7 “影”との戦い
休憩を終え、アイリスが先頭で元の洞窟へと、戻って行く。
暫くしてテテュスはまた、真っ暗な中に仄白く光る苔に道行きを照らされ、緑と風と光の世界が遠ざかるのを感じた。
アイリスはぐんぐんと速度を上げ、ディングレー始め後続隊は皆、前の馬の尻が僅かな白い光に浮かび上がるのを、ただ黙々と追いかけ続けた。
「かなり速度が、上がってるな…!」
オーガスタスが告げると、ローフィスは頷く。
「飛ばせる内に、飛ばしとこうという腹だろう?
その内、厄介な場所に出る」
オーガスタスは顔を下げた。
「やっぱりか?」
前方のカーブを曲がるとその先に、明かりが見えた。
松明の明かりで、それが洞窟の壁に大きく不気味に揺らめき、一同は前方を凝視した。
『人が居る…!』
テテュスは胸が、どきどきした。
盗賊か、それとも………。
どどどっ!
蹴立てる幾数人の駒音に、松明を掲げた馬上の男達が、振り返る。
その先は丁度二股に分かれ、左側は細い道だった。
みすぼらしい格好の、あまり人相の良くない男が三人、どちらに馬を進めようか、途方に暮れているように見えた。
馬を止めるアイリスの横で、ディングレーは内心思った。
『盗賊の、使い走りってトコだな…』
男達は立派な騎士が大勢居るのに、へつらい笑いを浮かべ、正面に居るアイリスに話しかける。
「道に、迷っちまって。
旦那はこの辺りは、ご存じで?」
アイリスが、それでも丁寧に尋ねる。
「どちらにおいでに成りたいんですか?」
「ロッカ山に出る、近道だって、聞いたんですがね」
「それなら、右の広い方の道だ。
その先の枝道を全部、右に行けば出口に辿り着ける」
男は粗末な帽子を揺らし、頷いて軽い挨拶をすると、三人の男は松明の明かりを揺らめかせ、右の道へと進んで行った。
駒音と松明の明かりが洞窟の奥へ消えて行くと、アイリスは振り返り言った。
「連中が次の枝道を右に曲がる迄、ちょっと休もうか」
皆がやれやれ。と馬を降り始める。
皆、酒瓶や水筒から喉を潤す。
テテュスもレイファスも、ファントレイユも一本の飲み物を回し飲みした。
神聖騎士団の用意してくれた飲み物は木筒に入っていたけれど、爽やかなミントの葉の浮かぶ新鮮な水で、飲むととても気分がすっきりとした。
ファントレイユが口を拭う。
レイファスがそっとテテュスにささやく。
「てっきり、化け物かと思った」
テテュスは暗闇の中、光苔に仄白く浮かび上がるレイファスの可憐な美少女のような顔を見つめ、頷く。
「僕も凄く、どきどきした」
ファントレイユが、そっと言った。
「普通の人間だったね」
ディンダーデンが馬の様子を見るアイリスの横に来て、尋ねる。
「後、どれ位だ?」
「半分以上は、来てるかな?
けどこの先、山の下を抜ける。
そこは起伏に富んでいて天井から地下水が染み出し、肌寒い」
ディンダーデンは横を向いて、ぼそりと落胆した声でつぶやいた。
「有り難い」
ディングレーも馬の首を撫でながらささやく。
「また水に、浸かるか?」
アイリスは振り向くと
「水の溜まり具合で、そういう場所もあるかもしれない」
ディングレーは顔を下げ、吐息を吐いた。
「………そうか」
ローフィスがゼイブンの横に来ると、告げる。
「障気には、出くわさないな」
ゼイブンはローフィスを見たが、素っ気なく言った。
「まあ、今の所はな」
二人の視線が合い、真剣味を帯びる。
オーガスタスはその二人の神聖神殿隊付き連隊員の様子につい、大きなため息を吐いた。
つまりやっぱり、この先出くわす機会が、あるという様子だ。
ギュンターは吐息を吐くと、そっとローランデを盗み見、またもう一度吐息を吐く。
「やせ我慢も、限界に来ているか?」
隣で顔を覗き込むディンダーデンの問いに、かっか来て言う。
「解ってんなら、聞くな!」
アイリスが顎をしゃくり、全員が短い休憩を終えて、騎乗する。
アイリスがさっきの連中と同じ、右の道へと消え行くのに、皆が一斉に、馬を蹴立てて付いて行く。
やはりかなりの速度だった。
ヒヒン!
アイリスの馬が前足を蹴立て、突然止まる。
皆慌てて手綱を引き、次々に馬の足を止めると、何があったのかと先頭に目を懲らす。
光苔の仄白い明かりの中、アイリスが馬から降りていて、そっとブーツで足下の様子を探っていた。
彼が顔を上げて振り向くと、皆が察して次々に馬を、降り始める。
ローランデは足を地に着けた途端、ぬるりとした感触に足下が滑りそうに成り、これが原因か。と、納得する。
ローフィスはそっと馬から滑り降り、周囲を見回し、だが、嫌な感じだな。とざわつく胸中に、気を向けた。
「何だ?」
ディングレーが馬上からアイリスに尋ねる。
「…足下が、滑る。
降りて引かないと、馬が足を痛めそうだ」
ディンダーデンはとっくに馬から降りて、アイリスに振り向く。
「これは何だ?」
と、ブーツを上げ、そのつま先でどろりと粘る液体を掬って見せた。
ギュンターも馬を降りて屈み、地面を覆う粘液をそっと手で掬う。
「樹液のようだ」
アイリスが頭上を見ると、岩肌の天井から細い幾筋もの黒い木の根が伝い、垂れ下がり、その細い根の先から、滴が滴り落ちていた。
「あれだろうな」
ディンダーデンはそれを見上げ、テテュスはそっと、横でアイリスの手を握る。
アイリスは息子を見おろして微笑むと、優しい声でささやいた。
「少し、歩こう」
テテュスはこくん。と頷いた。
ゼイブンはファントレイユを馬の背から抱き下ろし、ささやく。
「俺の側から、絶対離れるな!」
ファントレイユは一瞬、顔を揺らす。
ゼイブンの“気"が張り詰め、いつものどこかふざけた、おちゃらけた様子が全然無い。
ファントレイユは背筋がぞくり。と寒く成った。
ゼイブンは何か、感じるんだろうか?
でも暗く、やっぱり光る苔が仄白く足下を照らすその冷んやりとした地下道は、暗くがらんとして見え、仲間以外は誰も居ない。
ファントレイユはでっかいワニの方がうんと怖い。と思った。
ゼイブンの手が、ファントレイユの小さな手を探り、乱雑にきつく握るのに、ファントレイユはそのあどけない顔を上げる。
「また僕が、横穴に滑り込まないように?」
ゼイブンは顔を下げ、真剣そのものの表情で息子を見つめた。
「それも怖いが、もっと厄介な奴も居る」
ローフィスが松明に明かりをつけて掲げ、洞窟の暗い岩壁を照らし出し、シェイルがローフィスの横に寄って彼の手綱を引き受けた。
オーガスタスはそれを眺め、ローフィスの馬の背に今だ跨る小さなレイファスを抱き下ろす。
ローフィスの緊迫する様子にレイファスは口を開こうとし、でも先頭が馬を引いて歩き始め、皆がぞろぞろと歩き出す中、オーガスタスの手綱を引く反対の大きな手に握られて、レイファスも歩き出す。
うっかりすると足下が滑って、転びそうだ。
普段なら、滑って遊べる。なんて考えただろうけど、大人達の周囲を覗う緊迫した雰囲気に、レイファスは黙ってオーガスタスの隣をそっと歩いた。
突然。だった。
ざわっ!と寒気が走り、鳥肌が立ったと思うと、馬が一斉に走り出したのは。
「ザハンベクタ!」
オーガスタスの手元から一気に手綱が滑り、馬達は気が狂ったように前へ猛突進して進み、乗り手を取り残して去って行く。
ギュンターもディンダーデンも、慌てて駆け去る馬に蹴られないよう身を泳がせ避け、アイリスはテテュスを、抱き寄せて庇った。
その横を、馬達は足を滑らせながらも体勢を戻し、一様に怯えた様子で駆け抜けて行く。
シェイルが持っていた手綱を力尽くで引こうとした途端、ミュスは首を激しく振って払い、シェイルは足元が滑って思わず手綱を手放し、慌てて叫ぶ。
「ミュス!」
シェイルの叫びが聞こえた時、レイファスは辺りが暗い靄に覆われたように感じ、シェイルの銀の巻き毛が消えて行くように見えて、目を擦りたかった。
オーガスタスの手が、ぎゅっ!と小さなレイファスの手を、握りしめる。
「………オーガスタス…………」
怯えた小声でレイファスは彼の名を呼ぶと、オーガスタスはその前方を、睨み据えて居た。
次第にローランデもシェイルも共に周囲が薄い靄に包まれて行き、つい何が起こったのかと辺りを見回す。
そこに居た筈のゼイブンとその手に引かれる小さなファントレイユの姿がぼやけて行き…そしてとうとう靄の向こうに、消えて行った。
「レイファス!オーガスタス!」
ローフィスが、黒い靄の向こうに掻き消えて行く二人を呼び戻す様に必死に成って叫ぶ。
「ギュンターとディンダーデンも居ない!」
ゼイブンが怒鳴り、ディングレーも叫ぶ。
「シェイルとローランデも消えたぞ!」
アイリスの怒号が飛ぶ。
「全員その場を、一歩でも動くな!」
雷のようなその叫びに、テテュスもファントレイユも、普段優雅なアイリスの、その迫力を思い知って思わず踏み出す歩を、止めた。
ディングレーも踏み出す一歩を下げると、アイリスは振り向いて彼に早口で告げる。
「テテュスを頼む」
ディングレーは頷き、横に居たテテュスの手をきつく握りしめた。
テテュスは男らしい黒髪の頼もしいディングレーを一瞬見上げ、自分の元から駆け去って行くアイリスの背を、見つめた。
周囲の靄が薄く成り、消え去って行った後、シェイルが目にしたのは緑の草原に立つ瀟洒な天井の無い白い建物で、白壁の手前に置かれた白の縁飾りの付いた桃色のソファや椅子に、四・五人の美女達が薄衣で掛け、突然現れた彼とローランデに振り向き、にっこり笑って微笑みを送っていた。
どの女も艶やかな長い髪を首にまきつけ、その豊満な胸は小さな布から零れ出そうで、くびれた細い腰をし、豊かな尻を品の好い衣で隠していたが、体のラインはくっきりと解った。
シェイルは隣で、呆けて口を開け彼女達を見つめる親友を眺め、俯くとぼそりとつぶやいた。
「…ローフィスと一緒で無くて、本当に良かったぜ………」
真ん中の金髪の、輝くばかりに美しい美女が、現れた二人の騎士ににっこり微笑み、シェイルの方へと歩み寄る。
だが一瞬近く迄来、自分より少し背の高い銀髪の美貌の青年に眉を寄せ、尋ねる。
「…男性…よね?」
シェイルは眉間を寄せるとつぶやき返す。
「どう思う?」
だが彼女は透ける空色の瞳で流し目をくべ、白い絹衣がちょっとずれたらこぼれ落ちそうな豊満な胸をシェイルの胸板に押しつけ、色香を含んだ瞳で誘う様に見つめた。
「…楽しい事、したいわよね?当然」
シェイルは押しつけられたその豊満な胸に視線を落とし、柔らかなそれが胸板に押しつけらて少し潰れているのを目にし、吐息混じりに俯くと身をそっと後ろに引き、柔らかな胸から離すと顔を上げ、彼女に微笑を、返しながらつぶやく。
「まあ個人の楽しみは、人それぞれだ」
途端、美女はシェイルのその反応にジロジロと彼の、女と見まごう美貌の面を眺め、綺麗な顔を歪めて吐き捨てるように叫んだ。
「そっち系の、男ね!」
シェイルはもっと笑うと、言葉を返す。
「背の高いいい男相手なら、落ちたかもな」
彼女は侮辱を受けたように、ふん!と鼻を鳴らし、毛虫を見たように思い切り眉間を寄せて美貌の青年を見つめ、その後シェイルにつん!と背を向け、隣の端正な騎士、ローランデへと近寄って行く。
そしてその華奢な白い指先でローランデの頬をなぜ、ささやく。
「天国の悦楽を、味わいたくない?」
その、衣服から迫り出した白く豊かな胸を、ローランデの目の前で揺らめかせる。
ローランデはちゃんと正常な男だったから、その胸の豊かさに、誘われるように目を細めた。
「とろけそうな快感を、貴方にあげるわ」
…だがそう言われた途端、ローランデの脳裏にギュンターの顔が突然浮かぶ。
ローランデは自分は正常な男なんだ!と、頭の中のギュンターを振り払おうとした。が、ギュンターは頑としてその頭の中から消えて行かないばかりか、まるで二人で過ごす情事の時のように彼の体を一瞬、支配した。
目の前の美女の顔がみるみる歪み、ローランデの俯き、小刻みに震える顔のその顎を、白く細く長い指で掴みぐい!と自分の目の前に戻して睨み据える。
そしてまた、にっこり微笑むと
「私と、楽しむでしょう?」
シェイルは呪文を唱えようかとも思った。が、隣のローランデの反応を、待った。
ローランデは彼女に頷きたかった。心から。
だって女性の胸はやっぱり大好きだったし、その豊かな胸に顔を埋め、とろけるような快楽を、味わいたいとも、思ったからだ。
が………やっぱりギュンターの腕や、抱きしめてくる逞しい体付きがどうしてもリアルに思い起こされて振り払えない。
俯き、悔しさに歯がみするように唇をきつく噛む親友を見かねて、シェイルは一つ吐息を吐くと、呪文を唱え始めた。
輝くばかりの長く美しい金髪の、乳白色の肌をした美女は突然、全身真っ黒に成り、ローランデは心底ぎょっ!とした。
彼女は黒い髪と真っ黒な肌の、不気味に光る青い瞳を輝かせ叫ぶ。
「…失礼ね!
女の魅力が解らない男なんて、こっちが願い下げよ!」
シェイルはチラと、喚く“影”の女を見つめ、呪文を続けた。
彼女の髪は蛇のように空間にうねり、くねってその青の瞳は冷気を纏った様に冷酷で不気味な光を発し始め、辺りは濛々と黒い靄が沸き始め、周囲には風が起こり、草原の緑は輝きを無くし、白壁はグレーへと変わり、そこに居た数人の美女達も真っ黒い姿へと変わり、周囲を覆い始める黒い靄の中、皆一様にその瞳を不気味な青に輝かせていた。
ローランデは咄嗟に目前の女性から思い切り身を引き、見つめると、彼女は怒りに震えて空間を揺るがすように叫ぶ。
“あんた達、男としては失格よ!
最低な落第者!まっとうな男なんかじゃ、断じて無いわ!
男を、名乗るのもおこがましい!
女の悦楽を知らないなんて!”
風が竜巻のように呪文を唱えるシェイルを中心に渦を巻き始め、黒い靄が周囲を覆い尽くそうと沸き上がる中、尚も響く彼女の割れ鐘が響くような声とその言葉に、ローランデは真っ青に成った。
“せいぜい男と、楽しくやったらいいわ!!”
凄まじい風の中でそれは木魂するように何度も響き渡り、ローランデは頭の中に居座るギュンターが、にやりと笑った気がして心からぞっとした。
が、風は渦巻き黒い靄を吹き飛ばし始め、ゴーと耳元で鳴る風の音と共に彼女達が遠去かるのをローランデは感じつい、渦巻く黒い靄向こうに消えて行く、細腰のくびれた見事な肢体を真っ黒なシルエットにし、蛇の様にうねる黒髪と、不気味に光る青の瞳をした女に向け、怒鳴る。
「待ってくれ!私は別に………!」
シェイルの腕がぐい…!と引く。
風が髪を巻き上げ、薄目を開けるのがやっとの中、シェイルの手の温もりが彼を引き戻し、言った。
「“影”に、言い訳聞かせる気か?!」
ローランデは思い切り、口ごもる。
突然、靄が晴れて目前に姿を見せるローフィスが怪訝に眉をしかめ、尋ねる。
「私は別に………?」
駆け付けたアイリスが、ほっとしたように靄の中から姿を現し、無事帰るシェイルとローランデを見つめた。
「直ぐ戻って来てくれて良かった…!」
ローランデは靄が晴れた途端、目前に姿を現すローフィスとアイリスにしどろもどろった。
ローランデのその様子に、ローフィスが親指を立て、シェイルに尋ねる。
「…奴は、どうしたんだ?」
シェイルはとぼけたような顔を義兄に向けると、ぼそりとつぶやく。
「一緒に飛ばされたのがあんたじゃなく、ローランデで良かったって話だ」
アイリスが、意味を窺いかねてそっと問う。
「どんな化け物だったんだ?」
シェイルはすまして告げる。
「胸の迫り出した美女だった」
アイリスは途端、ローフィスに視線をチラと向けてくすりと笑うと
「『妖艶の王女ミラディス』とお付きの侍女達だな」
と言った。
はぁ…。
はぁ…。
吐息が二つ聞こえ、シェイルは吐息の主二人、ローフィスとゼイブンをつい、交互に見回した。
ゼイブンが俯きながら心から告げる。
「一度お会いしたいと思ってる俺が出会わなくて、どうしてこいつらなんだ?」
アイリスがくすくす笑いながら答えた。
「そりゃ、君が会ってたら一発で喰われて生気を全部、吸い取られ、王女の下僕に成り下がるからじゃないのか?」
ローフィスも心から頷くとゼイブンに同意する。
「会った奴らの体験談を聞き、次こそは俺だと、手くずね引いて待ち構えているのに。
彼女達は男を見る目が、無い」
シェイルは腕組みし、思い切り顎を持ち上げて怒鳴った。
「そんなに王女と遊んで、干からびたいのか?!」
ローフィスはだがゼイブンをそっと見つめ、ゼイブンもローフィスを見ると、二人同時にもう一度深いため息を吐き出した。
シェイルは頷いて言う。
「俺とローランデで、正解だったって事だな」
向かいでアイリスがにっこり微笑み、大きく頷く。がローランデは途端、親友に振り向く。
「私は違う!
そうじゃなくて……つまりあの……」
だがシェイルは親友の慌てる顔をたっぷり見、言った。
「姿も無いのにギュンターが君を離さなかったんだろう?つまり珍しくギュンターに、感謝する機会が出来たと言う訳だ」
目前のローフィスもゼイブンもが同時に
『なる程』と頷き、ローフィスが空咳混じりにつぶやく。
「…女に一向になびかないと、王女を大層怒らせたんだな?」
ゼイブンも思い切り首を横に振った。
「誘惑に買った勝者じゃなく、単に女が駄目だなんて、あっちもプライドに触りまくったろうからな………」
ローランデがまた、口籠もって反論する。
「だから…違う!
私は駄目なんじゃなくて…」
シェイルは腕組みして二人に怒鳴った。
「言ってろ!
奴の餌に成るのはごめんだ!
あんたらと違ってな!」
だがアイリスだけはローランデににっこり微笑むと、ささやく。
「『ミレディス』は男にしか興味の無い男は絶対喰えない、害のない“影”だ。
女好きには一番大敵の“影”だけれど。
無事戻って来てくれて、本当に良かった」
ローランデは大層複雑な気分だったが、心から帰還を喜び微笑むアイリスに、仕方成しに頷いた。
テテュスはディングレーを見上げたが、ディングレーは薄もやに消えた二人が無事で、安堵したような表情でテテュスを少し、安心させた。
が、シェイルは腕組みして唸る。
「ディンダーデンとギュンターも、今頃王女に掴まってなきゃいいが。
奴らならホイホイ乗っかるだろうよ!」
ローフィスは
『そうだな』の代わりに少し唸ると、神聖呪文を唱え始める。
ファントレイユはローフィス同様、探す様に呪文を唱えながら近寄って来るアイリスの、胸に下げた金のペンダントが白い光を発してるのに、気づく。
彼が進む毎にその光は、大きくなったり小さくなったりした。
オーガスタスが前を見据えていると、黒い靄が晴れた後現れた景色は木々が並び立つ森で、辺りは薄暗かった。
「オーガスタス!」
その突然の周囲の変貌に、レイファスが怯えきって叫ぶ。
オーガスタスは、大丈夫だ。と言うように、レイファスの手をぎゅっ!と固く握る。
二人の居る周りは岩で囲まれ、短い天井その先がすっぱりと切り取られたように無くて、その向こうに景色が広がっている。
目前にはまばらに土の覗く草地が広がり、その向こうは木々で覆われた深い森。地上のようだったけれどまだ昼の筈なのに薄暗く、黒い靄があちこちに漂っていて、太陽の陽を遮っているように見えた。
そして………。
そして、その木々の枝には何か、黒く蠢くものが、居る………!
その黒いものの目が、不気味に赤く光りそしてそれが……木の枝に無数に居て、こちらを見つめているのに、レイファスは喉がからからに成った。
必死で振り向くが、背後は岩壁で阻まれ、どこにも逃げ場なんて、無い。
「…オーガスタス!」
レイファスは泣き出しそうな声を、絞り出した。
黒い生き物は人間の半分程の大きさで、その狭い岩壁の周囲をぐるりと取り巻く木の枝から、その赤く光る目をこちらに向けている。
レイファスの歯が、がちがちと鳴る。
武人で無くとも、その不気味な生き物が、二人を獲物として狙い、襲おうとしているのが、ひしひしと感じられて。
ファントレイユは、でもレイファスの消えた空間を見つめ、がちがち震えてゼイブンの手を握り、小声でささやく。
「レイファスは…どこへ行ったの?」
ゼイブンはその小さな手を握り返すと、ぶっきらぼうな低い声で怒鳴った。
「必ず、戻って来る!」
シェイルはごくり。と喉を鳴らし、斜め後ろで呪文を唱え始め、剣を振るローフィスを、見つめる。
まるで糸を探るようなその剣捌きに、ローランデもつい、ギュンターの事が心配に成ってローフィスの動きに視線を合わせた。
アイリスが、ローフィスにそっと寄る。
ローフィスはアイリスに振り向き、短い声で怒鳴った。
「オーガスタスとレイファスは幾ら呼んでも跳ね返されるが、ギュンターとディンダーデンは反応があった!」
アイリスは素早くつぶやく。
「彼らを頼む…!
オーガスタスの方は私が何とかするから」
ローフィスは剣を戻し呪文を唱え始め、アイリスはオーガスタスとレイファスが消えた周囲に、やはり呪文を唱えながらその場を手で振り、探る。
何も無い空間にアイリスは手を伸ばして探すように動かしてる様は、ファントレイユの目に、異様に映った。
でもゼイブンの手が、ぴくん!と動き、視線の先を見ると、ローフィスの体が白く光り、そして薄く成って、消えて行く。
「ローフィス!」
ゼイブンの手が、ぐっ!と駆け寄ろうとするファントレイユの手をきつく握って押し止め、ファントレイユは慌てて踏み出す足を、止めた。
靄が周囲を被った途端、景色が変わるのに、ギュンターは唸る。
少し離れた場所に居た筈の、ローランデの姿がすっかり消えている。
だが、変わらず横に居たディンダーデンが低く怒鳴る。
「ヤバいぞ………!」
彼らが立っていたのは盗賊達の野営地のまっただ中で、十四・五人居る賊達が一斉に、突然現れた二人の長身の騎士を凝視していた。
周囲は立木が並び、賊は彼らの前方で群れ、ぎょろりとした赤い目を、向ける。
「どうして景色が変わる!」
ディンダーデンがその濃い栗毛を散らしながら、突然剣を振りかざし襲い来る賊に、合わせるように剣を引き抜き様豪快に振り下ろし怒鳴ると、ギュンターも同様、向かい来る賊にスラリと剣を抜いて振り上げ、怒鳴り返す。
「俺に聞いたって、解る訳無いだろう!」
ずざっ!
ばさっ!
ギュンターは次々にかかって来る敵を、その剣を俊敏に斜めに横に、返しながら矢継ぎ早に斬り殺し、チラと見るとディンダーデンもその逞しい肩を振って、相変わらず剣を大車輪のように豪快に振り回し、襲いかかる賊をばさばさと斬り倒していた。
風だ。
陽は高く上から差す。
昼間でそして……ここは、どこだ?!
『普通の賊じゃ、無いな』
ディンダーデンは内心、つぶやく。
赤いぎょろりとした目。
『“障気”付きか?』
普通の賊なら、こっちが騎士と解り仲間が数名、殺られた時点で逃げ腰に成る筈だ。
なのに奴らはためらい無く、狂気に憑かれたように遮二無二次々、襲って来る。
「糞…!
全部、ぶった斬ってやる!」
切れ目無いその襲撃に、ディンダーデンはかっか来て怒鳴った。
二人同時に襲い来る、その一人の腹を足で蹴り倒し、もう一人の前へ右足を踏み込み様、両手を真横に胸を開け、一気に剣を頭上で束ね、一瞬にして振り下ろす。
ざんっっっ!
その凄まじい瞬速の剣捌きは戦場でいつも相手を竦ませ、戦意を挫いて来たにも関わらず、賊は怯む様子も怯える様子も無い。
ギュンターも、右から左から襲いかかる賊を、下から斜め上へと一瞬で激しく薙ぎ払い、金の髪を散らし返す刀でその長身の真上から、凄まじい一刀で斬り付ける。
ずん!
「ぐわっ!」
六人程を斬り殺した頃、周囲を取り巻く男達はようやく、様子を伺うようにこちらを見つめている。
ギュンターはチラとディンダーデンを見るが、奴もいきなりの襲撃に肩を軽く上下させ、荒い息を整えていた。
「やれやれ…………」
突然背後から聞こえる声に、ディンダーデンもギュンターも剣をきつく握りしめたまま、ぎょっとして振り返る。
見るとローフィスが腕組みし、立っていた。
ギュンターが、ほっとしてつぶやく。
「あんたも一緒だったのか?」
ローフィスは、金の髪を首に垂らし真顔で血の滴る剣を下げ、肩を捻って振り向く美貌のギュンターに、首を傾け告げる。
「いや。わざわざ、来たんだ」
が途端賊は再び襲いかかって来て、ディンダーデンもギュンターも、気づいて咄嗟に剣を振り上げる。
「ぐわっ!」
「ぎゃっ!」
ディンダーデンの豪快な一刀に賊は斬られると同時に後ろに吹っ飛び、ギュンターの凄まじい横に薙ぎ払う剣に、賊は血を周囲に滴らせて仰け反る。
その激しい猛者二人の戦いぶりに、ローフィスは自分の出番は当分無いな。と腕を組んだまま、その場を動かなかった。
少しの間も与えず、仲間が殺されても気にする様子すら無く、次々に襲いかかるその賊達に、ディンダーデンもギュンターもきっちりキレて、剣を容赦なく振り降ろした。
ざっ!
ばさっ!
ローフィスは二人の暴れん坊が本領発揮する、豪快で激しい剣捌きを見つめて思った。
『憂さ晴らしはこの時とばかりに、楽しんでないか?』
ディンダーデンは、いつものように隣で金の髪を散らし、その優美な美貌の面をきつい野獣の顔に変え、激しく剣を振るギュンターを目に、ローフィスの姿が無いな。と、思わず背後を振り返る。
ローフィスは真後ろで腕組みし、現れた場所から一歩も動かず、とぼけたように立っているのが視界に飛び込むなり、ディンダーデンは向かい来る敵の気配に、剣を咄嗟に振り上げ様怒鳴った。
「サボるな!!」
腹の底から怒鳴り、途端襲いかかる賊に振り向き、剣を斜めに思い切り振り切る。
「うぎゃっ!」
豪快に振り回す剣は風を切り、ぶん!と音を立てる程凄まじく、ローフィスはそれを見、肩をすくめてぼやく。
「だって、間に合ってないか?」
ギュンターは切れ目無く襲いかかって来る賊に眉を思い切りしかめ、その賊の一人の腹へと体毎ぶつかる勢いで一気に剣を突き刺し、足で腹を蹴り倒して刺した剣を引き抜き様直ぐ横で剣を振りかぶる賊の、開いた肩口から胸に掛け、一瞬でずばっ!と斬りつける。
その返り血を頬に浴びたが構わず、真正面から剣を向ける男にさっと身を屈めて一気に間を詰め、その胴を、剣を横に振って薙ぎ払う。
ずざっ!
男は血しぶき上げて後ろに倒れ、ギュンターは肩で息をし、金の髪を散らし、その美貌の頬を血で赤く染めてローフィスに、振り向く。
その、紫の瞳がきらりと陽を受け煌めくのに
『ぞくぞくする程、男っぽいな』
と、ローフィスは見物人よろしく思ったが、ギュンターの見つめる紫の瞳が、剣の柄にも手をかけず腕組みする自分に、文句を言いたい様子は有り有りだった。
ずざざざっ!
残り数名だったが賊は全滅も辞さない覚悟か単に気狂いなのか、臆せず襲いかかり、ギュンターはその男が射程に入るや否や、激しく剣を頭上から振り切り、一刀で仕留めた。
ディンダーデンも濃い栗色の巻き毛を派手に散らしながら青の流し目で睨め付け、一瞬で剣の握りを返して右横に飛び込む男の腹に、力任せに剣を突き抜ける程深く刺し、左から襲い来る男を引き抜いた剣で胴を回しそのまま薙ぎ払い、真正面の最後の男を、握りを戻し骨が切れる程強く深く、斜め上から剣を振り切って斬り倒した。
ずばっ!
はぁ…はぁ……。
ディンダーデンとギュンターの荒い息づかいがし、賊が全て彼らの足下に、死体で転がる。
ローフィスが見守る中、ディンダーデンはブーツで転がる死体を蹴り、長い栗毛を揺らし青の流し目をくべて、死んでいるのを確認して唸る。
「全部、殺ったぞ!」
が、その時だった。
三人の正面の空間から、高らかな笑い声が響いたのは。
“良く、殺ってくれた。
これで完全に私は彼らを、操れる!"
空間を揺るがす、嬉しそうな狂気の叫び。
ローフィスの眉間が一気に、寄る。
組んだ腕を咄嗟に振り解く。
ディンダーデンが気配で振り向くと、殺した筈の死体が、もぞりと動く。
ギュンターも思わず、体を起こし始める死体に、ぎくっ!と一歩、後ろに身を引く。
突然ローフィスが、鋭く叫ぶ。
「二人共、可愛く後ろに隠れてろ!
俺の出番だ!」
ディンダーデンもギュンターも、動き始める死体を不気味そうに見つめ、明るい栗毛の動じない青の瞳の、そう告げるさっきとは打って変わって一気にその表情を引き締めた軽そうな伊達男にそっと近寄ると、自分達より頭一つほど低い、その男の背に、回って立った。
死体はゆらり…と身を揺らして次々に立ち上がり、そして少しずつ、歩き始める。
たった今斬り殺したばかりの鮮血滴る、目のイってる血まみれの死体が動くあまりの凄惨な光景に、ディンダーデンがつい、眉間を寄せまくって一歩目前のローフィスに詰め寄り、耳元に屈み込んで低く怒鳴る。
「本当に、勝算があるんだろうな!」
ローフィスは振り向かないまま、素早く言った。
「この空間を作ってる御大を倒さないと、元居た場所に戻れない」
ギュンターが唇を噛み、ささやく。
「御大ったって、姿が無いぞ?
本当に倒せるのか?」
「神に、祈ってろ!」
「…そんなの、アリか?!」
ディンダーデンが思い切りぼやいてギュンターを見、ギュンターも情けない顔でディンダーデンを見つめ返し、死体が続々と起き上がって血を滴らせながら、たどたどしい足取りで周囲を取り巻き始めるのを目に、二人同時にやれやれ。と、顔を下げて首を横に、振った。
ディングレーが、テテュスの手を握りぼやく。
「いつ迄立ちん坊だ?」
アイリスはまだ空間を探っていたが、ゼイブンに振り向く。
「ゼイブン!」
ゼイブンは俯くと、やれやれ。と胸元から一掴みの粉を握り、周囲にばっ!と振り撒くと神聖呪文を唱え始めた。
粉は周囲の空間の上に浮かび、白く光り始める。
ファントレイユもテテュスも、その光景に言葉を無くす。
ローランデもシェイルも見つめていると、光の粉は空間を、白く光る部分と薄暗い部分に照らし出す。
ゼイブンが更に声を上げると、馬達が走り去った前方は、真っ白く光った。
途端、ゼイブンは唱えるのを止め、ほっ。と吐息を吐いてつぶやく。
「あっちは安全だ。
この辺りで影に成ってる場所はヤバいから、白く光る所を通って安全地帯迄行くぞ!」
シェイルとローランデは頷き、ゼイブンが呪文を止めた途端、薄く成る白い光を目安に、そっと歩き出す。
ディングレーがテテュスを促すと、テテュスはアイリスに振り向く。
その幼い息子の自分を案ずる邪気の無い瞳に、アイリスは振り向くが、微笑んで
『ディングレーと行って』
とその濃紺の瞳で、告げる。
ディングレーもテテュスの手をきつく握る。
テテュスが見上げると、やっぱりディングレーの深い青の瞳は、大丈夫だ。と告げて居た。
「オーガスタス!」
黒く蠢く者が、風のように襲いかかる。
その、あまりの早さにオーガスタスの眉が、寄る。
ずざっ!
オーガスタスの、避ける脇に傷跡をくっきり残し、その素早い化け物は再び木の間に消えて行った。
レイファスはそれが、かなり体の大きな、猿だと解った。
オーガスタスは両横と背、そして天井を岩壁に囲まれた場所にレイファスを残し、自分は彼を庇うように一歩前へ出て、その得体の知れない敵と相対する。
再び木の枝から飛ぶように襲い来て、目で追える早さを超え、オーガスタス目がけて突っ込んで来る。
その化け猿が口を開け、鋭く尖った牙が一瞬甲斐間見え、鉤爪のように長く鋭く先の曲がった爪を、オーガスタスに届く瞬間彼を傷つけようと素早く振り回す。
が、オーガスタスは舞踏会で披露したような柔軟な剣捌きで、軽く八の字に剣を振り回し、飛びかかる二頭をあっという間に、斬り落とした。
しかし血を吹き出し、ボロ布のように地面に転がる仲間の死体に、その化け猿の集団が憤りを強めたのが、オーガスタスにもレイファスにも解った。
ざわざわざわ………。
不気味な音を立てて木の枝が、揺れる。
オーガスタスは付けている胸の金のペンダント型の神聖護符へと、呪文を唱え始める。
が…。
いつもなら付けて居る場所がほんのり熱く感じる筈なのに、それが無い。
敵を睨み据えながらもチラと視線をペンダントにくべるが、白く光る様子無く、ただの金の、飾りのままだった。
更に呪文を唱え続けるが、ペンダントを中継として『神聖神殿』から、光が流れ込む気配すら無い。
回路が、途切れてる。
ここは歪みの筈だ。
空間を“障気”が作り出してる訳じゃ、無い筈だ。
なのに回路が通じないと言う事は…。
あの化け猿へ障気を送ってる“影”は、この広大な歪みの空間を支配出来る、余程の大物。と言う事か………。
チッ!と舌打ちすると、オーガスタスは剣を振り回せる前へともう一歩踏み出し、レイファスをすっかり自分の背に隠し、自分はレイファスの前に立ち塞がって敵からその子供を、護った。
先に目をやると、眉間が、寄る。
自分の大きな体で隠れて、レイファスには見えないといいが…。
斜め右の地面に、さっき洞窟で会った道を尋ねた三人の男の、バラバラに成った死体が転がるのが、目に入ったからだ。
一人は頭の半分を囓られて脳味噌が飛び散り、一人は腸を、喰い千切られて内蔵が飛び出、周囲に飛び散っている。
そしてもう一人は…腕がもげ、腿から下が無く、目玉がぽろりと死体から、転がり落ちていた。
オーガスタスが、きつく唇を噛む。
何としてもレイファスを、そんな目に合わせる訳にはいかなかった。
ざざっ!
飛びかかるその素早い化け猿の数が増し、一度に色んな方向から、つむじ風のように襲い来てはオーガスタスの胴や胸元に、その鈎爪で傷を残して飛び去って行く。
だが同時に、去るその背を、飛び様を、オーガスタスは逃さず斬りつける。
ざっ!ざっ!
「ぎゃっ!」
「ぐぐわっ!」
四匹来て、二匹は仕留めた。
オーガスタスは自分の肩や腿に熱い痛みを感じ、眉を寄せた。
血が、ゆっくり傷口から溢れ出すのが、解る。
ざざざざっ!
が、化け猿は息付く間無く、襲いかかって来る。
五頭が少し間をずらし殆ど同時に四方から飛びかかり、オーガスタスは鎌鼬のような傷を受けるが咄嗟に剣を振り、猿達は一瞬の隙を突かれ、オーガスタスの剣を受けて地面にどんっ!と音を立て落ちて死ぬ。
だけど………。
レイファスは息が、詰まりそうだった。
周囲は岩壁で被われ、前はオーガスタスが、頼もしい不動の背で護っていてくれた。
でも…!
化け猿は空を切り裂き、目に見えない早さで次々に襲って来る。
レイファスはそれがオーガスタスに触れた途端、彼の大きな身が一瞬揺れ、そしてその後、血が滴り落ちるのを、泣き出しそうに眉を寄せて見つめる。
だが、剣を振る彼の横顔は怯む様子を全く見せない。
こんな普通じゃない早さで襲い来る化け猿と戦っているのに、全く、全然。
奔放にくねる赤味がかった栗毛は炎が燃えているように、レイファスの瞳に映る。
なのに、彼の鳶色の瞳は静かで、時折黄金にきらりと光る。瞬間、オーガスタスの長い腕が剣を振り切って、目で追えない程素早い敵を、一刀の内に斬り殺す。
彼の長い腕が剣を振る様はさながらライオンが前足を獲物に振り翳すのに似て、一瞬たりとも自分の強さに疑いのない、激しい闘志が漲り、その迫力にレイファスは心が震った。
ざっ!
「ぎゃっ!」
が…化け猿達は仲間が殺されれば殺される程復讐心を燃やし、大きな敵を殺そうと集団で挑みかかる。
ざっ!ざざっ!
オーガスタスの剣は、銀の弧を立て続けに描き、鋭くぎらりと光って次々影のように早いその敵を、斬り捨てて行く。なのに……。
黒いつむじ風はまだ止まず、どころか尚一層、数を増やしてオーガスタスに襲い来る。
数が増える毎オーガスタスの傷は増え、それでもオーガスタスの、黄金の瞳は輝きを失いはしなかった。
諦める事等念頭に無いように剣を振り続け、確実に襲い来る半数は、斬り殺されて地面に転がる。
が、剣を振り切った瞬間、かなり体の大きな猿がオーガスタスの胸元に飛び込み様、鉤爪を大きく、振り回す。
瞬間オーガスタスはくっ!と胸に受けた傷に背を前屈みに揺らし、蹌踉めく足をもう一度地に付けがっし!と踏み止まり、傷を付けた猿が木の枝に逃げる去る背に、逃すか!と赤い髪を激しく散らし、その長い腕を豪快に振って斬り殺す。
「ギャアッ!」
鋭い声を上げてその猿は背を斬られ、宙から叩き落とされる。が………。
オーガスタスは思いの外深い傷を胸に受け、じんじんと痛み始めるのを片目を閉じ、その痛みを気力で抑え込んで、敵が怯んだと隙を突いて襲い来る猿を、激しい一刀で叩き殺し、甘く見るな。とその意志を敵に示した。
が、少し背を丸めるオーガスタスのその脇下から、つつーっ。と、赤い血が伝い、衣服を濡らすのを目にした途端、レイファスは身を震わせ叫ぶ。
「オーガスタス!!」
レイファスの、絶叫が岩肌に響く。
オーガスタスは熱くじんじん痛む傷口から血が溢れ、その他の傷口からも動く度血が流れ出して行くのを、飛び来る気狂いの猿共を斬り殺しながらぼんやり感じていたが、その絶叫に引き戻されて怒鳴る。
「出るな!
そこに居ろ!」
振り向くオーガスタスの頬は、浅い掻き傷から鮮血が滴り、肩、胸、腕に衣服を切り裂く無数の傷を作り、そして腿も…破れた衣服の傷口から、幾つもの筋を伝って彼の血が、滴り落ちて行く。
文字道理、血まみれで、レイファスは愕然とする。
「だっ…だってオーガスタス!」
オーガスタスははっと気づき、右から隙間を狙いレイファスへと襲いかかる化け猿へ、右横に体を咄嗟に捻って剣をざっ!と振り下ろし斬り落とすと、左腕に噛み付く猿を、腕を振り回して一気に地面に叩き付ける。
その間にも風のような猿の襲撃に、胸に腹に傷を作るが、目の前へ立て続けに鮮やかな銀の弧を描いて剣を振り回し、再び襲い来る目にも止まらぬ早さの化け猿を、息を止めて剣を車輪のように振り回し、一気に三匹斬り落とした。
右肩を落とし、腰を少し屈めて荒い息で肩を上下させ、心の中でつぶやく。
『傷の痛みは耐えられる。だが…』
血が滴り続けると、意識が途切れる。
自分が倒れたら、レイファスが殺られる。
それだけは何としても避けたかった。
チラと剣を、見る。
血濡れたそれに、呪文を唱えようかと思った。
だが、賭だった。
撃退できるだけの光の力が、胸に下げた金の護符の中にあればいいが…。
がオーガスタスは、ローフィスとの戯れの会話を思い出す。
護符に込められた光の力は、『神聖神殿』と回路が通じてなければほんの僅かな力しか無い。
攻撃に使えば直ぐにでも使い果たし、もし途中で光が途切れれば殺られる事は確実だから、結界を張った方がまだマシだと………。
だがそれとて、護符に込められた光の力を使い果たせばそれで終わりだ。
オーガスタスは改めて、戦い抜く覚悟を決めた。
奴らが諦めて逃げるのが先か…それとも、全滅させるしか手が、無いのか…。
が息付く間も無く襲い来る化け猿達に、オーガスタスはその身を自身の流す血で真っ赤に染めながらも、剣を振り続ける。
赤く長い髪を豪快に散らし、その大きな体は気迫の塊のように強い意志が漲り溢れ、黄金の瞳は倒れる事を拒絶し、尚も飛びかかる敵にその鋭い刃を降らす。
ざっ!
ばさっ!!!
猿達は木の上でその赤い目をギョロリと向け、今だ倒せぬ敵にいらだちを募らせて木の枝を揺さぶり怒り狂う。
レイファスは気が気では無かった。
最早背後からでも解る程、オーガスタスは全身に傷を負って衣服に血の染みを作ってる。
また、彼の肩に黒い鎌鼬が振りかかり、一瞬その肩がぴくん!と動き、だが銀の弧が、飛び去る敵の背を切り裂く。
「ぎゃっ!」
そして、その肩に血の染みが浮き上がる。
良く見ると身を振る度左手の指先から、空に血が飛び散っていた。
ざっ!
「ギャアッ!」
どさり!
それでもまた一匹。あんなに早い化け物を、どうして仕留められるのかと言う程、オーガスタスは確実にその数を、減らす。
けれど……。
レイファスもそして、オーガスタスもざわめく奴らの拠点の木々を見つめる。
その無数の赤い瞳の、数が、減る、様子が、無い……!
オーガスタスはぎり…!と唇を噛む。
一つだけ、方法がある。
『神聖神殿』との回路が開かぬ今、護符に封じられた光の力だけで、レイファスの居る岩壁に囲まれた空間を結界で閉じる。
チラ…!と、オーガスタスは剣を振り回して斬り殺しながら後ろに視線を、投げる。
自分と…レイファスの二人分のペンダントに封じ込められた力だけで、どれ程の結界が出来る?
『神聖神殿』からの力が流れ込まない今、大した結界は張れはしない。
オーガスタスは覚悟を決めたように、だん!とレイファスの居る岩壁に左手を付き、呪文を唱え始めた。
右手で剣を、振り回しながら…。
アイリスか…ローフィスが、後は何とか、してくれる筈だ。
レイファスが結界から出ないよう、自分の体で入り口を塞いでしまえば。
レイファスはオーガスタスの背が、自分の視界を全部塞ぐのを見上げた。
呪文が聞こえ、オーガスタスのその背から白い光が、自分の胸のペンダントに向かって流れ込んで来る。
白い光の流れ込むレイファス胸の金のペンダントの護符からも、呼応するように白い光が発光し、輝き出して丸い円型に光を増して行き、周囲の囲む岩壁を、白い光は大きく広がり、包んで行く。
岩壁に手を付くオーガスタスの脇の下を狙って飛び込んで来た化け猿が、瞬間その白い光に触れ
「ぎゃっ!」
と叫んで、弾き飛ばされた。
『光の、結界だ………』
レイファスは叫ぶ。
「早く…!
早くオーガスタスも中へ来て!
そんなままじゃ、死んじゃうよ!」
必死だった。泣き出すのを、我慢するので精一杯だった。
オーガスタスの体のそこいら中から血が噴き出し、後から後から血が滴り衣服を赤く染め、本当に血で、ずぶ濡れになるんじゃないかと思うくらい血まみれで、レイファスは叫び出したかった。
この光の中に、奴らは入って来られない…!
オーガスタスはもう、戦わなくっても、済むんだ…!
それがどれ程の安堵か、レイファスは解って必死でオーガスタスの背に、呼びかけた。
「オーガスタス!
お願い早く!!!」
でもオーガスタスはまだ、左手を付いたまま、右手の剣を襲い来る化け猿に振るい続け、その場を動こうとしない…!
「オーガスタス…!オーガスタス!
お願い!早く!!!」
レイファスはもう、体を揺すって叫んだ。
「オーガスタス!嫌だ…!
そんなままじゃ、死んじゃうよ!」
オーガスタスは一瞬振り返り、白い光の向こうに居るレイファスを見つめ、笑う。
「オーガスタス!」
が、オーガスタスははっと振り返り、襲い来る猿に肩を噛まれ、それでも剣を振り、次々に襲って来る目前の化け猿を切り落とし、刀の柄を素早く握り返して肩に喰い付く猿に、一気に突き刺す。
「ぎゃっ!」
猿はぼとりと地に落ち、オーガスタスの肩から、その噛まれた傷跡から、血が、吹き出すように腕を伝い落ちて行く。
レイファスはもう涙を溢れさせ、身を震わせて絶叫した。
「嫌だ!オーガスタス!早く!!!
どうして………!」
レイファスは、突然はっとした。
一人分なんだ。結界は。
だからオーガスタスは自分を護って……。
レイファスは、両拳をきつく握って、まだ次々と襲い来る化け猿と戦い続けるオーガスタスの大きな背が血に染まり、少しずつ崩れ落ちて行くのを、震えながら見つめた。
どんどん傷が増えて、血が、滴り続けて…このまま行ったら……。
レイファスの心臓が、どくん…!と脈打った。
『嫌だ……!』
瞳孔が開き切り、血に染まる衣服に身を包むオーガスタスが、ゆっくり、膝を折るのが見える。
でもその大きな背はまだ、レイファスの前に、在った。
それでも鋭い爪が、牙が、標的の大きなオーガスタス目がけて襲いかかる。
崩れ落ちて右膝を付いても、オーガスタスは剣を振るのを止めなかった。
「死んじゃ、やだ!
オーガスタス!!オーガスタス!!!」
オーガスタスの背は一度がくん!と前に大きくのめり、その倒れた背に化け猿がのし掛かり、かぎ爪が瞬時に傷を付け、鮮血が滴る。が直ぐ、オーガスタスは体を起こし長い腕を背に回し、後ろに乗る猿を鷲掴みにし、地面に叩き付けて殺す。
その間にも、首に、肩に猿は襲いかかり、尚一層オーガスタスは傷を増やして血を、滴らせる。
『ヤバいな……』
体のそこいら中が熱い痛みで被われ、意識が、飛び始める。
俺が殺られ、レイファスの目の前で奴らに喰われるときっとレイファスは夜、うなされるな……。
レイファスは涙ながらに叫び続けた。
「絶対嫌だ!オーガスタス!!!
オーガスタス!
お願いだ!…死なないで!」
幾ら探っても…!
だがアイリスは諦めずに呪文を唱え続ける。
シェイルもローランデも、何も無い空間にアイリスがその手を突き出し、必死に探る姿は異様に見えた。
が、アイリスの表情は真剣そのものだ。
眉がきつく寄り、見た事の無い程の気力を空に向け、見えない何かを探っている。
…いつもならペンダントを中継とし、回路が開きペンダントに記された護符が光る筈なのに、幾ら唱えても反応が、無い!
どころかまるで見えない壁に弾かれるように、唱えた呪文が跳ね返って来る。
アイリスはぎり…!と唇を噛んだ。
闇の結界のその向こうに二人が居るとしたら…!
それは大変な危険を意味する…!
アイリスは神聖騎士の護符に直接、語りかけるように呪文を唱え始めた。
ありったけの気力を込めて、探る相手を探す呪文を。
どんな…微かな軌跡でもいい…!
二人の存在を、闇の力の向こうに見つけたなら…!
頼むから、その居場所を教えてくれ!
見えない闇の壁の圧力を気力で押し続けながら、必死で微かな軌跡を辿る。
目指す姿がそこに有ると信じて。
瞬間、微かに…。
ほんの、微かだったが一瞬ペンダントが暖かく感じられ、アイリスはそれを求めて必死で闇の壁をこじ開ける。
気力でその壁の圧力を押しながら、その暖かさを追って闇の壁の向こう側を探る。
アイリスの呪文は低く、更に強く高らかに響き渡った。
巨大な闇の結界の向こう側の、微かな軌跡を手繰り、目指す場所に辿り着き、そしてこの空間との、回路を開ける為に。
ファントレイユもテテュスも、アイリスの呪文を唱える言葉が低く、次第に強く、何かを突き通すように大きく洞窟内に響き渡るのを、ごくり…!と喉を鳴らしながら全身を耳にし、聞いていた。
まるで見えない巨大な岩壁に蟻のように小さなアイリスはそれでも相対し、光のペンダントを武器に不動の決意を込め、相手がどれ程大きくとも怯む事無くその巨大な壁を突き破る程の強い意志を込め、一瞬の閃光のような真っ白な光の雷土を突き通したように、二人には感じられて心臓がばくばくと鳴った。
もしかして…レイファスはアイリスをあれ程真剣にさせる程、凄く、危険な場所に居るのだろうか?
テテュスは一瞬、ファントレイユの泣き出しそうな表情を目にする。が直ぐにアイリスに視線を戻した。
アイリスは、諦める事等念頭に無いように凄まじい気力を振り絞り、巨大な闇の結界に光の道を押し通す。
つい、ファントレイユは体が震えてゼイブンを見上げる。
ゼイブンはアイリスを真剣そのものの表情で見つめたまま、ファントレイユの手をぎゅっ!と強く握り締めた。
『大丈夫だ。アイリスを信じろ!』
そう…言われた気がして一瞬体の、震えが止まる。
ファントレイユはそっ…と、アイリスに視線を戻す。
その顔付きは強い意志と決意に溢れ、その唇から洩れる呪文は洞窟の壁に低く、大きく響き渡った。
手応えは確かに在った!
後は………!
神聖神殿隊の護符では無理でも、神聖騎士の護符なら可能だ。
その『光の王』の末裔の素晴らしい光の力を借りてアイリスは無理矢理強引に闇の結界に更に光をねじり入れ、その向こうに感じる微かな光と回路を綱ぐ。
瞬間、ペンダントが白く光る。
待ち望んだ、暖かい光だ。
レイファスとオーガスタスの、体温のような。
アイリスはありったけの気力を込め、呪文を唱えた。
開いた回路を、固定する呪文を。
「…ゼルダス・デ・サンテ・アンゥンルデカン・ダ・モッティス!」
ディングレーは自分が知っている僅かな呪文のその一つを、心の中で秘かに唱え続けていた。
アイリスを、擁護する呪文。
ディアヴォロスがそれを自分に教えてくれた。
何も出来ないと悔しがった自分に。
だがそれを唱えている間、ゼイブンが自分の横に並び同様、アイリスへと力を送っている事に気づく。
『行け!突き破れ!』
ゼイブンの心の声が、聞こえた気がした。
回路は細く通り、だが闇の巨大な力に邪魔をされ歪み、揺らめき、消えかかる。
ゼイブンの気力が、凄まじく後圧しするようにアイリスの背に流れ込むのを感じ、ディングレーも追随する。
矢面に居るアイリスは見えない巨大な圧力と戦い、ディングレーは自分のありったけの気力をアイリスの背に注ぐ。
援護を受け、まるで決着を付けるようにアイリスは一瞬、凄まじい気力を込めて呪文を高らかに唱え始めた。
「…アクル!ゼル!ビスト!ラ・カサンテ………」
その時ゼイブンもディングレーも同時に、シェイルとローランデ迄もが自分達の背後でアイリスの背にその力を注ぎ、支えるのを感じた。
四人が同じ呪文を同調させながら、アイリスの背を支え力を送り続ける。
アイリスの呪文が雷鳴のように巨大な闇を切り裂き、その向こうの微かに揺らめくオーガスタスとレイファスのぼんやりとした姿と、完全に繋がるのを四人は感じた。
「…ラ・ファンション・ア・ビレジ!」
その叫びと共にアイリスの姿は真っ白な光に包まれ…そして一瞬で消え去った。
『やった!』
ゼイブンの心の声がディングレーにも聞こえた気がした。が、巨大な圧迫がいきなり消え、がっくり肩を落とす。
「アイリス…!」
掻き消えるアイリスの姿を追って駆け寄ろうとするテテュスの手を、ディングレーは気づいてぎゅっ!と握り引き止める。
ゼイブンが咄嗟に振り向き、泣きそうに顔を歪めるテテュスに怒鳴る。
「アイリスはレイファスの元に飛んだんだ!」
テテュスもファントレイユも、思わずそう怒鳴るゼイブンを呆然と見つめた。
「…レイファス!」
「アイリス!!!」
レイファスは白い光からいきなりアイリスが現れて横に立ち名を呼ぶのに、その整った優美な顔を見つめ、思わず彼の腰に突っ伏して叫ぶ。
「オーガスタスが…オーガスタスが、死んじゃう!」
アイリスははっ!と顔を正面に向け、結界の向こうで生身を曝し戦うオーガスタスが、全身を血に染めて今にも崩れ落ちそうに成りながら、それでもよろめく足を踏み止め、レイファスに背を向け、襲い来る化け物に剣を振る姿を見つける。
咄嗟にレイファスをそっと押し退け飛び出し、オーガスタスの腕を掴んで一瞬で後ろへ引き倒し、代わって前へと踊り出ると、剣を抜き様立て続けに襲い来る敵に剣を振り回した。
化け猿の鉤爪がアイリスの頬を掠り、傷を作る。が猿は瞬時に素早い剣に斬り殺され、地にぼとりと屍を曝す。
オーガスタスは突然凄い力で思い切り後ろに引き倒されて吹っ飛び、痛みが全身を駆け巡り息が止まりそうに成って意識を失いかけた。
がそのぼやけた視界に、見慣れた濃い栗色の巻き毛を背に垂らすその男が、身を屈め振りかかる鎌鼬を自分に代わって倒し始める様を、ぼんやり見つめる。
アイリスは直ぐ腕を戻し、再び襲い来る敵に長い焦げ茶の髪を揺らして身を屈め、構え、機を逃さず剣を思い切り振る。
ばさっ!
「アイ…!オーガスタス!」
レイファスはアイリスの余りに素早い行動にびっくりし、けどアイリスに代わって彼の横に尻を付き、体中から血を滴らせて顔を歪める大きなオーガスタスが、それでも胸の一番大きな傷を押さえて震えながら身を起こし、庇うアイリスの背を、睨み付けて文句を言うのを聞いた。
「怪我人相手に、何て扱いだ………!」
「オーガスタス!オーガスタス!!
血……が。
血だらけ………!」
抱きつくレイファスの、服も手も一瞬で、オーガスタスの無数の傷口から吹き出す、鮮血で染まる。
オーガスタスは自分の体たらくを見回し、吐息を吐き、青冷めた顔で、でも少し、笑った。
レイファスは震えながら彼に、尋ねる。
「ど……オーガスタス?」
オーガスタスは背を後ろの岩壁にもたせかけ、痛みに一瞬顔を歪め、が笑いながらつぶやく。
「どこから止血したらいいのか、困るよな?実際………」
いつもと変わらぬ彼の、その鳶色の親しげで暖かな瞳が向けられ、レイファスは涙が頬を伝うのを、止められなかった。
「馬鹿……!
そんな、場合?!」
アイリスは目の前で立て続けに剣を短く、瞬速で振り回し、化け猿を次々に地に落とす。
けどその剣は、白くくっきりと薄闇に光り始める。
アイリスは小さな声で、呪文を唱えていた。
彼の握る剣の光は呪文と共に増して行き、化け猿達がその白い光に、怯えているのが解る。
「ぎゃっ!」
その猿が、斬られてアイリスの足下に落ちるのが最後だった。
猿達は、横に降ろすアイリスの剣が真っ白に光るのに怯えきって、それ以上襲って来ないばかりか木の枝から逃げ出し始め、やがてすっかり、姿を消した。
アイリスが戦うのを止めたその背に、レイファスは叫ぶ。
「アイリス!オーガスタスを看て!」
オーガスタスは笑顔を浮かべたまま、血にまみれてぐったりとその身を、横たえていたから。
アイリスはさっ!とレイファスの元へと駆け寄り、オーガスタスに屈む。
その様子にアイリスの端正なその顔の、眉間が深く、寄る。
「………ひどい出血だ………」
オーガスタスは弱々しく頷く。
いつも奔放にくねる彼の赤味を帯びた栗毛に迄も血が、べっとりと張り付いていた。
アイリスは自分の、神聖騎士団のペンダント型護符を急いで外すとオーガスタスの首に掛け、呪文を唱え始める。
「アクエルゼルテス……」
ペンダントが光り始め、オーガスタスはゆっくり目を、閉じる。
その首が、がっくりと落ちる。
「オーガスタス…!!」
レイファスの絶叫に、アイリスは落ち着いた声音でささやく。
「気絶しただけだから…」
レイファスの大きな青紫の瞳からはひっきりなしに涙が滴り落ちる。
「僕…僕をずっと、庇って……。
自分一人なら、結界に入れたのに………!」
アイリスは優しい口調でそっと言った。
「君を護るのは彼の役目だったから。
あんまり泣くと、オーガスタスががっかりする」
でも、レイファスの涙は止まらなかった。
「あんなにいっぱい、襲いかかられても、僕を押し退けたりしなかった………」
アイリスの顔が、悲しげに歪む。
「レイファス……!」
「僕を奴らにくれてやれば自分は助かるのに……なのに………!」
泣きじゃくるレイファスに、アイリスは優しく小さな肩に手を添えてささやく。
「そんな事、オーガスタスは一瞬たりとも考えなかったさ」
「どうして?!だ…って、誰でもいざと成ったら自分の命が大切に決まってる!
あんな…あんな化け物相手だったら、そうしたって誰もオーガスタスを責めたりしないよ…!」
アイリスはとうとう、レイファスを抱きしめた。
レイファスはアイリスの胸の衣服をきつく握り、すがりついて身を激しく震わせる。
「こ…んなになる迄どうして…?
他人を庇えるの?
自分が死ぬかもしれないのに、どうして…?!
オーガスタスは馬鹿だ!
どうしようもない、馬鹿だ…!!!」
アイリスは震える小さな体を抱きしめ、そっとつぶやく。
「それだけ、君が可愛いんだ」
レイファスは泣き顔を上げて怒鳴った。
「だって、他人の子供だ!
オーガスタスの息子じゃない……!
僕を庇って……死んじゃ嫌だ!
そんなの、絶対に嫌だ!」
レイファスは身を震わせ続け、アイリスはオーガスタスがひどい重傷だから、彼が泣きじゃくるのは無理も無いと思った。
それでそっとささやいた。出来るだけ、優しい声で。
「君の目の前で…オーガスタスが、死んでしまうと…そう、思ったんだね?」
レイファスは、こくん…!と頷いた。
「どんどん傷が増えて…爪で切り裂かれて、噛み付かれて…それでもまだ、襲って来て。
息つく間も無い程ひっきり無しで……!
血が、どんどん、どんどん流れ続けて………!なのに…!
なのに僕だけを結界に入れて自分は……!
自分は………!
傷だらけなのはオーガスタスで、結界が一番必要なのは彼の方だったのに!!!」
叫ぶレイファスを、アイリスはきつく抱きしめたが体の震えは止まらず、レイファスはそれ以上、涙で喉が詰まってもう言葉が出なくて嗚咽を上げて泣き続けた。
アイリスは頷くと耳元でそっとささやく。
「オーガスタスを助けるには、ここから出ないと」
レイファスはぐっ!と沸き上がる感情を殺すと、こくん。と一つ頷き、まだ震える小さな手で、それでもアイリスを放した。
「大丈夫?
オーガスタスの横に、居られるね?」
レイファスは泣き顔を、上げた。
その青紫の瞳はまだ動揺で揺らめいていたけれど、しっかりした顔付きで窺うアイリスを見つめ返した。
アイリスは微笑んで頷き返し、そっと立ち上がると周囲を見回した。
化け猿が去ると共に、薄靄はすっかり晴れ、そこは風そよぐ昼の陽の差し込む森だった。
その左向こうに、巨大な崖の岩壁が見えて、瞬間彼はぎくっとした。
『アースルーリンドの、外だ………』
巨大な岩壁はアースルーリンドの周囲を被い、国を外敵から護っていた。
だが一体どうやって…重傷のオーガスタスと小さなレイファスを連れて、あの向こうに戻ればいいのだろう…?
『影の民』の何者かは力を持ち、封印を壊そうと空間を揺さぶり歪みを作り…その歪みで出来た回路を完全に自分の力で支配し…だがその先の空間のこの森の猿達は、どうやら障気に犯されながらも自然の生き物だから、完全に“影”に自分を明け渡さず、操ろうとした障気は、出来ずにそのままにして、猿が襲う旅人の恐怖をエネルギーにし吸い取り、それで満足しているに違いない。
足下に猿の、無数の死体が転がり、少し先に、アイリスが道を教えた三人の男の、バラバラに喰い千切られた死体が転がっていた。
目は飛び出し、腸は食い散らされ……。
アイリスはもう一度、吐息を吐いた。
オーガスタスの傷を抑える為に、神聖騎士団の守護ペンダントは外せない。
だが今一番頼りに成るのは神聖騎士達だった。
が、救助を呼ぶだけの光の力は、無い……。
オーガスタスからペンダントを外し、助けを呼べばオーガスタスは途端瀕死に、陥るだろうから……。
アイリスはもう一度深い吐息を吐いて、アースルーリンドを護る、高い崖壁を見つめた。
レイファスは目を閉じるオーガスタスの顔色が真っ青で、血の気が無くてぞっとし、必死でオーガスタスの肩を抱いた。
白い光に包まれてオーガスタスの出血は、それでも止まっているように見えて、レイファスは震える手でオーガスタスにしがみつくように抱きついていたけれど、それ以上彼が血を流し続けずに済んで、ほっと僅かに安堵した。
けどオーガスタスの衣服の殆どが彼の血で真っ赤に染まっているのに気づくと、また不安に襲われ、血生臭いのも気にせず、オーガスタスの胸に突っ伏して泣いた。
そして、祈った。
『誰か、お願い…!
オーガスタスを助けて!
絶対、死なせないで!』
心の中で繰り返し、繰り返し、祈り続けた。
ローフィスが寄り来る死体をものともせず、呪文を唱え続ける。
空間の見えない敵は空気を震わせ、雷のような声で怒鳴る。
“これだけの力を持つ、俺を倒せると本気で思ってるのか?!
たかが、人間風情で!"
ギュンターもディンダーデンも、薄気味悪い、たった今自分達が殺した筈の死体が続々と立ち上がり、寄り来るのに、ローフィスに勝算があるのかと、本気で疑った。
だがローフィスが呪文の最後に
「アクル・エル・クス・ミッターテンダー!」
と叫んだ途端、姿の見えない敵は、空間を震わせる。
瞬間、ローフィスの斜め前に白い影が姿を現す。
ディンダーデンは目を疑って叫んだ。
「…ホールーン!」
続き、ローフィスがまた呪文を唱え始め、その最後に同じ言葉を吐いた。
「…アクル・エル・クス・ミッターテンダー!」
そして、反対の斜め前に、また白い影。
「…アーチェラス………!」
ギュンターが唸った。
金の刺繍飾りの付いた白い神聖騎士団隊服に長身のその身を包む、白っぽい長髪の二人の神聖騎士達は周囲を見回し、死体が不気味に寄り来るのを、笑った。
“おのれ、末裔…!
大した力も持たぬ癖に、私を封じようというのか?!”
アーチェラスが、叫んだ。
「どう喚こうが所詮“影”だろう?!」
ホールーンの心話が、響き渡る。
“久しぶりだな。
アルクス・ザマーン。傀儡の凶王。
アースルーリンドには居場所が無くて、こんな場所に巣喰ってたのか?!”
アルクス・ザマーンと呼ばれた凶王は、二人の神聖騎士に言葉を無くした。
ホールーンが何かを唱え始め、アーチェラスがそれに追随する。
彼らの腰に下げた剣が白く光り輝き、二人はそれを抜くと、動く死体に振り下ろし始める。
まるで、見えない操り糸を断ち切るかのように、その死体の頭上を、次々に。
彼らが剣を振る度、死体はごろりと転がり、動かなくなった。
空間の御大“傀儡の凶王”は、一人、一人と操り人形が死体に戻って行く度、空間を振るわせて怒り狂う。
“おのれ…!
おのれ!!
やっと俺のものに、したばかりなのに…!”
凶王の怒りそのままに、黒い靄が空間から漂い、神聖騎士達を覆い始める。
彼らの白い衣が、ギュンターやディンダーデン。ローフィスらに黒く見える程の濃い“障気”だった。
が、ホールーンがその銀の真っ直ぐな髪を散らし、靄を切り裂くと、傀儡の凶王は、ぐわっ!と叫んで空間を震わす。
アーチェラスもやはり、その黒い靄に激しく斬りかかる。
途端、凶王は空間を激しく揺さぶり始める。
アーチェラスが、はっと気づいてローフィスに振り向く。
ローフィスが、意味を察して頷く。
ホールーンの、心話が三人の頭の中に響いた。
“奴は力を失い、この空間を維持出来ない…!
直閉じるから、早く行け…!”
ローフィスは呆ける後ろのディンダーデンの腕を咄嗟に鷲掴み、その隣のギュンターに視線を振り、怒鳴った。
「白く光ってるその道へ、走れ!早く!」
ディンダーデンはローフィスに引っ張られ、ギュンターは慌てて振り向くと、背後に大きく光る白い光を見つけ、ローフィスと共にその中へと駆け込んだ。
真っ白な光で周囲が眩しくて見えない。
が、だんだんと光は消えて行き、ギュンターが気づくとそこは再び暗い、洞窟の中だった。
「どうなってんだ?」
ディンダーデンが手を振り上げてローフィスの掴む腕を外すと、前へ進もうとし、ローフィスが周囲の状態に気づいてディンダーデンの頑健な肩をむんずと掴み、引き戻す。
「折角連れ戻ったんだ!
またどっか行かれたら困る」
ギュンターもディンダーデンも、ようやく暗さに目が慣れ、少し先に居る仲間に気づいた。
ゼイブンが、三人の姿が真っ白く光る光の中から現れるのを目にし、つぶやく。
「ローフィス。戻ったのか?」
ギュンターもディンダーデンも良く見ると、周囲に粉が、薄い白い光となって浮かんでいた。
ローフィスが、それを見て怒鳴る。
「もっと真面目にやれ!ゼイブン!
光が薄いぞ!」
ゼイブンは腰に手を当ててぼやく。
「道筋は、見えるだろう?」
「不十分だ!」
ファントレイユとテテュスが見上げると、ゼイブンは眉間を寄せ、ぶつぶつと呪文を唱え始める。
ギュンターが見てると、空間の光の粉はほんの少し、明るい白に光った。
ローフィスはその体たらくに、ゼイブンを怒鳴りつける。
「呪文は唱える人間の“気"に反応するんだ!
“気"を抜きまくってるだろう!真面目にやれ!
キレた時くらい、本気で唱えられないのか?!」
ローフィスに怒鳴られ、ゼイブンの顔が真剣に成る。
「糞!
アフル・ゼルダ・アン・カーソンズ・ゼブンダルド………」
一瞬にして光が輝き、周囲が真っ白に成るのに、ギュンターもディンダーデンもぎょっとした。
「…いいぞ。
この光の中なら、全然安全だ」
ローフィスが背を向けて進むのに、ディンダーデンもギュンターもお互い顔を見合わせ、付いて行った。
ギュンターは、あの不気味な死体が動く様から愛しのローランデの姿が再び見られるのに感激し、表情には出さなかったものの、思い切りローランデに近寄って彼の腰を、抱き寄せた。
瞬間、背後に刃物のぎらりと光る殺気を感じ、思わず腰を抱くその腕を、解く。
振り返るとやっぱりシェイルが、短剣を背に、突き刺そうとしていた。
ディンダーデンはあの不気味な空間から無事生還したばかりなのに、隣でシェイルの短剣を掴む手首を握って、力比べしてる悪友に思い切りぼやいた。
「一、二を争う近衛の垂らしが、当代随一と詠われる美青年と力比べだなんて、色気が無いにも程があるぜ…」
ギュンターはシェイルの手首から必死で短剣を落とそうと力を込め、呻く。
「色気が無いのは、俺のせいじゃない…!」
ローフィスの手が、シェイルの手首を捻るギュンターの腕を、掴む。
「シェイルに短剣を引っ込めさせるから、それ以上捻るな」
「約束するな?!」
ギュンターの剣幕に、ローフィスは頷くとシェイルに振り向く。
シェイルは凄く、不満そうに力を抜き、ギュンターが手首を離すと同時に、短剣を腰のベルトに、戻した。
ディングレーがローフィスに寄るとそっとささやく。
「オーガスタスとレイファス。…それに後から消えたアイリスが、戻らない」
言って、ファントレイユとテテュスが心配げに、彼らの消えた場所を喰い入るように見つめている姿に、視線を振る。
ローフィスが、一つ頷く。
と、同時にゼイブンの撒いた白い粉の浮く、真っ白な空間から、ホールーンとアーチェラスが白い輝きを伴って、端正ですらりとした美しくも勇敢な姿を現す。
ローフィスがその姿に、ほっと吐息を吐いてつぶやく。
「あんた達が無事に戻って良かった」
アーチェラスは白金の巻き毛の長い髪を振り、その青の瞳の輝きが零れるように微笑むと、低く響く声音でささやく。
「我々は軽いし、空間が閉じる瞬間に移動出来る」
「それでもだ。
奴らの空間に飲まれたら、幾らあんた達でも重傷を負うじゃないか…!」
事情に詳しいローフィスの心配に、ホールーンは微笑む。
そして白く輝く周囲を見渡す。
“大した力だ。
これは、誰が…?”
皆の頭の中に響き渡る涼やかな声に、ゼイブンが心の中で返事をする。
“俺だ。
ローフィスにどやされた”
アーチェラスが、くすくす笑う。
ローフィスが二人に向かい、口を開く。
「ペンダントから、アイリスの“気"を追って居場所を掴めないか?」
アーチェラスが、秘やかに眉を寄せてローフィスに振り向く。
「行方が、解らないのか?」
ローフィスが頷く間も無く、ホールーンが端正な白面を傾け“気"を辿り始める。
途端、暗い空間に巨大な闇の結界を見つけ、眉間を寄せる。
その向こうに、自分と同じ神聖騎士の白い光を放つ護符が、ぼやけ、揺らめくのを感じ、更に辿ろうとした。
が…闇の結界の膨大な圧力の中に、まるで反射鏡のように幾つもの歪みを見つける。
“どれだけの出口を持ってるんだ…?”
一旦この闇の結界内に入ったら、最低でも四カ所もの別の空間へと飛ばされる。
ホールーンは思わず呻く。
“良く…オーガスタス達を見つけられたな…”
自分達ですら、この歪みまくった空間の中から目指す相手を探し出すのは、困難を極める。
アイリスの必死な想いを感じ、ホールーンはその幾つもの歪みの別空間への出口の一つへと、アイリスが通った白い光の道筋が細く、通っているのを見つけ、手繰る。
瞬間、その出口を探った時見えた映像に眉間を寄せる。
アーチェラスが意識を読み、ささやく。
“これは…オーガスタスの姿か?”
ホールーンは頷き、短く呻く。
“アイリスがペンダントで傷を防いでいるが…”
アーチェラスが頷くようにつぶやいた。
“瀕死だ………”
ホールーンはアーチェラスに向けささやく。
“アイリスの作った軌跡を辿り、直ぐ飛ぶ”
アーチェラスの、眉が寄る。
“…だが、この結界の厚さと濃さは相当だ”
ホールーンは頷く。
“私は“光”そのものだから、辿り着く先を見つけさえすれば飛べるが、よくアイリスはこの結界の中、光の回路を通したものだ…”
アーチェラスもアイリスの通った軌跡の周囲に幾つものひび割れを見つけ、呻く。
“オーガスタス達が余程心配だったんだろう…。力尽くでこじ開けてある。がホールーン、幾ら君でも“障気”にやられる。
このぶ厚い闇の結界の中では”
ホールーンはつぶやく。
“それでも行かざるを得まい?”
アーチェラスが直ぐ言った。
“援護する”
ホールーンが一つ、頷く。
アーチェラスは体から一瞬で白い光を発光させ、それをホールーンに向けて放ち、ホールーン自らもそれを受けて白く輝き出し、その姿は一瞬で、真っ白い光に包まれ消えて行った。
その場に残るアーチェラスを、テテュスもファントレイユも呆然と見つめる。
ローフィスがアーチェラスに顔を向けてつぶやく。
「アイリスは召喚の呪文を、唱えて無いのか…?!」
アーチェラスは一瞬躊躇ったが、ローフィスにそっとささやく。
「重傷を負い、傷を癒すのに護符の力を使い、召喚にエネルギーが回せなかったようだ」
テテュスが、身を揺すって叫んだ。
「重傷?アイリスが?
…それとも、レイファス?!」
アーチェラスは、皆が動揺するのを覚悟したようにつぶやく。
「オーガスタスが。
ひどい傷だ」
ギュンターの、顔が殴られたように一瞬揺れ、その肩を激しく揺らすのに、ディンダーデンは瞬間ギュンターの肩を掴み込む。
ローランデがそんなギュンターを見上げ、動揺し掠れたか細い声で尋ねる。
「…どのくらい?」
アーチェラスは白金の巻き毛に囲まれた端正な白い面を俯け、ささやく。
「全身に、数十カ所の傷。
決して浅く無い。
そして出血が、ひどく激しい」
ギュンターが途端、アーチェラスに怒鳴る。
「俺の血を奴に、移せるか?!
以前それが出来ると、聞いた事がある!」
アーチェラスは悲しげに眉を寄せ、ギュンターに告げる。
「…血を移すのはとても繊細な作業だ。
そんな力はここではとても、使えない」
ギュンターが肩を落とす姿を、ディンダーデンもローランデも心配げに見守る。
アーチェラスは皆に静かな声で告げる。
「死に至るにはまだ少し大丈夫だが一刻も早く、光の結界に連れて行かねばならない。
しかも負ったのは闇の傷だ。
うんと濃い光で無いと……」
不安そうなテテュスとファントレイユの顔を見、アーチェラスがそっと言った。
「幸い、ここは『光の里』に近い。
『光の里』にはうんと強い光の結界の場所がある。
直ぐ誰かを、呼び出そう…」
そう、言うなりアーチェラスは目を閉じる。
テテュスがアーチェラスに話しかけようと身を乗り出して口を開き、ディングレーがその手を引くと低い穏やかな声でつぶやいた。
「邪魔するな。テテュス。
アーチェラスは呼び出せる相手を探してる」
テテュスは顔を揺らし、ディングレーをそっと見上げる。
「オーガスタスは、死んだりしないよね?!」
ディングレーは口を開けて何か言おうとし、ローフィスが腕組みし、ディングレーに代わって確かな声音で言葉を紡ぎ出す。
「彼らを、信用しろ」
テテュスはローフィスを見たが、ローフィスの明るい青の瞳は、確信に満ちていた。
帰る道筋を探そうと、アイリスは崖を乗り越えられる場所を見回す。なだらかな場所は僅かで、どれもその先は急な、絶壁へと繋がっていた。
頭上遙か、見上げる空の殆どを占める程巨大な崖に、アイリスは思わず溜息を漏らす。
オーガスタスを担ぐどころか、レイファスを導く事すら、不可能だった。
が、アイリスは岩壁の横に、白の光に包まれたホールーンが姿を現すのを見、歓喜の表情を浮かべ駆け寄る。
「助かった!」
ホールーンは崖から突き出す岩が屋根のように頭上を覆い、周囲を岩壁に囲まれた場所で、横たわるオーガスタスの胸元からレイファスが血まみれの泣き顔を上げるのを、見た。
そっと屈んで、全身を血で浸したようなオーガスタスの傷の様子を見る。
そしてアイリスに心話で話しかける。
“先に飛ぶ。
アーチェラスが『光の里』の者と話しを付けてる。
回路が開けば助っ人の力を借り、オーガスタスを『里』迄運べる”
アイリスは咄嗟に尋ねた。
“オーガスタスの、傷の具合は…?!”
ホールーンの、吐息が聞こえるようだった。
“命を無くす、ギリギリのところだ。
ただ………”
“ただ?”
“彼は生命力が強い。
闇の傷がすっかり癒えれば、本人の回復力がモノを言う……”
アイリスの、眉がきつく寄る。
だが白銀の素直な髪を胸にさらりと流し、ホールーンは黄金の瞳で微笑みを零すようにささやく。
“心配するな。
『光の里』の結界内で暫く眠れば、直癒える。
里には優秀な癒し手が幾人もいる”
アイリスが、頷く。
ホールーンの、理知的な声が頭の中で響く。
“護符で傷を押さえたのは、良い処方だった”
アイリスは微かに微笑むとつぶやき返す。
“正直、その後どうしようも無くて、途方に暮れていた所です。
ローフィスが召喚の呪文を?”
ホールーンは頷き、顔を上げて言った。
“連絡が付いた。
私はオーガスタスと先に飛ぶ。
直、君達二人が通れる回路を開く”
言って、ホールーンはオーガスタスに屈むとその胸からペンダントを外し、血に染まるペンダントを横に立つアイリスの、広げた手の平の上にそっと落とした。
ホールーンが、顔を下げてオーガスタスの横に屈み込む。
途端、発光する真っ白な光に包まれて、ホールーンと共にオーガスタスの姿も一瞬で消えた。
「オーガスタス!」
駆け寄るレイファスの小さな手を握り、アイリスは屈んでそっと告げる。
「大丈夫。レイファス。
オーガスタスはホールーンが安全な場所に、連れて行ったから………」
レイファスは、顔を上げた。
その小さな頬にオーガスタスの血が、べったりと付いていた。
「オーガスタスは、大丈夫だよね?」
アイリスは大きな青紫の瞳を潤ませるレイファスにそっと寄って、抱き寄せると頷いた。
「簡単に、死んだりする男じゃない」
レイファスはアイリスの腰にすがって顔を、埋めた。
ひっく。ひっく。と泣きじゃくり、彼の涙は止まりそうに、無かった………。
アーチェラスが顔を上げると、空間からやはり背の高い、白っぽい肌をし、整いきった顔立ちの三人の男が、白い光を纏って姿を現す。
ディンダーデンもギュンターも、突然のその出現に目を、擦りそうになった。
まるで、魔法のようだ。
何も無い空間からいきなりそこに人が、現れる様は。
一人がゼイブンに浮かぶような真っ青な瞳を向けて唸る。
「お前の友達か?ゼイブン」
テテュスとファントレイユは話しかけられたゼイブンを、思わず見上げた。
ゼイブンは肩をすくめる。
「俺の友達って言うと、助けてくれない気か?」
ローフィスが、すかさず怒鳴る。
「俺の、友達だ!」
『光の里』の男はローフィスに視線を振ると、頷いた。
もう一人が言う。
「ホールーンが、直現れる」
別の一人は目を閉じ、つぶやく。
「これは、ひどい傷だ…。
体力の無い男ならとっくの昔に死んでいた」
アーチェラスが眉間を寄せ、心話でそっと『光の里』の男にささやきかける。
が、男の一人がつぶやく。
「ホールーンが伴って現れたら、彼らもその姿を目にするぞ?」
「それもそうだが………」
アーチェラスが、心配そうな小さなファントレイユとテテュスに視線を向け、男の一人がそれに気づいて言った。
「一人はアイリスの息子だし、もう一人はゼイブンの息子だ」
アーチェラスが二人の子供を、庇うように言った。
「息子が父親程タフな神経の持ち主とは、限らないだろう?」
ギュンターとディンダーデン、そしてシェイル、ローランデ、ディングレーに一斉に見つめられ、ゼイブンは思わず眉間を寄せて、目を伏せた。
が、空間が一際白く輝いたかと思うと、ホールーンが、その腕の中に仰向けて気絶する血塗れのオーガスタスを抱いて、白い光の中から姿を現す。
ギュンターは親友の姿にショックを受けて体を揺らし、ディングレーは血塗れのオーガスタスの気絶した姿を目にし、思わず身を震わすテテュスの手を、しっかりと握りしめたがその顔は蒼白で、ファントレイユはゼイブンの腰回りに身を突っ伏すように抱きつき、ゼイブンはそっ…。と顔を下向け、ファントレイユの背に、労るように手を回した。
ディンダーデンは眉を思い切り深く寄せ、ローランデは思わず全身をその血で浸したように真っ赤な、余りの凄惨なオーガスタスの姿に叫びそうになって口を両手で押さえ、シェイルはローフィスを、泣き出しそうに見つめた。
ローフィスは、全身をその血で真っ赤に染め、真っ青な顔色で目を閉じる友の姿をじっ、と見つめる。
“助ける”
『光の里』の男がローフィスに告げ、ローフィスは返す。
「確実か?」
“癒し手が、里に何人居ると思う?
確かに我々は里を離れては殆どの力を使えない。
今ですら神聖騎士に回路を開き、固定して貰っているから里から光の力をここに中継し、何とか使えるが”
ローフィスは、頷く。
「奴が死んだら、お前を斬り殺すぞ」
顔色も変えずそう言うローフィスを、皆が一斉に見た。
ホールーンがオーガスタスの体を地面にそっと横たえ、里の男達三人はオーガスタスを取り巻くと、白く輝き出す。
一人の声が皆の頭の中に響く。
“出来るだけの事はする。
が最後に命を繋ぎ止めるのは本人だ。
それは奴に直接言え。
オーガスタスにお前の声を伝えてやる。
話しかけろ”
ローフィスは一つ吐息を吐くと、真っ白な光に包まれ、消えゆく友の姿に怒鳴った。
「お前が今死んだりしたら、レイファスが責任を感じて落ち込むぞ!
一生の心の傷を負わせない為にもお前は、絶対無事生還しろ!」
里の男の、ローフィスの言い様に呆れる声が、頭の中に響き渡った。
“…どうして、死なないでくれ。と素直に言えないんだ?”
皆揃ってローフィスに顔を向け見つめたが、ローフィスは突っぱねるように怒鳴る。
「人間には、そいつに通じる言い回しってのがあるんだ!」
“伝える。オーガスタスの、返答だ”
今度は気絶してる筈の、オーガスタスの声が頭の中で響く。
“まあ、頑張るが、レイファスの目の前で化け物に喰われなかっただけでも良しとしといてくれ。
さすがに俺も、これだけ血を流すと疲れる”
ギュンターが顔を激しく揺らして眉を悲しげに寄せ、ローフィスは彼らが消え行く姿に、喰ってかかるように怒鳴り返す。
「抜かせ!
絶対あの世になんか、行かせないからな!」
ローフィスの言葉に、オーガスタスが笑った気が、した。
“あの世で美人の天使に囲まれてる俺の腕を引っ張って、下界へ引きずり下ろす気だな?”
「当たり前だ!
何が何でも地上に引き戻してやる!」
“折角あの世でいい思いしてる時に、お前に引きずり降ろされるのはごめんだ。
また、この世で会おう”
「約束だぞ!」
“約束だ”
最後の小さな白い光が消えた途端、声は終わった。
ゼイブンが、そっとローフィスに寄ると尋ねる。
「奴の約束は、宛になるのか?」
ファントレイユがそう聞く背の高い父親を見上げる。
ローフィスはゼイブンに憮然とした表情を向け、低く唸った。
「あいつは破った事が、無い」
「そうか…」
その言葉に、ギュンターが安堵の吐息を、洩らした。
その時、ホールーンとアーチェラスの立つ背後が真っ白に光り、その中からレイファスを抱き上げたアイリスが姿を現す。
「レイファス!」
ファントレイユが叫び、テテュスも悲鳴に近い声を上げた。
「怪我してる?!」
頬も髪も、手もが血まみれで、皆がレイファスとアイリスを凝視する中、アイリスがそっと言った。
「オーガスタスの血だ」
レイファスの頬からはひっきり無しに涙が滴り、壊れてるみたいに泣き続けていた。
シェイルはアイリスに駆け寄ると、思わずその可憐で小さな、泣いている子供をアイリスから譲り受けて抱きしめ、ギュンターは言葉が出ず、ローランデは思わず駆け寄る、心配で胸が張り裂けそうなテテュスとファントレイユの表情を悲しげに見つめた。
ローフィスが、俯きながらぼそりと言う。
「しまった…。
オーガスタスに、レイファスを心臓が壊れそうな程泣かせた責任を取れと、脅すのを忘れた」
ディングレーが俯き切ってつぶやいた。
「オーガスタスはあんたが忘れてくれて良かったと、今頃胸を撫で下ろしてるさ」
ディンダーデンも同感だと頷き、ぼそりとつぶやく。
「よりによって瀕死の怪我人を、脅すんだもんな…」
ファントレイユとテテュスが、シェイルの横でレイファスを見上げ、口々に言う。
「どっこも、怪我して無いの?」
「どこか痛くて泣いてるんじゃ、無くて?」
レイファスはシェイルに抱かれながら、背の高いアイリスをそっと見つめ、震える声でつぶやいた。
「オーガスタスは、死なないね?」
アーチェラスが泣いているレイファスにそっと寄ると、柔らかな良く響く声でささやく。
「大丈夫」
レイファスはその、優しい神聖騎士に二度、確認するように顔を上下させて見つめ、それからやっと、頷いた。
ホールーンの横が再び白い光に包まれ、ウェラハスが白い金飾りの隊服に身を包み、その堂とした姿を現す。
見つめる一同に視線を振り、アイリスを見つけ真顔でそっとつぶやく。
「大変な目に、遭ったようだ」
アイリスは頷く。
「私で無く、オーガスタスが」
「聞いた。
ここに歪みが集中してる。
『影の民』の一人が開けた穴に、他の“影”達も便乗したようだな」
暫くしてウェラハスの横から、ドロレスとムアール、そしてエイリルが真っ白な閃光の中、瞬時に姿を現す。
「ひどいな…」
ムアールが周囲を眺めて眉をしかめると、ドロレスも言う。
「罠だらけだ」
ウェラハスが頷くと
「入り口は無数だが、辿った先は丁度、四つだ。
塞ぐぞ」
リーダーであるウェラハスの言葉に三人一斉に頷き、各々光の薄い、少し暗い空間へと、駆け込むようにその姿を消して行く。
ウェラハスはホールーンとアーチェラスに、その端正な白面の、浮かぶ様な青い瞳を向けて告げた。
「戻って、休んでくれていい」
ホールーンとアーチェラスはリーダーのその気遣いに、こっくりと頷く。
白い光の中に消えて行く二人に、アイリスは咄嗟に駆け寄り、叫ぶ。
「幾ら感謝しても、足りない!」
殆ど白い光の中で透けていく二人は、微笑んで頷いているように、皆に見えた。