを追おうとするが、よく分からない。するとそれを察した宗八が、炎の筆に手を添えて先ほどの早さよりもゆっくりとした動きて「般」と言う文字を書いた。二度目は、「ここは留める。ここは撥ねまする。」と筆の動きを説明しながら。三度目は普通の速さで手を添えて書いてみる。四度目は
「次は一人で書きまする。」
と炎が言うので宗八は傍らで見ていたが、書き終ると筆の持ち方、筆先の使い方の悪いところを細かく指示した。そうして、その日の文字の練習は「般」を書くだけで過ぎてしまった。と言うのも、山の寺の方から三つの鐘の音が鳴るとそろそろ湯を沸かす準備などを始めなければならない。宗八に言われて筆などを片づけ、また井戸のあるお勝手の仕事に向かった。
『一日一文字なら、あと何日かかるのだろう』先の見えない『文字の練習』は自分を母や実家から増々遠ざけるように思え心細さを募らせた。
その日も慣れないまでも何とか自分の仕事をこなし、夕餉は師匠と文字の練習の話などし、寝る時間となった。
2回目の夜である。
昨日と同じく一人になると急に心細くなる。しかも、昨日は気付かなかったが明かりを消すと闇が深い。魔獣の炎は、炎が一人になった時からもう大きな犬の姿に変身していた。部屋は暗くても炎の毛はうっすらと光っているようでそれだけで頼りになる気がする。なので、炎は炎の体に埋もれるように横になった。怖さや心細さはあるが、体が疲れているようで睡魔はすぐにやってきた。「そういえは、炎はいつ眠っているんだろう」ふっとそんなことを考えたが、考えをめぐらす間もなく睡魔に覆われた。
三日目の朝になった。宗八に起こされ、また水汲みから一日が始まった。師匠は昨晩の仕事は無かったようで、朝の風呂焚きは無かったが、風呂掃除を手伝った。手伝ったのは天嵐と呼ばれている若い男である。天嵐は陽気な若者であったが、炎は少し苦手であった。天嵐が壁などを拭いている間、炎は床をたたわしでこすった。天嵐の風呂掃除は遊んでいるのか踊っているのかと思うような軽やかなものだった。鼻歌を歌いながら片方の壁を拭き終ると床を磨いている炎をポンと飛び越えて向かいの壁に移動する。頭上を飛び越えられたのが気に入らなかったのか、魔獣の炎が天嵐に向かって毛を逆立てた。天嵐は
「おっと、悪いね」
と、悪びれた風もなくニッと笑ってまた鼻歌を歌いながら掃除を続けた。炎に言ったようにも、魔獣の炎に言ったようにも見えるが炎は「この人は魔獣が見えるんだな」と自然に思った。
風呂掃除が終わり、お勝手の方へ行くと「朝餉の用意ができましたよ」と女中頭が言ったので、そのままいつもの部屋へと向かった。部屋には女中頭の言う通り朝餉の膳がすでに並べられており、師匠が読み物を読みながら待っているところだった。炎はいつもの通り両手をついて
「おはようございまする。」
と挨拶をすると、膳の前に着いた。師匠はそれを見て
「では食べるとするか」
と、箸を持ったので炎も「いただきます」をして朝餉を食べ始めた。魔獣の炎は食事の時は寝ると決めているのかまた炎に寄り添いながら丸まって眠っているようだ。と、師匠が
「今日の気分はどうだ」
と聞いてきた。昨日と同じ質問である。炎は少し考えてから
「今日も少し眠とうございまする」
と答えると、師匠は
「ふむ、そうか」
とだけ言って、またいつもと同じような他愛もない会話をしながら朝餉の時間を過ごした。
朝餉を食べ終わると次は文字の練習の時間である。昨日と同じく宗八が炎の文字の練習に付き添った。昨日は「般」だけで終わってしまったが、今日は「般若心経」の「経」まで進むことができた。宗八から見ればまだ先は遠いのだが、炎は「今日は3つも文字を覚えました。」と喜ぶのが、宗八にとっても喜ばしいことであった。
そして三つの鐘が鳴ると仕事に戻ることとなる。水汲みと薪運びに水撒き。桶一杯の水も持つことができない炎にとっては重労働である。そのあとは夕餉となるのだが、この日の炎は食事をしながらも起きているのがやっとと言う風である。まだ5歳の子供が昼寝もせずに活動しているのだから当然と言える。が、ゆらゆらしている間に茶碗を持ったままひっくり返ってしまった。
気が付いたときはもう朝であった。いつものように宗八が「坊っちゃん、仕事の時間です。」と起こしに来たので目覚めるとそこは炎の寝間ではなかった。布団も炎が使っている布団よりも立派で大きなものである。ここはどこかと周囲を見渡すと左手に師匠の着物が掛けられていたことから、師匠の部屋であると見当がついた。
「宗八様、私はなぜここに寝ているのでしょうか」
炎は掛布団を畳みながら尋ねた。大きな布団は炎一人では畳きれないとみて、宗八はさっと手を貸す。
「昨晩の夕食時にご飯を食べながら寝てしまわれたのですよ。主は食事後仕事に行くことになっておりましたので、このまま隣の部屋で寝かしつけるようにと申されました。」
ご飯を食べながら寝てしまうなど赤子のようだと炎は恥ずかしくなった。
「主人は致し方ない事だと申しておりましたよ」
そう言って、布団を片づけたところで隣の部屋へと続く襖を開けると朝餉の膳が用意されていた。上の席には師匠がもう座っており、しかも風呂上りらしく浴衣姿であった。
炎は自分が思ったよりも長く寝ていたことに初めて気づいた。
「私の朝の仕事は…。」
申し訳なさそうに師匠と宗八の顔を交互に見上げた。
「今の仕事はこの朝餉を食べることだ。」
師匠は早く座れと手で合図するが、炎はまだもぞもぞと座ることをためらった。
「炎よ、お前はここに何をしに来たのだ」
師匠の問いに
「魔獣使いを習いにまいりました。」
と言って、炎は「はっ」とした。
「そうだ、水汲みや薪運びをしに来たのではない」
炎が宗八を見るとちょうど宗八が部屋から出ていくところで、にこりと笑って会釈をすると襖を閉じた。どうやら朝の仕事は本当にする必要がないらしいと納得して炎はようやく膳の前に座った。いつもの朝餉よりも豪華なおかずが並んでいた。
「さて食べるとするか」
師匠がそのように言うので、いつものように「いだたきます」をしてご飯を食べ始めた。食べ始めて大分お腹が空いていると気付いた。食べながら師匠が炎に話し始めた。
「炎よ、魔獣使いに必要なものは何かわかるか」
炎はご飯を頬張りながら無言で首を左右に振った。
「魔獣を従えるのに一番必要なのは『気』の力だ」
炎はきょとんとした顔で、なおもご飯を食べ続けている。
「…気とは何かわかるか」
師匠の質問に炎はまた首を左右に振った。
「気とはたとえば、『元気』も『気』の一つだ。魔獣は主の『気』を餌に力を使う。魔獣を使えば『気』が減る。『気』を使いすぎると体が動かなくなったり病気になることもある。わかるか」
今度は炎が頷いた。
「ここに来てから魔獣の炎は四六時中姿を現しているのだろう?お前の気も知らずにいつもより多く使っているという事だ」
炎は炎をみた。炎はいつものように食事時はぐっすり寝ている。
「『気』の力を強くするには体を鍛えるのが手っ取り早い。朝と夕の水汲みや薪運びは体力作りの為にしていることだ」
炎を見ると真剣な顔で話を聞いていたのだが、茶碗が空になっていることに気付き米櫃を持ってくるようにと奥に声をかけた。
「お前はまだ小さいから、体を大きくすることも仕事だ」
そう言って間もなく届いた米櫃から師匠が自ら炎の茶碗にご飯をよそった。「次からは自分でよそうのだぞ」にこりと笑ってそういうと、また飯を食べつつ話し始める。
「よく食べて、よく働いてまずは体を鍛えよ。そして、文字を覚える。」
炎が頷く。炎の読解力は普通の子供であれば『神童』と呼ばれても良いくらいのものである。話す言葉も普通の子供の比ではない。
「文字を覚えるのは何の為かお前は分かっているのだろう。実家では新聞や大人の読む書物も読んでいたらしいな」
「あい、まじないを覚えるために沢山の言葉を覚えなければならないと祖父が申しておりました。お経などは自分では読めませぬが。」
「何かまじないは使えるか?」
「ひとつだけ使えまする」
「炎を使役するものか?」
「あい、これを言うと炎が大きな犬になりまする」
炎が今までになく屈託ない顔で笑う。自信があるのだろう。
「ほう、あとで見せてもらうとするか」
「あい」
朝餉が終わり膳がすべて片づけられると、縁側の戸が開かれた。昨晩雨が降ったらしく地面は濡れている。空は青いが雲が多い梅雨らしい晴れである。蒸し暑くはあるが、戸を開くとよい風が吹いている。
天嵐と紅玉が呼ばれ、日よけを吊るすように師匠が指示した。宗八は蚊取り線香を用意している。師匠はいつもの場所にゆったりと座っているし、炎もその向かいにいつものように座っている。魔獣の炎は炎に寄り添って伏せているが眠ってはいない。
「さて、炎。いつでもいいのでやってみよ」
「あい」
天嵐と紅玉が何が起こるのかと外から中を窺っている。と、炎が左手を鼻先で合掌のようにし、右手を胸にあて
「汝、主を守る壁となれ」
と、唱えた。
一瞬、炎の周りに風が吹いた。炎は魔獣が大きくなる気配を感じたがと同時に、外にいた天嵐と紅玉が「ぎゃ」と悲鳴を上げたので驚いて外を見と二人は濡れた庭に膝をついている。
「主よ、悪戯が過ぎますな」
天嵐が赤く光った眼で師匠をにらむ。
紅玉と思っていた方の胴体は蛇の姿となり、言葉は発しないが赤い舌をチロチロとさせて睨んでいる。
余りのことに炎は怯えて腰を抜かしそうであるが、魔獣の炎は主を守るように前へ出ると、庭の二人を睨み返している。フッーと噴出した息には青い炎が混じっている。今にも飛び掛かりそうな勢いである。そのとき、
「炎、沈まれ」
と師匠の鋭い声がした。炎は「はっ」として魔獣の炎に手を置いて「炎、沈まれ」と言うと炎は臨戦態勢を取りやめたように傍らに座った。
「ほぉ、これが炎の本当の姿か」
初めて見たと、師匠が炎に近づき感心しきりに見ている。
「師匠、これは…」
炎はそんなことより庭の二人の姿が気になる。
「お前は気付いていないようだが、うちに多くいる魔獣たちは普段は人の姿で使用人をしておる」
師匠はそう言いながら外の二人に近寄る。
「天嵐は妖狐の仲間で紅玉は見た通り蛇だ。細かいことはおいおい覚えていけばよい」
そう言うと、さらに二人に近づき
「お前たちが炎を喰う算段をしていたのは知っているぞ。」と炎に聞こえないよう耳打ちした。
「やはり主は侮れんな」天嵐も小声で返す。
「命を助けてやったのだ。炎の力を見ただろ。炎はただの魔獣使いの子供ではない」
「確かに」と天嵐は納得し、紅玉をつれて戻っていった。
炎はまだ怖がって炎の背中にしがみついている。
「さて」と師匠はまた部屋に戻ると
「炎、お前にはその魔獣が大きな犬にみえているのか」
炎を指さしながら問うた。
「あい、そうでございます」
炎はなぜ師匠がそんな質問をするのか分からないようである。
「炎はどんな姿をしておる」
さらに師匠が問うた。
「犬のように毛でおおわれておりまする。首の辺りの毛は長く、炎のような毛色をしておりまする」
「頭に角は生えているか」
「あい、角は一本生えておりまする」
師匠はうんと頷くと
「それは麒麟と言うものだ」という。
「麒麟?犬ではないのですか」
「それは犬ではない。また、魔獣ではなく聖獣と呼ばれている。聖獣は力が強くそれを使役できる人間は少ない。しかし、お前は麒麟憑きで産まれてきた。魔獣使いの家系では時々あるのだが、炎の家系ももともと麒麟憑きの家系だそうな」
「あい…炎は私と一緒に産まれてきたと聞いておりまする」
炎は今度は大事そうに炎に抱きついた。
「あいにく、麒麟憑きについては詳しく知らないが、麒麟憑きに産まれて来た者は一刻も早く魔獣使いの方法を身に着けなければならないと聞いておる。」
炎はうんと頷いた。
「お前は麒麟憑きについてどこまで聞いておる?」
「炎を守るためには立派な魔獣使いにならなくてはならないと」
炎とは人の事か麒麟の事を言っているかは分からないが、どちらでも同じことである。憑代の主が死ねば麒麟は死ぬ。麒麟が死ねば主が死ぬと言われている。
「よく励んで強い魔獣遣いにならないとな」
師匠は炎の頭にポンと手を置いた。
「あい」と炎ははにかんだ。
「冷やし飴を持ってまいりました。一服したら手習いをしましょう」
宗八が盆の冷やし飴を二人に手渡した。炎は両手でそれを受け取り上目づかいで宗八を見た。
「宗八様はどのような魔獣でございますか」
「…私は人間でございます。」
師匠が声を上げて笑った。
産まれた時、その赤ん坊の傍らに麒麟がいればそれは「麒麟憑き」と言われる。数十年に一人くらい霊能力の高い家系に生まれてくる。聖獣である麒麟を喰らうとその力を得られるらしく、麒麟憑きは魔獣に襲われることが多く、幼い時に命を失うことなど珍しくはない。仮に育ったとしても、その子供は必然的に身を守るため魔獣使いか魔獣狩りになることとなる。しかし、麒麟憑きの子供はもともと、その才能が高く成人になるころには魔獣を2~3体は使えるようになることが多い。普通の魔獣使いが生涯で使える魔獣は多くても2体ほどなので、これは大変多い数字なのである。麒麟憑きだから霊力が高いと言われることもあるが、おそらく、麒麟が身を守るため霊力の高い人間を選んでついているのだと考えられている。
しかし、炎がそのようなこと(魔獣におそわれやすいこと)など知るのはまだ先であるし、魔獣を何体も使える稀代の大魔獣使いになるのもまだまだ先の話である。