3 彷徨い子
テテュスは、ファントレイユを見た。
正確には、ファントレイユの居る方向を。
そこは、真の暗闇だったので。
「大丈夫?」
テテュスが聞くと、ファントレイユのあどけない声が返って来た。
「平気。テテュスは?」
「僕はどこも痛めてない」
こんな状況で心細く成っても仕方無いのに、テテュスの声音はとてもしっかりして、ファントレイユは心からテテュスを『頼もしい』と思った。
ふ、と視線を向けると、その先に漏れ出る灯りが見えた。
「テテュス」
ファントレイユが促すと、テテュスと二人はその闇の中を這った。
灯りの洩れる、剥がれ掛けた壁板を引き剥がすと、テテュスやファントレイユら、子供なら通れる程の小さな穴が出来て、二人はそこから這い出した。
まるで、街の路地に入り込んだみたいに、煉瓦の塀に取り囲まれ、月が空に拝めて、二人はその外の狭い道を、歩いてみた。
煉瓦の壁が続き、途中二手に別れたりして、テテュスとファントレイユはもう本格的に迷うしか無い。と、腹を括るしかない覚悟を、決めなければならなかった。
「…どうしよう…」
ファントレイユが二つの路地を見つめてつぶやくと、テテュスが月明かりの中、右側の通路の先に、一階は階段で二階に部屋のありそうな小さな建物を見つけて、促した。
「…ともかく、休めそうだと思う」
ファントレイユは、とても美しいと感じる端正なテテュスを見つめて、頷いた。
濃い栗毛はとてもたおやかで品良く見えて、落ち着いた雰囲気で、自分を見つめる濃紺の瞳が月の光に深い色のサファイアみたいに煌めき、とても頼もしかった。
二人は月の光の中、土を固めて作ったような階段を登ると、その先の扉を開けた。
ファントレイユが窓から月明かり差す室内にある寝台を見つけ、そっと触れてつぶやく。
「…埃が、被ってない…」
テテュスを見ると、テテュスは窓辺の、洒落た布張りの椅子と机を見つめて返答した。
「…うん。誰か、掃除しに来てる」
ファントレイユが寝台に腰掛けて、言った。
「じゃ、ここに居れば掃除しに来る人にきっと、会えるね」
でも…。
テテュスは思った。どれくらいの、頻度だろう?
埃が、溜まらない程度に掃除をしに来るのに。
昨日か今日、掃除したとしたら次に…いつ、やって来るんだろう?
でもファントレイユがようやく、人形のような無表情を崩して無邪気な顔で寝台の上でくつろぐのに、それを口に出来ずに、隣に腰を下ろした。
薄暗い部屋はそれでも小じんまりとして、居心地が良かった。
机の上には水差しがあり、ちゃんと中に水も、入ってはいた。
でも食べ物は…。
いくら室内を見回しても、どこにも見当たらない。
ゼイブンの言った通り、食べ物をポケットに詰め込んで置く必要があったと、今更ながらに思ったけど、でもそれはもう遅かった。
レイファスはギュンターとゼイブンが自分が扉の脇に居るのに、気づきもしないで言い争い、中へ消えるのに呆れた。
中へ、自分も続きたかったが、さっきローフィスに釘を刺されていた。
「お前迄消えたら、アイリスは半狂乱だ」
レイファスはそれを思い描くとアイリスがあんまり気の毒で、一緒に探しながら冒険したい。とは、とても言い出せなかった。
そっ…と、出口へ進むと、外ではオーガスタスとディングレーが主催者の婦人の、慌てて状況を訊ねるカン高い声に、それでも平静に応えていた。
相変わらずライオンのように風格あるその男の、どっしり構えた様子は安心感があったし、ディングレーも威厳を損なわずにその場に立っていたが、エリューデ婦人は半狂乱だった。
「…まあ!あのテテュスが?何て事でしょう!」
取り乱す婦人の様子に、周囲を取り巻く幾人かの紳士が探索を申し出たが、婦人はきっぱりと断った。
「貴方方迄消えてしまったら、探す人員が不足します!」
客達はその複雑に入り組んだ屋敷内の噂を嫌と言う程聞いていたので、一斉に顔を下げた。
オーガスタスを見上げ
「ともかく、慣れた者達を呼び集めますから」
とエリューデ婦人は告げ、晩餐と客のもてなしでてんてこ舞いであちこちに散らばる、召使い達の召集にかかった。
「ウィラスは?!…厨房なの?
デサンは!…いいから直ぐ、探していらっしゃい!」
ディングレーは召使い達の、慌てふためき客を掻き分け走り去る、その様子を見つめ、そっと顔を下げ、オーガスタスにささやいた。
「…暫く、かかりそうだ」
オーガスタスは頷いた。
「…こっちに更に、行方不明者が出たら…赤っ恥かくぞ」
ディングレーが、顔を上げた。
「幾ら何でも、そこ迄間抜けな奴が居るか?
第一今回は、アイリスもローフィスも、ローランデ迄居る」
レイファスはそれを聞いてつくづく、後に続かなくて良かった。と安堵した。
けどオーガスタスは眉間を思い切り寄せて、ディングレーに振り向いた。
「忘れたのか?
ゼイブンと、ギュンターも入ったろう?」
ディングレー迄が思い出したように顔をしかめ、レイファスは二人の様子を、言葉もなく見守った。
アイリスは必死で、並ぶ扉を開け続けた。
この扉の内のどれかに、テテュスは閉じこめられてる気がしたから、気が気ではない。
どう見ても隠し部屋で、囚人を閉じこめる為の部屋だと、解っていた。
多分、外からは開くが中からは開かないからくり部屋で、扉にジャイムの木が使われているのがその証拠だった。
蹴破れないし、中でどれだけ叫んだとしても…。
このジャイムの扉と分厚い石レンガの壁に遮られれば、外に声も洩れない。
しかも中の造りは、寝台に椅子に書き物机がどの部屋にも備え付けられていたから、それなりに待遇の良い…それでも、囚人を閉じこめる為に使われていたと解る。
昔この辺りはひっきり無しの侵略があったから、捕虜を閉じこめる為の場所として、使われていたのだろう。
また一つ扉を開け、鏡の反射で部屋を舐めるように照らし出す。
テテュスなら直ぐ、この光に気づく筈だ。
顔を上げ、駆け寄り……。
アイリスは足音が聞こえやしないかと聞き耳をたて、暗い扉のこちらで暫く、待った。
が静まり返った暗闇からは何の物音も、しない。
「…テテュス!」
耐えきれずにそう叫ぶが、暗いその静まり返った空間からは、呼び返すテテュスの声は無かった。
アイリスは一瞬顔を歪めると、バタン!と乱暴に、その扉を閉じて隣の扉に向かった。
ローランデは階段の反対側で次の扉へと向かう、アイリスの姿に振り返る。
彼がこんなに取り乱す姿は、一度しか見た事が無い。
まだ北領地[シェンダー・ラーデン]に戻る前の、近衛時代。
仲間が激戦地に残され、絶望視された時だった。
ローランデは別の場所に出動が決まり、支度を終えて野営のテントから出ようとした時、アイリスと、その上官との諍いを聞いた。
「…どうして…ラロッツを助けに行かないんです!」
アイリスの声にはいつも、親しみと若々しい信頼感が溢れていたが、その時の声には逼迫感があった。
つい、聞き耳を立てるが上官は、諦めの吐息を吐く。
「…ラロッツ隊はぐるりと敵に取り囲まれ、全滅は時間の問題だ。
シャーネン隊へ援軍を送る命令が下っている。
あそこが持ち直せば、少しは敵の進行を押さえられるしそれに…ラロッツがあの場を守りきれなかったからこそ、今こんな事態に、成っている!」
アイリスが、怒鳴ると思った。
が、彼の声は静かだった。
「守りきれない責任を、全滅という形で取らせると言うなら、私は黙っていない」
その声が、あんまり低く、静かだったので、ついローランデは二人の話すテントの中を、覗き込んだ。
アイリスは少し青冷めた顔色でだがその表情は厳しく、静かな威嚇を上官に向かって放ち、これが年下の、あの人懐っこい育ちの良い坊やかと、思う程の気迫だった。
上官はその時ようやく、アイリスの叔父が大公である事を思い出し、つぶやいた。
「…どうしようと言うのだね?」
上官も、そして聞き耳立ててたローランデもがアイリスが叔父の名を使い、ただでは済ませないと脅す。と、待ちかまえたがアイリスは静かに言い放った。
「すぐ、私に出動命令を。ラロッツの元へ」
これには上官もローランデもびっくりした。
「…わ…解ってるんだろう?
私はたった今、ラロッツは敵に囲まれていると…!」
アイリスは直ぐ、早口で言い返す。
「では尚更早急に援軍が必要だ」
「敵の数は二百近い!
周囲から押し寄せられたら、たった20数名で…一体どうやって切り抜ける!
逃げ場は、無いんだぞ!」
「私の隊が出向けば、一人頭5人を斬り殺せば撃退出来る計算だ」
言葉の内容はともかく、アイリスは引く事を一歩もしない決意に満ちていて、彼を止める言葉はその上官には無いだろう。とローランデはその時思った。
アイリスは、驚愕に目を見開き自分をただ見つめるばかりの上官に舌打つように忌々しげに、だがやはり低い、静かな声音で、底に気迫を滲ませ断固として言い放った。
「時間が惜しい。さっさと命じてくれ!」
上官は彼のいつもの品の良さに隠されたその気迫の鋭さに青冷め、怒鳴り返した。
「君を死地に送ったと、非難されるのは私なんだぞ!」
「あなたにその責任は取らせない」
直ぐに言い切った彼はとても静かで…だが底に秘めた凄まじい気概に満ちていた。
アイリスが命令を勝ち取り、テントから出て来た時、ローランデは足早に歩く彼の長身に追いすがった。
アイリスは気づくと振り向き、その長身を少し屈めて顔を傾げながら、いつもの…優雅でとても人懐っこい、チャーミングな笑顔を零してささやく。
「どうしました?」
「私も君に随行する。
…そうすれば…一人頭斬り殺す数が、もっと減るだろう?」
アイリスは一瞬目を見開き、そして笑った。
「聞いて、らしたんですか?
でもローランデ。貴方はシャーネンを助けに行く命令を受けてる筈だ」
「…そっちはギュンターも居る」
アイリスは自分より背の低い年上の剣豪の彼に向き直り、やっぱりとても優雅な微笑を湛えてささやいた。
「ではそちらを、一刻も早く切り崩す事を願います。
ご存知の通りラロッツの居場所は、シャーネンが頑張って前進してくれないと逃げ場を完全に、塞がれますからね!」
行こうとするアイリスの腕をそれでも掴み、ローランデはアイリスを振り向かせて早口で問うた。
「辿り着けるのか?
第一…辿り着いて、どうやって私達が逃げ場を開ける迄保たせる気だ?!」
アイリスはやっぱり、年上の尊敬する先輩の心配に、嬉しそうに笑った。
「私はあの辺りの地の利に詳しい。
約束します。貴方が来てくれる迄私達は決してくたばらないと。
頼りにしてるんです。ローランデ。
あなた方が切り崩してくれないと、私達はどれだけ切り殺したって、敵を全滅させない限り逃げ場が無いんですから」
ローランデは言葉を無くした。
…そしてアイリスは約束通り、一刻も早くラロッツの元へ進もうとするシャーネン隊と援軍に混じって前進を続ける彼の、もうその前を塞ぐ敵をすっかり打ち倒して見晴らせる、晴れ渡った青空の、白雲から漏れ差す眩しい陽に浮かび上がる草のまばらな岩場の丘の向こうから、全滅する筈だった隊を率いて現れた………。
彼は見守る味方の先頭に居る自分を見つけ…随分汚れた、くたびれた格好をしながらそれでも、笑った。
極上の笑みで、濃い栗毛を風になびかせ、輝く陽光の中濃紺の瞳が輝く様を今でも…覚えている。
彼は顔が見える程近づくと、笑いながら口を開いた。
「…やっぱり、貴方は頼りに成る。
私が思ってたより、数倍も、早かった」
誉めてやりたいのはこっちの方だと、つい駆け寄って抱きしめてやったが、アイリスがとても誇らしげに抱き返し、顔を見つめ、微笑んでささやいた。
「貴方に、そんなに評価して頂けるなんて、幸いだ」
後ろからギュンターが憮然として唸った。
「評価より、命があった事を幸いと思え!」と…………。
だが、今アイリスが時折扉を開けながら、狼狽した声で、息子の名を呼ぶその狼狽えようと悲しげな声を耳にし、あれは若くて怖いもの知らずだから出来た事だったのかそれとも…。
テテュスの事に成ると本当に彼は完全に自分を失うものかと、思案した。
開けた扉に、だが消えた子供達の姿は見えず、ローランデは扉を閉め、次の扉を目指すその間に階下に微かな鈍い音を聞いた気がし、誰かが足を滑らせて壁にぶつかったのかと、手摺りに手を乗せ階下を見下ろすが、ローフィスが忙しく次の扉を乱暴に開け、シェイルが階段を下に、駆け下りる姿を目にすると、まるで急かされるように顔を上げて、次の扉を開けて中を、覗いた。
テテュスはいつの間にか、ファントレイユの隣で彼に寄り添って、眠りに付く自分に気づいた。
うとうととした、眠気を払おうとしたけれど、ここに来る前かなりのおやつを摘んでいたし、それに大観衆の騒ぎや周囲の興奮ですっかり疲れていて、隣のファントレイユの体の温もりと寝台の寝具の柔らかな心地良さに、再び瞼を閉じた。
閉じたその瞼の裏で、悲しげな表情をしたアイリスが、語りかけた。
『どこに…居るんだい?』
テテュスは眠りに落ちるその寸前で、そのアイリスに返答した。
「アイリス…。僕はここだ………」
その言葉がアイリスに届いたかどうかを確認する間無く、テテュスは深い、眠りに落ちた…。
「…なあ…。いつまでこんな無粋な状態が、続くんだ?」
暗闇でゼイブンが口を開く。
ギュンターは顔を上げず、唸った。
「どうしてそれを俺に聞く?」
隣で自分同様、開かぬ扉に背をもたせかけて膝を抱え座るその男は、髪を揺らした。
「そりゃ…。じっとしてるタイプじゃないだろう?お前は」
「お前の方こそ、どうなんだ?
知恵を使いそうな、タイプに見えるが」
ゼイブンはお互いを皮肉り合うのは馬鹿げてる。とようやく気づいて、肩をすくめて吐息を、吐いた。
「実際、解ったのはここが捕虜を閉じこめて置く隠し部屋だって事くらいで、つまり俺達は、いわゆる牢破りをしなきゃならない知恵を、必要とされてる囚人と同じだ」
ギュンターは隣で思い切り、俯いて吐息を、吐いた。
「晩餐に来て、囚人になるとはな」
ゼイブンはつい、口が滑って感想を述べた。
「野獣に牢は似合いだがな」
だがギュンターは怒りもせずに言い返した。
「一見牢に見えない牢獄は、軽い男を閉じこめる罠にしては、最適だしな」
ゼイブンはやれやれと暗闇の向こうのギュンターを見やって、吐息を、吐いた。
「…喰い付かれないだけ、マシってコトか……」
ギュンターはだが、声を落としてつぶやいた。
「野獣だって喰らう相手くらい、選ぶさ。
お前は不味そうだ」
ゼイブンはつい、問い返した。
「ローランデなら極上か?」
ギュンターは肩を落として深い吐息を吐いた。
「解りきった事を、聞くな」
召使い頭のその男は随分若く見えたが、その場所を婦人から聞いて、叫んだ。
「…あの額縁を、いじって扉を開けてしまったんですか?
あそこは………!」
ディングレーがつい、身を乗り出すと男に訊ねる。
「あそこは、どうした?」
流れる黒髪とがっしりとした肩の、威厳の塊のような気位の高く荒っぽい様子のディングレーと、巨人のように立派な体格のオーガスタス。その横の小さな美少女のような可憐なレイファスに一斉にじっ。と見つめられ、男はその立派な騎士達に気後れしたように、しどろもどろに成った。
「…その…古い造りで、先日掃除した後、扉を一斉に開けられる仕掛けが、壊れたばかりで………」
ディングレーは一気に、青冷めた。
「…あの無数の扉を今、連中は一つ一つ、開けて回ってるんだぞ?!
一斉に、開ける装置があったのか?!」
だが召使い頭は泣き出しそうに顔を歪めた。
「…だから、そのからくりが、先日壊れたばかりで、職人はまだ、直していないんです!」
「どうしてとっとと直さない!」
ディングレーが怒鳴ると、オーガスタスが彼に控えろと、静かに警告した。
「彼を泣かすな」
ディングレーはオーガスタスを見上げ、そして召使い頭を、見た。
その茶色の瞳が潤んでいるのに気づき、慌てて付け足す。
「俺は怒ってるんじゃ、無いぞ!」
が、どう聞いても怒鳴り声で、説得力が全然無いな。とレイファスは俯いた。
オーガスタスが彼に静かに告げる。
「…ともかく方法があるんなら、試したい。
そのからくりの場所に、案内して貰えるか?」
召使い頭はその大きな男の声がとても穏やかなのに、ほっと安堵し、頷いた。
案内する男とオーガスタスの後に続くディングレーは、隣のレイファスにささやく。
「…どうしてオーガスタスだと、あの男はあんなに安心するんだ?
俺だって…優しかったろう?
まあ…それなりに」
レイファスは曖昧に、笑った。
「…うん。
それなりには、優しかった。
…かも、しれない」
その返答に、やっぱり怒ってるとしか見られなかったんだと気づき、ディングレーは俯いて、吐息を吐いた。
厨房を抜けた扉の向こうの石壁に囲まれたその広い部屋に、巨大な水車のような木で出来た歯車はあった。
オーガスタスが、場所を開ける召使い頭の横を通って、その中心から伸びる木の取っ手の破損を見つめた。
手で回すその取っ手は確かに割れてしまっていて、握って力を入れたら、粉々に砕けそうだった。
レイファスが、駄目だね。と言う顔でディングレーを見たが、ディングレーも同様の表情でレイファスを、見つめ返した。
が、オーガスタスが、そっとその割れた取っ手の根本の木棒を、掴む。
「…………」
レイファスとディングレーが見守ると、オーガスタスは眉を寄せてそれを両手で握り込んで上に押して回し始め、それでもゆっくりと、木の巨大な歯車は、僅かだが回り始めた。
「……………」
ギュンターはゼイブンがようやく人を頼るのを止め、暗闇の中をごそごそと動き回ってるのに気づいていたが、床に両膝を交差させてだれて座り込み、手の上に顎を乗せてゼイブンの、こそ泥のような足音を黙って、聞いていた。
「…………っ!」
その声に顔を、上げる。
だが真の暗闇で、側に近寄る為には両手で障害物を探りながら進むしか、無い。
「…ちっ!」
指を切ったのか舐める音が微かにし、ギュンターはとうとう腰を、上げた。
両手で前を探る姿は絶対無様だと思ったから、暗闇で良かったと思いつつ、結局ゼイブンの、後ろに引いた足につまずいてゼイブンの肩に、顔をぶつけた。
どさっ!
ゼイブンは肩にギュンターの顔が降って来、ぎょっとしたように振り向き、唸った。
「襲う気か?
だって俺は、不味そうなんだろう?!」
ギュンターはいきなり腹を立てて怒鳴った。
「間違えるな!そんな気は全く、無いし第一其処まで悪趣味じゃ、ない!」
ゼイブンがほっとしたように頷く気配がし、ささやき声が聞こえた。
「…それに殴ろうったってこの闇じゃ、顔がどこかも解らんだろうからな」
だがギュンターはつぶやき返した。
「暗闇だろうが、殴る気なら別に、拳を振り回しゃ当たるだろう?」
ゼイブンが、睨んだ気が、したが多分睨んでるんだろう。とギュンターは思った。
だがゼイブンがいきなり、何か鋭い物を振り、その先端の気配にギュンターはぎょっとして、顔を下げる。
ゼイブンははっと気づき、慌ててつぶやいた。
「……ああ……。悪い。
見えないんだよな。
その綺麗なツラを、掠ったか?」
「…ナイフを取り出すんなら、事前にそう言え!」
ギュンターが怒鳴ると、ゼイブンの心配げな声がした。
「…顔を、掠ったのか?」
ギュンターは唸った。
「…大人しく刺されるか!
ちゃんと避けたさ!」
ゼイブンはほっ。と吐息を吐いた。
「よっぽどの事が無いとあんたに傷が付けられなくて、良かったぜ」
ギュンターは唸った。
「それは、誉めてんのか?」
「まあ、一応な。
あんまり、俺に顔を寄せるなよ。
幾ら綺麗だって、野郎に顔を寄せられる事くらい、不気味な事は無い」
「………好きで寄せるか!
見えないだけだ!」
ギッ!
軽口を叩きながらもゼイブンはそのナイフの刃を壁のどこかに差込み回し、いきなり微かな明かりが一筋、差し込んだ。
「…どう、やった?」
「聞いた事があるんだ。
捕虜を閉じこめる必要が無くなった後、宿泊に使えるように、別の入り口から出入り出来るよう改造したと。
…まあここの主人が、王侯貴族と渡りが出来る程宮廷に頻繁に出入りし、大貴族が訪れた際、その従者達の宿舎に宛てた、遠い過去の栄光の話で、それもたったの一回きりだったそうだから…錆び付いてないかと思ったが…」
また、ぎっ!と音がして、その一筋の灯りは幅広に、成った。
ギュンターは咄嗟に、開いた扉の縁に手を掛けると、力任せに押し開けた。
ぎぎぃぃぃぃぃっっっ!
眩しい光が差し、屋敷のどこかの、廊下のようだった。
木製の飾り彫刻の彫られた洒落た造りの重々しい葡萄茶色の壁にはランプが吊され、床は赤い絨毯がひかれ、だがガランとした広い空間で、廊下は何処までも延びている。
見るとたった今出てきた扉は、中はぶ厚い石壁の一部で、廊下側は木製の飾り扉だった。
その分厚い扉を見、重い筈だ。とギュンターは手を離し、振り向くとゼイブンはにっこり笑った。
「…脱出だ」
だがギュンターは、その人気の無い長い廊下の、幾つも並ぶ扉を見つめ、俯いて吐息を、吐いた。
「ここがどこか、解ればな。
ともかく灯りがある以上、屋敷の者が出入りするのを捕まえて、広間に戻る道筋を、訊ねるしか無い」
ゼイブンはそれでも、笑っていた。
「暗闇に野獣だなんてスリルより、場所が解らなくても明るくて前に進めるんなら、最高に好待遇だ!」
そのお気楽具合についギュンターは釘を差した。
「…道行きが俺と一緒な事を、忘れるな」
ゼイブンは途端に思い出し、俯いて吐息を、吐いた。
「たった数十分前まで、両脇に美女が侍ってたのに…」
ギュンターは思い切り肩をすくめると、さっさとぼやくゼイブンを置いて、先へ歩を、進めた。
だが数分後、ギュンターはついその行き先の、真っ暗な上に続く階段を見つめ、唸った。
ゼイブンはもうとっくに来た廊下を戻り、その廊下の先が壁で行き止まりのなのを知って、廊下に並ぶ扉の取っ手を片っ端から、回し始めていた。
回して廻ったのは、どの扉も鍵がかかっていて開かなかったからだ。
ギュンターは焦るその男の様子に振り向くと、静かに唸った。
「…どれか開きそうか?」
ゼイブンは返答しなかった。
自分同様、この薄暗い石で出来た階段を上がるのが嫌だと、淡いグレーに近い栗毛を激しく揺らして焦り捲り、次の扉に飛びかからんばかりに移っては、開かぬ扉の取っ手を回しているその男の様子にギュンターは一つ、吐息を吐いてまた、暗い階段を見つめた。
ゼイブンは肩を落とし、髪に俯いた顔を埋もれさせて戻って来た。
ギュンターの横を通り過ぎると真っ直ぐ、階段に向かい、物も言わず先に登り始める。
「…そっちに行くのか?」
ゼイブンは階段を登りながら振り向かずに言った。
「…あそこには絶対!戻りたくない」
ギュンターは一つ、大きなため息を付くと、ゼイブンの背を、追いかけ始めた。
オーガスタスは眉を少し、寄せてはいたが、渾身の力をふるう様子でも無く、その棒を握り込んだまま、まだ上へとゆっくり押し続け、巨大な歯車は
キィ…。キィ…。
と微かな音を立て、少しずつ、動く。
レイファスはそのでっかい歯車とオーガスタスとを見比べながら、祈るように手を前へ組んだ。
ディングレーは手助けする隙間が無くて、同様レイファスの横でオーガスタスの仕事を見守る。
召使い迄もが、その微かに動く巨大なからくり仕掛けを見つめ、息を飲んだ。
が、次にオーガスタスはその棒を斜め横から引っぱる。
そしてその大柄な体全体の体重を乗せ、横に、引き倒す。
歯車は動きを止め、全員がつい、力の籠もるオーガスタスを応援するように、見つめ出した。
オーガスタスは錆び付くその重さに顔をしかめる。
が、諦める様子も放り出す様も見せず、その力仕事を続ける。
二度。体を揺すってその棒を横へと、動かそうと引き倒す。
レイファスが歯車を見つめるが、ぴくりとも動かない。
オーガスタスはそれでも、棒を両手で握り直し、足を踏ん張り、両腕に力を込め、その棒を横へと引っ張った。
まだ…。動かない。
手が出せないディングレーは、じりじりした。
だが三度目。
歯車は僅かだが、揺れた。
四度目。
カタン…。
音を立てて歯車が、揺れた。
「…もう、少しだ!」
ディングレーが思わず叫ぶ。
オーガスタスは頷くように、再び渾身の力でその棒を、全体重をかけ、思い切り引いた。
ローフィスは顔を、上げた。
何か、軋む音が微かにする。
耳をそばだてるが、やはりその音は聞こえ、しかもだんだんと、大きくなる。
シェイルも隣の部屋から顔を出し、彼を見つめる。
「…あんたにも聞こえる?」
ローフィスは、無言で頷いた。
が、いきなりだった。扉が……。
一斉に音を立て、動いたのは。
「よけろ!シェイル!」
ローフィスの叫びにぎょっとし、だがローフィスはシェイルに駆け寄ると、その扉から彼の体を抱き寄せて離した。
途端だった。
ばね仕掛けのように重い扉がバン!と音を蹴立てて、跳ね開いたのは。
「ローランデ!」
アイリスの叫びが頭上でする。
ローランデの返答が直ぐに、響いた。
「大丈夫だ!そっちは?」
「…顔を少し擦った」
シェイルはローフィスに抱えられ、屈めた顔をそっ、と上げた。
ローフィスは開いた扉を見つめていた。
シェイルは彼を見つめながらささやいた。
「凄いな。
…どうして扉が開くと、解ったんだ?」
ローフィスは腕の中で見上げるシェイルのエメラルドの瞳に気づくと、思い出そうと眉を、寄せる。
「…どこだったかな…。
古城で、こんな仕掛けが…。
どこだったか、思い出せない。
やっぱりいきなり開いて、注意されてたのに顔をぶつけそうになった」
「じゃあ同じからくりかな?」
「多分な」
そう爽やかに笑うローフィスの明るい青の瞳に、シェイルは一瞬見惚れた。
だがいきなり全部の部屋の扉の開いたその巨大な塔の空洞に、アイリスの声が響き渡る。
「…テテュス!
テテュス!」
ローフィスもシェイルもはっとして見上げる。
二人がどこかに閉じこめられている筈なら、姿を見せる筈だ。
シェイルもローフィスも、慌てて周囲に視線を送る。
だが、テテュスとファントレイユの気配はどこにも、無い。
「…テテュス!」
シェイルは泣き出しそうなアイリスのその悲痛な声に胸が痛み、階上を見上げたが、ローフィスがぼそりとつぶやいた。
「…どうしてゼイブンは、叫ばない?」
シェイルはいきなり、現実に引き戻されてローフィスを、見た。
彼は眉間を寄せ、階上を見上げて怒鳴った。
「ゼイブン!」
ローランデはいきなりローフィスの怒鳴り声に気づくとつい、顔を下げて階下を、見た。
「………どうしてゼイブンを、呼ぶ?」
ローフィスの顔がこちらを見上げているのと目が合い、彼は怒鳴った。
「…ゼイブンはどこだ?!」
「…ギュンターと一緒に、下の階に……居る、筈だ………」
ローランデの声がだんだん自信無さげに、小さくなる。
「テテュス!!」
アイリスは必死で叫んで周囲を見回す。
が、駆け寄って来る姿をどれだけ連想しても、現実に見える事が無くてアイリスはまた、幻のテテュスに向かって叫んだ。
聞こえる筈だ。私の声が。
きっと、彼に。
「…テテュス!」
幻のテテュスは振り向き、彼を見つけて嬉しそうに駆け寄る。
そして彼は愛しい、小さな息子をその腕で、抱きしめる………。
だが、その腕に抱く筈の彼の大切な息子は、どの扉からも、駆け寄っては来なかった。
「…テテュス!」
アイリスの声は悲愴感漂い、ローランデは彼を一瞬、眉を寄せて泣きそうな表情で振り向くが、階下を見つめて駆け下りた。
「…ギュンター!ゼイブン!」
だが返事は無く、ローランデは開いた扉からその、隠れようのない長身と目立つ金髪を探して廻るが行き止まり迄走り、階下を見下ろす。
ローフィスはまだこちらを見上げていたから、怒鳴った。
「居ない!」
ローフィスは、やっぱり…。と俯き、吐息を吐くと、アイリスに向かって怒鳴った。
「天井を探せ!
名を呼んで出てこないんなら、其処しかないだろう?」
アイリスは泣き出しそうな顔を一瞬、階下から怒鳴るローフィスに向けて感謝を滲ませ、階段を駆け上がった。
ローランデはアイリスの急ぐ姿をチラリと見、だがもう一度、開いた扉の中を見て廻ると、部屋の一室の、壁の隙間を見つける。
その石壁は、よく見ると、人が通れる程開いていた。
ローランデは部屋の外へ出ると、階段を上がり来るローフィスに叫んだ。
「…部屋に出口がある!」
「どこだ?!」
ローランデが顔をこちらだと、向ける。
ローフィスはシェイルに振り向くと
「アイリスの後を、追え」
とささやいた。
シェイルは一つ、頷くと、天井へと駆け登る、アイリスの後を、追って階段を駆け登って行った。
ローフィスはローランデの横に来ると、室内の開いた石壁を、見つめた。
ローランデが見てるとローフィスは一つ、吐息を吐いた。
「…外に出て、この石壁の向こうがどういう風に成っているか、解る者に話を聞いてくれ」
ローランデは頷くが、ローフィスを見つめ尋ねる。
「…後を追うのか?」
ローフィスは心配そうなローランデに笑った。
「迷いそうになったら、戻って来る」
ローランデは一つ、頷いた。