5 男の子
朝ファントレイユはやっぱり、洗ったと言うのにまだ唇が不快な気がして、唇を袖で拭っていた。
朝食の席に行く時庭でアロンズの姿を見つけ、ファントレイユは駆け寄った。
「アロンズ…!」
アロンズは少し青冷めていたけど、やっぱり優しい瞳を向ける。
「大丈夫?いっぱい、怪我をしたんでしょう?」
ファントレイユが聞くと、後ろにいたレイファスが言った。
「男の子はどれだけ痛くても、殴り合った後は痛いだなんて、絶対言わないんだ」
アロンズは一層微笑むと、レイファスを見た。
「君も、そうかい?
でもひどく地面に叩き付けられたんだろう?
背中がうんと、痛かったんじゃないか?」
ファントレイユは不安げにレイファスを覗う。
いつも一緒の寝台で休んでるけど、夕べは先に眠ってしまった。
「…でも名誉の負傷は例えどんなに痛くても、痛くないんだ」
そう言ったレイファスは本当に男の子に見えて、ファントレイユはつい彼をまじまじと見つめた。
アロンズは笑って、レイファスの髪を撫でる。
レイファスはまるで同志からの賞賛を受けるように、少し誇らしげだった。
「でも、ファントレイユは深刻なんだ」
レイファスがそう言うと、アロンズが肩を落とし、少し悲しげな表情をファントレイユに向ける。
ファントレイユはどうしてもアロンズの顔を見る時、その形の綺麗な引き締まって優しげな口元に視線が、吸い付いて困った。
自分がどうしてそんな場所が気になるのか解らず、ついアロンズに見つめ返され目をそらす。
けどレイファスにはその理由が、解ってるみたいだった。
「…とてもまずいお菓子を食べた後って、気分が最悪だけど、その後美味しいお菓子を食べると良くなるよね?」
アロンズはレイファスが何を言い出すのかと、目を丸くした。
ファントレイユには途端、レイファスの言った意味が解った。
フレディでうんと気持ちが不快だった。
…だから…アロンズの口元がとても気になるのは、大好きなアロンズに口づけてもらったら、不快な気分が直るんじゃないか。
そう、ぼんやり考えていたし、レイファスにもその事を知られてしまった。と気づいたからだ。
レイファスに、聞きたかった。自分はそんな風に、アロンズの事を見つめてたのかって。
レイファスはフレディだけで無くアロンズも同様、ファントレイユの事を凄く綺麗な子供だと思っているのを知っていた。
それでレイファスは続ける。
「アロンズも、見たろう?
ファントレイユはフレディに口づけられて、凄く気分が最悪に不快なんだ。でももし、アロンズが………」
アロンズはレイファスの言ってる意味を察し、途端飛び上がりそうに声を跳ね上げる。
「僕が………?だって、僕は………」
そしてファントレイユの視線に気づき、そっと彼を見る。
アロンズに驚かれ、ファントレイユは凄く恥ずかしくて頬を赤く染め、俯いてしまった。
いつも…年の離れた親友同士のような付き合いだった。
だから…幾らフレディが変な事をしたからって、同じ事をその親友に頼むだなんて、きっとうんと…アロンズはびっくりしたろうな……。
ファントレイユは俯いたまま、もうアロンズの口元を見るのは止めよう…。そう固く思った。
が、レイファスは尚も言う。
「…でもアロンズに口づけられたりしたらきっと、美味しいお菓子を食べた時のように、ファントレイユの凄く不快な気分が直ると思うんだ」
「じゃあ、レイファスは僕がファントレイユにとっての、美味しいお菓子だと思うの?
…でも…」
アロンズはチラ…。と俯くファントレイユの、とても綺麗で人形のような顔を見つめ、そっと慌てて小声でささやく。
「…ファントレイユはそう、思ってないと思う」
ファントレイユはそれを聞いてますます真っ赤に成る。
が隣のレイファスに肘でつつかれ、か細い声でつぶやく。
「…とっても、呆れてると思うけど…。
レイファスの、言った通りなんだ」
それだけを、やっとの思いで吐き出す。
けど途端アロンズの声が、とても気の毒そうに、心配そうに成った。
「そんなに不快だったの?」
レイファスが後を継ぐ。
「ずっと、唇を袖で拭ってるんだ。うんとすすいだのに」
ファントレイユはもっとうんと、下を向いた。
あんまり恥ずかしくて、顔がアロンズから、そっくり隠れるように。
アロンズのため息が、また、頭上で聞こえる。
ファントレイユはアロンズがもの凄く呆れていて、二度と親友に戻れないんじゃないか。と、真っ赤になってうなだれた。
だが、アロンズの手が、顎にそっと触れる。
そして顔を、上げさせられた。
その時、ファントレイユがいつも、神話の美しい神様みたいだ。と思っているアロンズの顔が間近に瞳に映り、ゆっくりとその顔が寄せられるのを、うっとりとした気分で見つめた。
そしてその唇が押し当てられた途端、その初々しくて優しい感触に
『レイファスの言った、美味しいお菓子だ』
…そう、アロンズの事を感じた。
まるで夢見心地で、うっとりとした気分になって、昨日の不快な出来事が魔法のように消えた気がした。
彼の、暖かな唇が離れると、ファントレイユは残念な気がした。
滅多に食べられない手作りのチョコレートの、残りの粒が二粒になった時の、落胆に似ていた。
アロンズが、顔を上げる。そして心配そうな表情を向けてつぶやく。
「気分、直った?」
レイファスは、ファントレイユの顔に書いてある。と言いたげな表情を見せ、ファントレイユに顎をしゃくる。
アロンズはファントレイユの、少しうっとりした表情を見て頷いた。
そしてファントレイユに、屈んで尋ねる。
「もう、唇を拭わないね?
あんまり擦ると、真っ赤になってその内ひりひりして、飲み物を飲んだりすると、きっと痛むよ?」
ファントレイユは素直にこくん。と頷いた。
「もう、拭わない」
アロンズはそれはにっこりと笑った。
けれどファントレイユがあんまり、アロンズの事をうっとりと眺め続けるのでとうとうアロンズの方も顔を赤らめ、用があるから。とその場を、そそくさと去って行った。
レイファスが、つぶやいた。
「君、自分の事女の子みたいだって言われると怒るけど…」
ファントレイユはいきなり正気に戻ると、レイファスに
『何を言い出すんだ?』とばかり、直ぐ様言い返す。
「そりゃ、怒るよ」
「アロンズは君に見つめられて真っ赤だった。
女の子にあんなに熱い瞳で見つめられても、そうならないのに」
ファントレイユはレイファスを、見る。
何を言いたいのか、さっぱりだった。
「だから?」
レイファスは解っていないファントレイユの様子に肩をすくめた。
こまっしゃくれて、女の子より可愛いレイファスにそんな事を言われるなんて、凄く心外だ。
…そう、ファントレイユの顔に書いてあったので。
でも、レイファスの言った事はじきに、ファントレイユにも解るように、なった。
アロンズはそれ以来ファントレイユを、避け出したので。
ファントレイユの姿を見ると少し頬を赤らめ、彼のやって来る反対の方向へと、姿を消してしまう。
ファントレイユがアロンズの背を見送り、それは気を落とす様子を、レイファスは見て肩をすくめた。
昼食後だった。ファントレイユはアロンズの姿を見つけ声を掛けようとした。が、アロンズはその視線を、避けた。
レイファスが隣で見守る中、ファントレイユは何か言いたげにそれでもアロンズの横顔を、じっと見つめ続けた。
アロンズは振り向くが、ファントレイユの視線を受けると悲しげに眉を寄せ、俯き、何も言わずその場を立ち去る。
ファントレイユが声も無く落胆する様子につい、レイファスは声も掛けられなかった。
が自分から逃げるように背を向け去って行ったアロンズの後を、ファントレイユがそっと追うのに、レイファスは付いて行った。
アロンズは屋敷の裏庭で、時々頼まれ物を屋敷に届ける農家の女の子と、会っていた。
彼女が何か告げ、二人は話し込んでいたが暫く見ていると、アロンズは悲しげな表情の彼女の頬に手を掛け、そっ、と、ファントレイユにした時みたいに、その女の子に口付けた。
ファントレイユは暫く、呆然とその様子を見つめていた。
アロンズは顔を上げると彼女に微笑み、恥じらって嬉しそうな彼女の肩を抱いて、その場を歩き去って行った。
ファントレイユが、言葉も掛けられないくらいに消沈している様子が、レイファスにも解った。
まるで自分を失くしたみたいに、人形のように無表情で静かに部屋に、戻る。
「…ファントレイユ」
レイファスが声を掛けても、彼は聞こえてない様だった。
大好きなアロンズに、助けて貰って、不快な気分を直して貰って、素直な彼は凄く嬉しかったのに、その後ずっと避けられ続けたのは随分悲しい事のようだった。
いつも自分を抑える事に馴れているファントレイユが、どうして自分を避けるのか、アロンズを捕まえて問い正したりしなかったから彼の心の傷は余計、大きく成って行った事も、レイファスには解っていた。
レイファスが暫く席を外し、部屋に戻った時だった。
人形のような表情の無い彼の瞳からぽろぽろと涙がこぼれ、頬に滴っていた。
レイファスはそっ、と彼の、横に付いた。
そして、尋ねる。
「どうして泣いているのか、聞いていい?」
ファントレイユはいつもならきっと、慌てて涙を、拭って隠したろうに、その時はしなかった。
まるで、涙が流れてる事なんか気づいて無いように俯いたままつぶやく。
「…僕にとって、アロンズは美味しいお菓子だったけど、アロンズには、違ってた。
僕がまずいお菓子で…あの女の子が、彼にとっての美味しいお菓子なんだ」
レイファスは言葉を無くした。でつい、何か言おうと口を開ける。がその言葉を自分が言ったところで、ファントレイユは納得しないに違いない。そう思い、止めてその場を、後にした。
レイファスはアロンズの姿を見つけると、その背に怒鳴るように叫ぶ。
「ファントレイユは貴方に嫌われていると思って、泣いている!」
アロンズはびっくりして、慌ててそう言うレイファスの横に来た。
「…どうして………?泣いている?ファントレイユが?」
レイファスは頷いた。
「僕が言ってもどうせ何も聞こえないんだ。だから貴方が言わないと。
ファントレイユは自分の事が貴方から見たら、フレディと同じ毛虫のように嫌な奴なんだと思い込んでいる」
アロンズは心底びっくりした表情で戸惑うようにレイファスの顔を、覗った。
「毛虫…?どうして?!」
「貴方にとって自分がまずいお菓子で、さっき裏庭で会っていた女の子が美味しいお菓子だって。
親友だった貴方に、自分がフレディみたいな嫌な奴だと思われてるのが凄いショックみたいだ」
「…自分の事、そんな風に思ってるの?どうして?」
「だって貴方に、避けられたから」
レイファスが言うと、アロンズは顔を揺らす。
「…避ける気持ちも、解るけど。
僕がどれだけ貴方は悪く無いって言っても、セフィリアは聞かない。第一ファントレイユがフレディの側に寄りさえしなければ、抜け出した事、バレたりしなかった」
アロンズは青冷めてつぶやく。
「…ファントレイユの事を恨んで、避けてたんじゃないのに…」
「でも、ファントレイユはその事を知らない。
僕もセフィリアに、貴方が去る迄ファントレイユに言わないって口止めされた。でも貴方は口止めされてないんでしょう?だってセフィリアは
『お別れを、言っていいわ。貴方方はとても、仲良しだったから』
そう言った。
このまま姿を消しちゃうの?
ファントレイユに、何も言わないまま?」
アロンズはとても真剣な瞳でレイファスを見つめた。
「ファントレイユは、どこに居るの?」
レイファスは、付いて来い。と言うように、先を歩いてアロンズを促した。
「…ファントレイユ」
アロンズが姿を現すと、ファントレイユは途端、俯いた。
涙がまた、頬に滴った。壊れてるみたいで、自分でもどうしようも無かった。
アロンズはそっ…と、ファントレイユの横に来た。
「…自分の事、まずいお菓子だと思ったの?」
アロンズに優しく言われて、ファントレイユは俯いたまま顔を揺らす。
アロンズの、ため息が聞こえた。
「君は一生の内一度食べられたらいいと言う位の、高級なお菓子だと思う」
ファントレイユが、その言葉にびっくりして思わず顔を上げる。
アロンズがまだ頬に涙を伝わせるファントレイユを見つめ、つぶやく。
「僕みたいな庶民は、そんなお菓子を食べられるだなんて夢を見るのは辛い事なんだ。
いつでも食べられる、食べ馴れたお菓子の方が安心なんだ」
レイファスは見守ったが、ファントレイユにはてんで意味が、解って無いようだった。
戸惑うように、言葉を絞り出す。
「…だっ…て、僕なら高級なお菓子が食べられたりしたら、きっと…とても嬉しい」
アロンズは頷いた。
「でも、また食べたくなったら?もっとずっといっぱい、食べたくてもそれは本当に滅多に、食べられないんだ」
ファントレイユにはようやく少し意味が、解った気がした。親戚のマグールおばさんの手作りチョコは、一年に一度しか食べられないし、それが猛烈に食べたくなっても我慢しなくちゃならなかったから。
でも………。
「…僕……は、どうして高級なの?だってアロンズとは仲がいいし、アロンズが食べたくなっても、僕は嫌だなんて決して思わないのに?」
アロンズが、とても切なげに眉を寄せる。
「ファントレイユ。君は貴族のお坊ちゃんで僕は使用人なんだ」
でも、ファントレイユには解らなかった。気持ちの間にどうして身分が入り込むのか、理解出来ないようだった。
「…もう、きっと会えなくなるから。君ももう少し大きくなったら直解ると思う」
ファントレイユが突然アロンズに顔を向け、怒鳴る。
「それ……どういう意味?!」
レイファスもびっくりしたがアロンズもそうだった。が、アロンズは言葉を続ける。
「…このお屋敷を、出るんだ。ランツ様のお屋敷で執事見習いをする」
ファントレイユの、涙がいきなり止まった。
「だって!アロンズはこの屋敷の執事になるんじゃないか!
どうして余所へ行くの?!」
ファントレイユは怒鳴り、そして涙でぼやけた頭が突然鮮明になった。
「…セフィリアが、そう言ったの?アロンズは悪くないのに!僕を庇って怪我をしたのに?!」
「…でもきっと僕がここに居たら、僕は君達に甘いから奥様の言いつけより君達の言葉を聞いて…君は又、危ない目に合うかもしれない」
ファントレイユが、きっ、と顔を引き締めた。
「だってそれは全然間違ってる!」
そしていきなり手を床について立ち上がると、ファントレイユはそのまま駆け出して行った。
レイファスとアロンズはあまりの彼の突然の行動に、暫くお互いの、目を見交わし合って沈黙した。
「セフィリア!」
ファントレイユは室内に入るなり、彼女のドレスにしがみついて叫ぶ。
「アロンズを、屋敷から出さないと言って!
僕が悪いんだ!彼は全然悪く無い!」
セフィリアは小さな息子に屈むと、彼の頬を両手で挟み、その綺麗な小さな顔を見つめ、優しくささやいた。
「レイファスもそう言ったわ。でもファントレイユ。そういう事じゃないの。
彼はとても優しいから、もし又あなた方に頼まれたら嫌と言えないでしょう?」
「僕はもう絶対、アロンズを困らせない!そう約束したらアロンズを出さない?」
彼女の小さな息子がこの間友達の息子に怪我をさせた時、セフィリアはようやくファントレイユが少しずつ男の子らしくなってきているのを知った。が、今回幼い彼が襲われた事を、どうしても無視する訳には行かない。
「貴方を、護る為なのよ……。私がどれ程大切に貴方の事を思ってるか、アロンズだって知ってるからこそ承知してくれたのよ?」
だがファントレイユはきっぱりと言った。
「セフィリアは間違ってる。アロンズは護ってくれた。自分が、怪我して迄。
そんな人を追い出そうとするだなんて、絶対違ってる!」
セフィリアはそれでも、愛する息子を見つめ、ささやく。
「もう、決まった事なの。相手のお屋敷も彼の受け容れを待ってるわ」
ファントレイユはいきなり表情を歪めるとセフィリアの腕を払い退け、机の上のペーパーナイフを、咄嗟に掴む。
「…ファントレイユ!」
セフィリアの、叫ぶ声がした。
レイファスとアロンズが室内に入った時、ファントレイユは自分の喉に、その細い銀細工のナイフを押し当てていた。
「…何やってるんだ?!」
レイファスも我を忘れ、ファントレイユに怒鳴る。
が、ファントレイユは真っ直ぐ母親を見つめ叫ぶ。
「セフィリア。アロンズに悪い事をしたのは、僕だ!
何も悪く無いアロンズが咎めを受けるんなら、僕は自分を、もっとひどく罰しなくちゃいけない!」
セフィリアは震えていた。
「…冗談でしょう?ナイフを引いたり、しないわね?」
だがファントレイユは両手でナイフを、自分の喉に押し当てたまま叫ぶ。
「セフィリア。取り消して!」
ファントレイユは主張を、引っ込めなかった。
セフィリアは青ざめたまま、だがそっとファントレイユに近寄ってささやく。
「ともかく、ナイフを離して……。
話合いをしましょう。お願いよ。ファントレイユ」
だが、ファントレイユには解っていた。
セフィリアは僕が本気で自分を傷つけるなんて思ってはいず、ただの脅しでちゃんと話せば今まで通り、大人しくて聞き分けの言い彼女の息子は絶対、自分の意見に従うだろう。
そう思っている様子が。
レイファスは一瞬、ファントレイユのブルー・グレーの瞳が真剣に煌めくのを見た。
そして慌てて叫ぶ。
「駄目だセフィリア!お願いだ!
ファントレイユは本気だ!
本気で……誰か、止めて!!」
レイファスの、悲鳴のような声が室内に響き渡った。
ファントレイユが、ナイフを自分の喉に押し当てたままさっと引きかけたその時、アロンズの手がその腕を、飛びかかって捕まえた。
セフィリアは両手を口に当て、アロンズからナイフを取り上げられたファントレイユの首に赤い血が、滴るのを見た。
アロンズに抑えられてもまだ、ファントレイユは叫んだ。
「アロンズを出すんなら、僕はこの先いつだって自分を罰するから!!」
セフィリアの瞳に、涙が浮かんだ。
そして震える手で口元を押さえ、涙声で叫ぶ。
「出さない…出さないから……。お願いよファントレイユ。お願い。自分を、傷つけないで……!」
ファントレイユはまだ、何か言いたげだった。
レイファスの、真剣な青紫の瞳が自分に向けられてようやく、自分が最愛の母に投げかける言葉がどんなに残酷か、思い当たって口を閉ざす。
…でも貴方は、僕が自分を傷つけなきゃならないような事を無慈悲にも決断したんだ。
貴方が僕を、傷つけるも同然の事を…………。
そんな事を、言うつもりだった。
いつも大切に護り、慈しみ、どんな危険からもくるむように抱え守りながら愛してきた母親にとってそれは、とてもひどい言葉だろう………。
ファントレイユを傷つける気なんて、毛頭無いセフィリアにとっては。
セフィリアはもう、泣いて、アロンズは止血しようと、ハンケチを取り出し、レイファスは誰か!と大声で叫んでいた。
召使い達が駆けつけ、ファントレイユの首の傷を看た。幸い、深く傷ついてはいなかった。が、傷を抑える薬草を付け、布で首をぐるぐる巻きにされた。
ファントレイユはでも、まだ痛みを感じる様子無く、きっ。とした表情を崩さない。
レイファスが、そっと言った。
「君の、勝ちだ」
ファントレイユはその言葉に気づき、レイファスを見る。
そしてようやく、自分のした事を、見回した。
アロンズは泣きそうだったし、レイファスは疲労したように力が抜けた様子で、セフィリアはハンケチを使用人に差し出され、床に、泣き崩れていた。
ファントレイユはそっ、とセフィリアの横に付くと、抱きしめてくる彼女の腕にくるまれる。彼女は顔を上げ、布の巻かれた小さな首を見つめた。
「…本気だったの?本気で………」
彼女はその傷を見、唇をひどく震わせる。
がファントレイユは少し、笑った。
「だって、セフィリアはいつも言ってたじゃないか。
本気で誰かに物を言う時は、どれだけ本気かちゃんと、相手に教えないといけないって」
だがそれを聞いて、セフィリアはもっと泣いた。
ファントレイユは彼女のそんな様子に、困ったようにレイファスを見た。
が、女、特に母親の気持ちの解っていないファントレイユのまずい言い回しに、レイファスは思い切り、肩をすくめて駄目出しをした。