5 脱出
その、斜めに張られた極太のロープは、僅かにたるみながらも塔の上から屋上庭園へと、渡された。
皆の喉が、その月明かりで黒々とそびえ立つ塔の上を見上げながら、ごくりと鳴る。
アイリスはもう、半狂乱だった。
「…だって……。
ギュンターはまだしも…ゼイブンだ」
ローフィスが、その取り乱す男に言い聞かせるように頷く。
「…そのゼイブンは真面目な時、絶対しくじらないと知ってる筈だ」
「だってそれは…自分の事の時だけだろう…?
今回もそうだと、保証できるのか?」
アイリスの、初めて見る気弱な様子に、ローフィスは心の中で思い切り狼狽えたが、腕組んで、どっしりと頷いた。
「当たり前だ!」
オーガスタスもディングレーも、シェイルもが、ローフィスの内心の動揺を知っていて、彼の不動の演技力に、感動した。
だが折角のローフィスの演技で落ち着きを僅かに取り戻したアイリスの心境を逆撫でするように、婦人の方も、半狂乱だった。
「…怖くて、見ていられないわ…!
あの高さから、テテュスが落ちるだなんて!」
その金切り声にアイリスは思い切り、顔を揺らして真っ青に成ったし、皆の心臓がどくん…!と鳴って炙った。
ローランデが慌てて婦人の肩を抱き
「怖ければ、見なくて構いませんから…」
と、彼女の視線を塔から、外した。
レイファスだけは、わくわくした面持ちで見上げたまま言った。
「滑り落ちるんだよね?
領地にある滑り台の、10個分は、あるから………!」
だが婦人は背を向けながらもまだ、叫んでいた。
「…何て事…!
迷うだけでも大変なのに…!
あの高さから…!
あんな高さから!!!」
ローランデがとうとう、処置無し。と、ディングレーに救いを求めるように、見つめる。
が途端、ディングレーは気づいてくるりと背を、向ける。
シェイルが肘で乱暴に、促すようにディングレーを三度小突くが、彼は断固として振り向かなかった。
ローフィスが吐息を、吐く。
「…じゃあ、お前は降って来るゼイブンを頼む」
ディングレーは、それこそ自分の役目だと、おもむろに頷く。
ローフィスが、代わりにアイリスに付いてやれ。
と、ローランデと場所を代わった。
ローランデが側に寄ると、アイリスはそれこそ泣き出しそうだった。
ローランデは自分より長身で体格のいいその男の情けない表情を見
『婦人とどっちがマシなんだ?』
と内心吐息を吐いたが、ささやいた。
「…賊が侵入した時も、ゼイブンはすべき事を、したろう?」
「…だって…!
重さを考えたら、ゼイブンがテテュスを抱いて降りる筈だ…!
ファントレイユの時は何だかんだ言ってあいつは死ぬ程可愛いから、頑張るさ!
だけど………」
振り向くアイリスは本当に泣き出しそうで、ローランデは思い切り、怯んだが、ローフィスを見習って踏み止まった。
「…だってアイリス。
ゼイブンよりテテュスを信じれば、大丈夫だ。
彼は絶対ゼイブンにしがみついて離れない。
ゼイブンは自分が死にたくなかったら何がなんでも頑張るだろうから…」
いつものアイリスなら
『それもそうだな』
と肩をすくめるのに、彼は両手を胸の前に組んで塔の上を震えながら見つめている。
ローランデが思わず、俯いて吐息を吐くと、オーガスタスもシェイルもが、彼に同情のため息を、吐いた。
ローフィスは、務めてにこやかに婦人に微笑んだ。
婦人は高い塔の上に蠢く黒い人影を、生きた心地無く見つめている。
「…ご覧にならない方がいい」
婦人は震える声でささやいた。
「目が…離せないんですの…。
折角アイリスを讃えようと晩餐を開いたのに…!
アリルサーシャを亡くしたばかりの彼から、テテュス迄奪ってしまったら、わたくしもう、どうしていいのやら………」
婦人の青い瞳が涙で潤む。
ローフィスはだが忍耐強く微笑みを浮かべながら、出来るだけ気楽に、そして男っぽくつぶやく。
「…責任は一緒に付いている騎士が取るし、第一これは男の仕事です。
責任者はあの背の高い一番大柄な男。
貴方では無い…。
さあ、婦人に夜風はいけません。
第一あんなものを見たって、心臓に良くないに、決まっています。
ここは我々に任せて、貴方は中で熱いお茶を飲み、元気なテテュスが貴方に再びご挨拶する姿を思い描いていて下さい。
そうすればきっと………」
明るい栗色の癖っ毛の、青い瞳をしたその爽やかな好青年そのものの、顔立ちの良い若者はいつも人の心を動かすのに成功したが、今回もそうだった。
婦人はローフィスの言葉を聞くにつれ、口元に当てたハンケチを握る手の震えが、止まり始めたからだった。
「…きっと……?」
ローフィスは心の中で『しめた!』と思ったが、表情には微塵も出さず、にっこり微笑んだ。
「…思い描いていた通りに、成りますよ」
そして、側に居た召使いに婦人を差し出し促したが、婦人はローフィスの手首の衣服をそっと握り、放さなかったので、ローフィスは笑顔のまま召使いと共に、婦人の背を室内へと、促し共に中へと、消えて行った。
が、塔の上の黒く小さな人影が動くのが見えると、オーガスタスがディングレーに視線を送る。
ディングレーは頷くと、張られたロープの端に、オーガスタスと共に、陣取った。
「…………………」
ファントレイユが、塔の屋根の天井の、半分埋め込まれた鉄の輪に括り付けられた極太のロープが、少したわんで遙か下へと伸びている光景を月明かりの中、見つめる。
背の高いギュンターは、持っていたベルトを頭上に張られたロープの上に渡し、ファントレイユに振り向く。
彼は途端、屈むギュンターに抱きつき、その首に腕を回すとギュンターは立ち上がり、ファントレイユの腰を抱いていた腕をそっ、と外し、頭上のベルトの片端を、掴んだ。
ファントレイユは咄嗟にギュンターの胴回りに足を絡め、ずり落ちないようにした。
背後にぽっかりと開いた、塔の、その吹きっ晒しの空間から、夜風が音を立ててびゅっ!と吹き差して来て、思わずギュンターにしがみつく。
首にきつく抱きつき、彼がゆっくり少しずつ進むその先を、そっと振り向き様見つめながら目を、見開いた。
一歩一歩、縁へと近づくにつれてその夜空に囲まれた暗い、吸い込まれそうな空間は大きく成っていく。
「………凄く、高い……」
ゼイブンが、怒鳴った。
「見物してる、場合か…!
何が何でもその金髪野獣にしがみついて、腕を放すな!
どれだけ揺れても、跳ねてもだ!
万が一落ちたら………」
テテュスはそう怒鳴るゼイブンを思わず、ぞっとして見上げる。
が、ファントレイユは、解ってる。と項垂れ、風に晒され、ギュンターと共に衣服を膨らませてははためかせ、風に髪をなぶられ浚われながらも、その両腕をしっかりギュンターの首に巻き付け、両足でギュンターの胴をきつく挟み込むと、ギュンターの首の横からゼイブンを真っ直ぐ見た。
「…大間抜け?」
「…そうだ!
女も知らず死ぬ大間抜けは断じて!俺の息子じゃ、ないからな!!!」
即答するゼイブンにテテュスは言葉を無くし、言い切るゼイブンにギュンターは思い切り、腕の力が抜けそうに成ったが、踏み止まった。
胸にしがみつくファントレイユは軽く、だが塔の縁に進むにつれて、風が凄い。
そしてその遙か下の庭園と、塔の角度は……。
信じられない程、急だった。
自分が高所恐怖症で無くて良かった。
と思ったが、その自分ですら恐怖が芽生える程の、高さと暗さだ。
また、ギュンターは自問した。
その暗さは吸い込まれるような恐怖があったが、明るい方が、はっきり景色が見えて高さが解り、もしかしてもっと怖いのか…?と。
だが自分の動揺が、胸に抱くファントレイユに伝わるのか、首に顔を埋めるファントレイユの頭が不安そうにもぞりと動く。
一番縁へ出た時、ギュンターですら足元の何もない空間に頭がくらくらしそうだったから、ファントレイユにささやいた。
「…俺の首に顔を埋めてろ…!
絶対下を見るんじゃ、ないぞ!」
ファントレイユは小さな声で、つぶやいた。
「解った…!」
か細い声だったけれど、彼はギュンターに捕まり、じっとしてもう、動かなかった。
ギュンターは
「いい子だ…!」
告げると、両手首に巻き付けたベルトを握り直し、言った。
「…あっという間だからな!」
言うなり、縁を蹴って空中に飛び出した。
「…降りて来る……!」
凄まじい早さで、その黒い影は滑り降りて来る。
ベルトがロープの表面を弾く音が、耳に轟くように聞こえる。
ずずず…ずずっ…!
が、そのベルトは途中ロープを上手く滑らず、まるででっぱりに引っかかったかのように途端、ベルトがつっかかって凄い勢いで、ギュンターの体がファントレイユ毎上へと、跳ね飛ぶ。
ギュンターは歯を喰い縛り、ベルトを放さなかった。
ずん…!
飛んだ後、ベルトは再びロープにぶつかり、ず…ずっ…。と音を立てまた、二人分の重さで滑り始める…が、その先幾度も、高さを変えては跳ね上がったりするから全員それを見上げては息が、止まりそうになった。
ギュンターは両足を揃え、垂直に突き出し、腰を振ってはバランスを取り、速度を制し、ベルトがひっかかり宙に浮く度、ベルトの当たる位置を変え、その角度を調節し、跳ね上がるのを最小にした。
幸いな事にファントレイユは本当に、聞き分けが良かった。
どれだけ跳ねてもギュンターにしがみつくその腕を外さず、ビクともしなかった。
下で見つめる、見慣れたオーガスタスと脇に控えるディングレーのその顔が、暗い庭園の月明かりではっきり見える位置迄来、ギュンターは叫んだ。
「…受け止めてくれ…!」
そのまま行けば床に激突しそうで、オーガスタスは、勢いづいて飛び込む、ギュンターの胸に抱きつくファントレイユの背中に、自分の胸をぶち当て、がっし!と音を立てて止める。
途端、オーガスタスの胸に背を、胸をギュンターの胸に、凄い圧迫で挟まれたファントレイユは顔をしかめる。
ディングレーに背を乱暴に掴まれ引き戻されたギュンターは咄嗟に離れる。
オーガスタスに背を抱かれた小さなファントレイユに、慌てて振り向き、ささやく。
「…大丈夫か?!
ファントレイユ!」
が、ファントレイユはオーガスタスに背を抱かれたまま、咽せていた。
「こほっ…!
こほっ!」
オーガスタスはその小さな子供を、片手で軽く抱き支え、向きを変えては両脇を抱き上げると、その朗らかな笑みを浮かべて、笑った。
「良く、頑張った…!」
ファントレイユは彼の賞賛が嬉しかったけれど、まだ咳き込みながら、それでも頷いた。
レイファスが高くオーガスタスに抱き上げられたファントレイユを見上げ、声をかけそびれて見守るが、一向に彼の咳は止みそうに無かった。
オーガスタスは彼を胸に抱きしめ、その背をそっとさする。
が、ゼイブンらしき影が塔の上で動きを見せると、そのファントレイユの体を側に居るローランデに、預ける。
ローランデはオーガスタスに引継ぎ、彼を胸に抱き寄せると、今だ咳の止まらないファントレイユの背を、優しくさすった。
アイリスが、最早心臓が保たない。
と言う程青冷めきった面持ちで、塔の上を、振り仰ぐ。
ローフィスは戻って来ると、オーガスタスを見つめた。
塔の上を見上げるオーガスタスは、だがまるで笑って無くて、小声でローフィスに告げる。
「…あのでかいギュンターでさえ、あれだけ跳ねたんだ…。
あの速度で跳ね上がったら…とても危険だ」
ローフィスも小声でつぶやく。
「…軽いともっと、跳ねるか?
だがテテュスが重石代わりに成るだろう?」
「…ゼイブンの腕が、保つか?
…ただでさえきついのに、跳ねた拍子で万一ベルトを放したりしたら……」
オーガスタスの心配は痛い程、解った。
誰だってあんな状況で、ベルトを放したいと思ったりしない。がそれが手から、意思を超えて放れてしまいうる。つまりそれ程、事故が起こり易い状況だと、オーガスタスは言っていた。
それが例え…執着心の強い、ゼイブンでさえも。
ローフィスは思い切り顔を下げ、吐息を吐いた。
「…頑張って貰うしか、無い」
オーガスタスも、『それしかないな』と頷いた。
テテュスは抱きつくゼイブンが、縁へと歩くその足取りが、少し揺れているのが気に成った。
確かに、筋肉の少ないファントレイユに比べて自分はずっと重い…。
レイファスだったら、全然大丈夫だったろうに…。
テテュスは幾度も、『一人でも、飛び降りられる』と、言いたかった。
ゼイブンがやっぱり、縁に行く事に不安とその高さの恐怖を感じている様子が、感じられて。
だがゼイブンは自分の足元と、いかに空中に、バランス良く飛び出すかに神経を集中してるように、思われた。
暫く、しがみついたまま無言の時が、過ぎた。
風は冷たく、風は彼の長髪を巻き上げ頬をはたき、テテュスはしがみつくゼイブンの首の横から顔を上げたものかどうか、迷った。
ゼイブンに何か、言った方が、いいんだろうか…?
が、テテュスが顔を上げようとした瞬間、ゼイブンの体は空中を、滑った。
凄い、早さで体が下へ、滑り落ちている…!
上を見るとゼイブンはその腕を動かし、ベルトをしっかと掴みながらもバランスを取ってる。
周囲の夜空の景色が、後ろに消し飛ぶように流れて行く、その爽快感につい、必死で舵取りするゼイブンには悪いと思ったけど、テテュスは歓声を上げそうになった。
途端、滑っていたベルトがロープのどこかに突っかかり、つんのめって後ろにがくんっ!と引っ張られ、次いで跳ねるように体が上へと、浮いた。
が次の瞬間、再び落下してロープに叩き付けられ、体ががくっ!と下へ、衝撃と共に落ち込んだ。
ずり落ちそうになったが必死でゼイブンにしがみつく。
ゼイブンの腿が、持ち上げられて落ちそうになるお尻を支えてくれて、ほっとした。
けどゼイブンの手首に巻き付いたベルトが、その重みで喰い込み、手首が千切れるんじゃないかと思う程で、テテュスは気遣おうとしたがその前にまた、がくん…!とつっかかり、つんのめった。
テテュスは必死でゼイブンにしがみつく。
また宙に跳ね上がる。
が落ちる瞬間しっか!と両腕両足を絡めてしがみつき、少しでも反動を防ぎ、ゼイブンの負担を減らそうとした。
でも暫くしてまた…跳ね上がると、もう本当にゼイブンの手首に、ロープが締め付けられるように巻き付き、ゼイブンがその余りの痛みに、駄目だ…!
と心の中で叫んだ気がして、テテュスは思わずしがみつくゼイブンの首の横から、下を、見た。
暗い樹木に囲まれた庭園が下に、見える。
それでもまだ、オーガスタス二人分くらいの高さがあったけど、二人分の体重の重みがゼイブンのベルトを巻き付けた手首にかかり、その手首を引き千切ろうとする程の痛みをもたらすのに、ゼイブンは腕を震わせきつく歯を、喰い縛ってるのが解ったから、テテュスは思わず下に向かって、叫んだ。
「…受け止めて…!」
咄嗟に、ゼイブンが怒鳴った。
「馬鹿…!
止めろ!」
ゼイブンは腿を持ち上げ、滑り落ちようとするテテュスの腰を、捕えようとしたが、テテュスは素早かった。
巻き付けた腕を離し、足を引き抜き、お尻をゼイブンの横に突き出しその胸を押し、一気に下に滑り落ちていった。
ゼイブンは頭上のベルトに捕まったまま、テテュスを逃がすまいと足をバタつかせたが、もう遅かった。
「テテュス!」
アイリスは頭上から落下する彼に真っ青に成り、必死で駆け寄る。
オーガスタスが凄まじい脚力で、横に並ぶ。
「テテュス…!」
駆け寄るオーガスタスの長い腕がテテュスの体を掴もうと伸び、だがその余りの速度に体を掴み損ねて足だけを何とか両腕で掴まえ、アイリスはその下向きの頭を捕まえようと突っ込んで抱きつく。
が、テテュスの胴を掴んだもののその頭が、地面に激突しようとしたその時、一瞬テテュスの体がぱあっ!と金色に光り、空中で停止した。
アイリスは必死で停止したテテュスの頭を、抱き上げる。
床とはほんの、数センチしか無くて、アイリスは一瞬彼の頭蓋骨が、床に激突する様を思い描いてぞっとした。
が、腕に抱くテテュスの温もりに、遮二無二彼をきつく、抱きしめた。
オーガスタスが、聞こえるくらいにほっとため息を付きながら、息子の体を掻き抱くアイリスに、預けるようにしてその足を、放す。
テテュスの、その温もりを腕に感じ、アイリスの瞳に涙が、滲みかける。
光に包まれたテテュスの体から、その光がゆっくり消えていく毎にその腕に重みを感じ、光が完全に消え去った時、テテュスはアイリスの、腕の中に、居た。
「………………………!」
アイリスはもう、言葉が、出ずにただ、ただテテュスを腕の中に抱き包んだ。
見下ろしテテュスのその後を見守る間も無くゼイブンは、一気に体が軽く成ったのを幸いに、少し跳ねてはベルトを手首から少したるませ、千切れる程の痛みを僅かに軽くし、足を振ってバランスを取り戻しては、先で受け止めようと待ち構えるディングレーの胸に飛び込んだ。
どんっ…!
衝撃は、凄まじかった。
テテュスを胸に抱いていたらもっとかも…。とも、思った。
安堵が体を包み出した途端、感覚が、戻る。
………彼を抱きしめるディングレーの、その、固い筋肉の逞しい胸。
大きくて熱く、頼もしくて安心感があり、ディングレーが少し体を離しそっ…とゼイブンの顔を伺ったりする、その厳しい表情の顔がひどく男っぽくてそれは、男前のいい男で、つい見つめるゼイブンの肌にぽつり…ぽつりと、蕁麻疹が、浮かび始める。
ゼイブンは自分に起きた危機を緊急に感じ取り、あれ程痛んだ手首を乱雑に振り、締め上げてたベルトをたどたどしく外し、泡喰ってつぶやく。
「放してくれ…!
頼むから、一刻も早く…!」
ディングレーが腑に落ちない顔で眉を顰め、だがまだフラつくゼイブンの体を支えようと抱きしめたまま、立たせようとする。
ゼイブンはその発疹が、体に広がる部分的な熱さを、そこに、かしこに感じたりしたから、もう必死だった。
フラつく足取りで地に足の付く感覚の無いまま叫ぶ。
「…いいから…!
蕁麻疹よりこけて、痣作った方が、数十倍もマシだ…!
痣なら自慢出来るが、発疹付きだと女に逃げられる…!」
ファントレイユは声を掛けようとし、その言葉で立ち止まり、レイファスはテテュスの元に駆けつけながらもつい、振り向いたし、シェイルもローランデも、アイリスとオーガスタスの元へ走るその足が、止まりかけた。
喚く彼を腕に抱くディングレーの、眉間が思い切り寄る。
「…蕁麻疹…?」
側に居たローフィスが、通訳が要るな。とぼやくようにディングレーに告げた。
「放してやるのが、奴に取って最上の親切だ」
ディングレーはローフィスを見た。
どう見てもゼイブンの足取りはフラついてはいたが、ローフィスが頷くのを見、ディングレーは素っ気なくゼイブンを突き飛ばすように放り投げ、ゼイブンはその足で自分を支えられず、突き放されたように床に転げ落ちた。
「………………………」
転がるゼイブンはゆっくり顔を上げると、ディングレーを睨む。
ディングレーは振り向き、その睨みに不本意そうに、ゼイブンに唸る。
「だって、親切なんだろう…?」
途端、ゼイブンは怒鳴った。
「…放せとは言った!
一刻も早く!とも!
だが乱暴に、突き倒せとは、言ってないぞ!!!
どうしてもっとソフトに扱えないんだ!」
ローフィスが、ぼやいた。
「…それをディングレーに要求するか?
奴の扱いがぞんざいだと、知ってる筈だし第一…自分が誰だか、解ってんのか?
女なら幾ら奴でも扱いは、もっとマシだろうが……」
ディングレーの眉間が、ローフィスの言葉に思い切り寄った。
「…それは俺が、乱暴者だと聞こえる」
ディングレーが言うと、ローフィスはただ肩を、すくめた。
ゼイブンは顔を歪めて解ってないディングレーに、心から怒鳴った。
「だから…!
乱暴者だと、言ったんだ!
間違いなく奴も俺も、そう思ってる…!
やさ男には一切、気を使わない気なんだな?!」
ディングレーは思い切りぶすっ垂れて、怒鳴った。
「…だから何だ!
言われた通りにしたのに、これ以上何が不満だ?
蕁麻疹に比べりゃ、屁でも無いんだろう?!」
ゼイブンは、ふと気づくと、床に転がったまま自分の顔に触れてみた。
発疹が出てないのを確認し、周囲に聞こえる程安堵の吐息を、吐いた。
が、ローフィスは寄り来ると、転がるゼイブンの肩を掴む。
「…女より、手当てだ」
ゼイブンはその上司の顔を見上げた。
「?
…湿疹は、引っ込んだぞ?」
ローフィスはその大馬鹿に思い切り、吐息を吐いた。
「手首が、腫れ上がってる。
その手で女を抱けたら、大したもんだ」
ゼイブンは自分の、真っ赤に腫れ上がる手首を、ついじっと、見た。
きつく掻き抱くアイリスに、テテュスは胸がきゅんと成り、彼にしがみついた。
「…光ってたよね?!」
レイファスが、興奮したように叫ぶと、後ろからファントレイユもやって来て叫ぶ。
「…『光の国』の、子供が助けてくれたんだ!」
「…『光の国』の子供?」
シェイルがつぶやくと、オーガスタスが彼を、見た。
「…姿を変えた、ワーキュラスだろう?」
シェイルはテテュスを、見た。
「…一瞬浮いたよな?体が…。
あんな能力を使っちゃ、ディアス(ディアヴォロス)は当分動けなくなる」
オーガスタスは、頷いた。
「彼を煩わす、揉め事が起こらない事を、祈ろう…」
ファントレイユが顔を、上げる。
見上げるレイファスとファントレイユの二人の視線にローランデは気づく。
「…ワーキュラスがこの世界で能力を使うと、一緒にいるディアヴォロス左将軍がひどく、消耗するんだ…」
レファントレイユが、悲しげに顔を下げ、レイファスがそれに気づいて思わずファントレイユを、見つめた。
「…塔の扉を、開けられないって…言っていた。
きっと…左将軍の体を気遣ったんだ」
シェイルは、頷いた。
「今度会ったらちゃんと、礼を言っておけ」
レイファスは彼を見上げて尋ねた。
「そういう時、お礼は誰に言うの?」
シェイルは笑った。
「ディアスに。
きっとワーキュラスに伝えてくれる」
アイリスは顔を、揺らした。そして腕に抱くテテュスの頭が一瞬、床に激突しかけた事を思い描くと、身が震った。
そしてテテュスを胸から離すと、その愛しい顔を見つめて、叫ぶ。
「…無茶をして…!
どうして飛び降りたり、するんだい?
私は心臓が、止まり掛けた…!」
そう言うアイリスの頬に涙が伝って初めて、テテュスはすまない気持ちで一杯で、顔を下げてささやいた。
「…心配かけて、ごめんなさい………」
アイリスは言葉が出ず、二度、テテュスの掴む腕を乱暴に揺すった。
そして両頬を涙で揺らし、だがまだ言葉が出ずに、もう一度テテュスの体を、揺する。
皆がアイリスが、泣き叫ぶんじゃないかと思ったが、彼は唇を震わせて言った。
「私を、置いていかないと約束した筈なのに…!
どうして…………!」
皆がアイリスのその切なげな震える小声につい、俯いた。
テテュスはいつでも、自分を捨ててしまえる…。
そう、他人の、為に、いつでも……。
アイリスは尚もテテュスに、言って聞かせた。
「ゼイブンが…痛そうだったから…?
でも、それでゼイブンは死んだりしない…!
私との約束より、重くなんか、ない…!
ゼイブンの手首より君の…命の方が、何倍も………!」
アイリスは言えず、涙に震えて俯き、テテュスはその、誰よりも頼もしい騎士が、声も無く泣くのを、初めて見た。
「……アイリス…………」
ごめんなさい。は、軽すぎた。
テテュスは言葉を探したけれど、何一つ、見つからなかった。
アイリスは肩を震わせ、暫く顔が、上げられなかったが、ようやく顔を、上げた。
濃紺の瞳が必死に…自分を見つめるのをテテュスは、見守った。
「…君が死んだら、私も生きてはいない…!」
その時ようやく、どくん…!と…。
テテュスの心が震った。
アイリスは、本気だった。
この素晴らしい騎士はきっと……。
自分を失ったら敵の刃にいとも容易く身を晒して討ち死にする覚悟を、見せ、それが…テテュスに痛い程、感じられ、今度はテテュスが、がたがたと、震え出した。
「…君はいつも…私が大丈夫だと、思ってる?
そうじゃ、ない……!
君迄逝ってしまったら、私の人生には価値が、無い……!」
「違う!」
テテュスは叫んだ。
「だって…だってアイリスはいつもたくさんの人に頼られてる……!
凄く……大事な人だって……!
そう、見られてる!」
だがアイリスは叫び返した。
「だって君は簡単に自分の命を、投げだそうとしてしまう…!
それは君だけじゃなく、私の命でも、あるのに……!
君が、要らない…と言うのなら、私はそれに、従う!」
そんなに力強いアイリスの声は、皆初めて聞いた。
それは父親というよりまるで…運命を託し、誓いを立てた主に語りかける言葉に、似ていた。
自分の従うべき主の間違った道を、必死で正す、臣下のような。
そして、いざと成ればその主と命を共にする覚悟の、従者のような。
テテュスは瞬間呆けて、アイリスを見た。
まだよく解らないテテュスに、アイリスは真っ直ぐその眼差しを投げ、叫んだ。
「君の命は、私の命だ…!
君が護れないなら、私に価値は、無い…!
君がアリルサーシャを護れなくて自分が駄目だと、思っているように、私もそうだと……なぜ、気づかない…?
君の側にずっと居ろと言うならそうする…!
君の為に片時も離れず仕える事は……」
アイリスは顔を下げ、そして顔を横に振り、震える声でつぶやく。
「心から、望む事で私にとって…苦でも、何でもない…………」
そう、顔を下げるアイリスにようやくテテュスは、離れている間アイリスがどれ程自分の身を想い、側に居られない事を歯噛みして悔しがったか、思い知った。
「…もう、しない……!」
テテュスも、叫んだ。
「もう…解った。アイリス!
解ったから…お願い。泣かないで……!
貴方の命だと思ってもっと自分を気遣うと、約束する…!
絶対するから…!」
アイリスは咄嗟に顔を上げてその腕を強く握り、叫んだ。
「…絶対だ…!
君の為なら私……だって命を捨てるのは、簡単だ!」
アイリスが涙で一瞬喉を詰まらせながら、あんまりきっぱりとそう言うので、とうとうテテュスの瞳から、涙が溢れた。
「…いやだ……!
アイリスは大事だ…!
凄く、大事だから、死んでほしく無い……!」
ようやくテテュスが、子供らしくアイリスの首にせがむように抱きつき、皆がほっとした。
ギュンターが、皆の背の後ろから、ぼそりとつぶやいた。
「…やっぱり人間、本音が一番だな…!」
皆が振り向いて、彼を見た。
微笑んで、いた。
が、ギュンターは皆に一斉に見つめられ、ついぼそりと洩らした。
「…ゼイブン迄に成ると、さすがにみっともないが…」
ローフィスが後ろから、ギュンターの肩を叩いて言った。
「…安心しろ。
ゼイブンの場合、あれは本音じゃなく、本能だから」
皆が心から納得したように、頷いた。