1 レイファスの言い分
その日の夕方、レイファスは馬車の中で数時間揺られ、貴族の中ではそこそこ広い領地内にある屋敷の、樫の木に飾り彫刻の彫られた大きな玄関前で、侍従に数日過ごす為の着替えの詰め込まれたトランクを持たれ、侍従の頷きに頷きで応えた。
かっ!かっ!
来訪を知らせる鉄の輪を二度、背の高い侍従が叩くと、慌ただしい足音と共に召し使いが扉を開けて覗く。
侍従と荷物。
そして…小さなレイファスの姿を見つけた途端、その屋敷の召使いは奥へと飛んで行き、叫んだ。
「奥様!レイファス様がお付きです!」
そしてレイファスはファントレイユの母親、セフィリアの出迎えを受けた。
レイファスの母親は体調を崩して以来、病気がちになり、いいかと思えばまた悪く、療養地で過ごす事が殆どで、幼い彼は屋敷で乳母の手に預けられる事しばしばだった。
父親は彼の母にぞっこんだったので、任務から帰るとレイファスの相手もそこそこに療養地に飛んで行く。
だが母親はレイファスを溺愛していて、療養地から帰るとその埋め合わせのように決まって、息子を抱きしめて離さなかった。
…だがとうとうレイファスの母親、アリシャの体調は悪化。
彼女は姉、セフィリアに息子の世話を頼み込んだのだ。
セフィリアは知的な美人で、女性にしては少し背が高かった。
…まあ、レイファスの母親は随分小柄なので、一般的には大きいとは言い難いんだろうが。
セフィリアは五歳になったばかりのレイファスの手を握ると、部屋へと招き入れた。
セフィリアの、心から労る感情が手から伝わり、今度ばかりはレイファスの母親アリシャはもしかして命の危機すら迎えるかも。
そうセフィリアが、心配している様子が解った。
彼女もレイファスと同い年の、やはり赤ん坊の頃体の弱かった息子ファントレイユで、随分心を痛めたので。
幼く心から愛している息子を残してこの世を去る事になったらとても辛いだろうと、彼ら親子に心を寄せている様子に、レイファスは何も言えなかった。
部屋の戸口から、ファントレイユが姿を現した。
母親から事情を聞いているのか、いつも人形のように大人しい彼はやはりとても静かに、心配そうな表情を浮かべてレイファスを迎え入れた。
レイファスは顔を上げて、頷いてみせた。
ファントレイユはあどけないピンクの唇を、ほんの少し開いた。
少女のような容貌だと、余所の人には言われていたが、レイファスはそうは思わなかった。
あまり感情を出さないファントレイユは性別を超えて、とても綺麗な人形のように見えた。
自分のくっきりとした青紫の瞳や、明るい色のはっきりとした鮮やかな栗毛と違って、本当に淡い色のブルーの瞳で、髪の色も淡い栗色にグレーがかっていて、ファントレイユがすました顔なんてするとその淡い色の髪や瞳の印象で人間離れして見え、どこか人外の者のように神秘めいて見えた。
ファントレイユはいつも決まって、母親の前でそれは大人しかった。
その時もセフィリアが気遣う言葉を投げかけている間、じっとしていた。
知ってる癖に…。
レイファスは軽くファントレイユを睨んで思ったが、彼が母親を遮る事は無さそうだったのでレイファスは少し、あくびをかみ殺す様子を、して見せた。
途端、セフィリアの言葉の内容が変わる。
「…とても、疲れているのね?」
レイファスは頷き、言った。
「いつもみたいにファントレイユの部屋に行って、いい?」
セフィリアは小さなレイファスに屈んだ。
「…でも今度は長く泊まるから、貴方の部屋を用意させたのよ?」
だがレイファスは聞く気は無かった。
とても悲しそうな顔をして、つぶやく。
「でも僕、この屋敷ではファントレイユの部屋が一番落ち着くんだ」
セフィリアは直ぐに折れた。
そのいたいけな、病気の母親と離れて心細い気の毒な少年の気持ちを、気遣ったのだ。
「…いいわ。
ファントレイユと一緒にいらっしゃい。
後で夜食を届けさせるから」
レイファスは頷いた。
一刻も早くこの息詰まる気遣いから解放されたくて、自分の部屋に促すファントレイユの後に付いて行った。
部屋に入るなりファントレイユはやはり気遣う様子を見せ、レイファスはつい胸の内を晒した。
「よしてくれ。
君の母親がそれは大事だと大袈裟に君に言って、君は母親のいい子ちゃんだから同じように僕に同情してるんだろうけど」
あんな風に気遣われるなんてうんざりだという顔を、でもファントレイユは強がりなのかどうか、気遣う表情を崩さず伺ったので、レイファスは続けた。
「家の乳母と対決しなくて良くなったと思ったら、今度はセフィリアだ。
君が唯一の息抜きなのに。
味方になってくれないのか?」
ピンクがかった肌に赤い唇をして、くっきりとした青紫の瞳も、鮮やかな栗毛もそれは綺麗でとても可愛らしいレイファスの唇からそれが漏れても、ファントレイユはまだ少し、眉を寄せて心配げだった。
レイファスはとうとう、タメ息を付いた。
「…アリシャは親父が面倒見てるし、僕は僕の面倒を見なくっちゃいけない。
セフィリアと来たら、女の子と君を絶対!間違えてる。
僕の所のアリシャもそうだけど、セフィリア程管理がきつくないぞ!」
ファントレイユはようやく、ほっとした表情を見せた。
「だって…彼女は僕が、噴水を浴びただけでも熱を出すと思ってる」
レイファスはさっさと寝台に座ると、ファントレイユも横に座った。
レイファスはファントレイユの、真っ白な肌のとても綺麗な横顔を眺めて肩をすくめた。
四歳の夏の事だった。
やっぱりここに母親アリシャと遊びに来ていて、暑かったしファントレイユに水浴びしようと誘った。
庭の中央の噴水が盛大に水を、吹き出していたので。
レイファスはさっさと服を脱いで水に浸かるが、ファントレイユと来たら、ぐずってた。
で、ついレイファスはファントレイユの腕を掴んで、引っ張り込んだ。
ファントレイユは服毎ずぶ濡れになって、その後、仕返しに水をかけてきたからその仕返しを、した。
が直ぐにセフィリアが飛んできてファントレイユを連れ去り、着替えさせて髪を必死で、拭いていた。
「真夏なのに」
レイファスがぼそりと言うと、ファントレイユも肩をすくめる。
「でもセフィリアは僕が熱を出したらと、それは必死だったんだ」
自分もそうだったが、ファントレイユも領地の外には絶対、出して貰えなかった。
遊び相手は領地に居る使用人かその子供達で、皆主人の子息に対する態度を叩き込まれていたし、絶対危ない遊びは禁止。
汚い言葉遣いも不潔な事も、ダメだった。
最もレイファスの方は母親がしょっ中療養所に行くので、目を盗んでは屋敷の使用人達の暮らす小さな村へと遊びに出ていた。
ダメだと言われた事は片っ端からし、村の大人や子供達にも堅く口止めするのを忘れなかった。
レイファスの母親は息子に甘かったし、レイファスが甘えた口調で優しくすると、大抵のお咎めからは逃れられた。
唯一レイファスの裏表のある性格を知り尽くし、猫なで声が通じない相手は、乳母だった。
乳母は母親が病気がちで甘やかし放題の我が儘息子に、母親の留守中、敢然と立ち向かった。
夕食が気に入らないと食べないと、その後の全部の食事を抜いた。
壊れたおもちゃの代わりが欲しいと言うと、壊したのは誰かを問われ、物は大事にするものだと、レイファスが代わりのおもちゃを欲しがらなくなる迄言い続ける。
常にレイファスと乳母の行き詰まる対決で、使用人達はその事を知っていて、レイファスがいかに彼女の裏をかくか。言いくるめるかに日夜知恵を捻るのを、目撃していた。
今度は長くなりそうだと肩を落として父親が話し、レイファスはファントレイユの屋敷に行く荷造りをし、屋敷を出る際見送る乳母に、舌を出してやった。
だが乳母の瞳は、こう言っていた。
“セフィリアは私同様、それは手強い相手ですからね”
でも、それは確かにそうだった。
ファントレイユを見ていれば、良く解る。
セフィリアは大人しく、いつも清潔で馬鹿騒ぎをせず、お行儀のいい自分の一人息子が大層自慢だったのだ。
だがレイファスにとって唯一の救いは、セフィリアがレイファスの裏表を知らず、猫なで声が通用する点だ。
しかもその母親で彼女の妹アリシャは、重態だった。
ファントレイユもセフィリアもそれは心配していたが、レイファスにはどうしてもアリシャが亡くなるイメージが無かった。
多分今年の冬がうんと寒くて療養地に出向けば良かったのに、最近元気だからと無理にこの地に留まったせいだと、解っていた。
しかも、レイファスの親父は可愛らしく可憐なアリシャに夢中だったから、妻の具合が少しでも悪いとそれは大袈裟に騒ぎ立てる。
…確かに、いつもよりは青い顔をしていてひどく弱ってはいた気もするが、アリシャが療養地に出かける時、別離の予感はしなかった。
…レイファスは大好きな毛皮の騎士、愛犬のローダーを、四歳の時亡くしていた。
ローダーは小さなレイファスよりうんと大きく、利口で優しくて、いつも甘えさせてくれたレイファスの一番の親友だった。
が、レイファスより年輩のその犬はもう年を取っていて、とうとうレイファスが四歳の冬、母親が療養地に出かけている間に、亡くなってしまった。
ローダーの側を離れて自分の寝台に戻る時、その優しかった犬は茶色の、とても暖かい瞳でレイファスを見つめた。
幼いレイファスはその意味が、解らなかった。
明け方だった。
どうしても寝付かれずローダーを覗いたが、ローダーは冷たくなっていた。
レイファスは泣き続け、ローダーの側を離れなかったから、屋敷の執事は慌ててセフィリアとファントレイユを呼んだ。
ファントレイユが彼の側に来てようやく、レイファスはローダーを離した。
ファントレイユに抱きついて泣き続け、セフィリアに命あるものは必ず終わりを迎えるんだと諭され、でもレイファスの感情は納まる事無く、冷たくなったローダーの事が悲しくて、代わりに暖かい、ファントレイユの体に抱きついて泣き続けた。
半日それを続けたと言うのに、ファントレイユときたら付き合った。
日頃、母親の厳しい管理で自分を抑えるのに馴れているのか、単にお人好しなのかはレイファスにはその時、解らなかったが。
ファントレイユがいつ迄たっても、疲れただとかお腹が減っただとか、いい加減にしろ!と言い出さなくてようやく、レイファスは顔を上げてファントレイユを見た。
ファントレイユはその人形のような綺麗な顔を傾けて、ほっとしたように見つめて来るものだから、もしかてファントレイユはとても男の子で、自分が女の子のような顔立ちだから、庇い、大事にする相手と勘違いしてないか。
と思う程だった。
事実領地の遊び相手の、とても利発な少年の小さな妹に、花を摘んでやったり、転びそうになると慌てて助けたりする時はちゃんと、人形で無く男の子に見えた。
幼い彼女がファントレイユに構われて笑顔になると、ファントレイユは途端、それは誇らしげな微笑みを浮かべていた。
だからその時だってファントレイユも小さかったと言うのに、レイファスが泣き続ける間じっと我慢して、顔を上げる迄付き合ってくれた。
レイファスの方から聞こうとしたが、ファントレイユが先に言ったのだ。
「お腹が、減ってない?」
とても優しい、表情を向けて。
…レイファスはこの後暫く思案した。
彼は二通りの付き合いをしていた。
一つは地を出して、共犯者にする付き合い。
もう一つは演技し倒して、甘えて自分の我が儘を、通す付き合い。
折角、ファントレイユから少女のように思われてるなら、彼に甘えてやれば自分の意見は全部、通るはずだ。
しかしファントレイユはとても利口で、レイファスのとんでもないやり様に薄々感づいてるし、いい子のふりだけする、やりたい放題のやんちゃ坊主だと言う事がバレるのも時間の問題だろう。
それでレイファスは惜しいとは思ったが、ファントレイユを共犯者にする付き合い相手に、切り替えたのだった。
レイファスはそれ以来、ファントレイユには本音をブチまけるようにした。
ファントレイユは最初、目を丸くしていたようだが、レイファスの地の性格が実は、見かけ道理のお行儀のいい可愛い子ちゃんで無く、いたずらも愉快な事も暴れ回るのも大好きな、普通の手に負えない悪餓鬼だと言う事を、解らせる事に成功した。
「よく、息がつまらないな?」
お人形のような彼にそう言うとファントレイユは返した。
「…よく、ころっと変われるな?」
レイファスは思い切り、肩をすくめた。
「お行儀、お行儀、お行儀!
なんだって女親ってお行儀にこだわるんだろう?
僕は女の子じゃ無いんだぞ?
だいたい男の子ばっかの間で大人しく、可愛らしくなんてやってられるか?
誰が一番高く迄木に登れるとか、誰が猛犬の目を盗んでりんごをたくさん盗むだとか。
そっちの方がうんと重要なのに!」
レイファスの言い切りに、ファントレイユは目を丸くした。
「りんごを盗むの?」
「……ああ…。
君は言いつけ通り、領地から出たりはしないんだっけ?」
「言いつけに、そむいてるの?」
レイファスは目を、丸くした。
「…言いつけ通りにずっと、従ってるの?」
「…だって、言いつけは守るものだろう?」
「…言いつけなんて大人の都合を子供に押しつけてるだけだから、普通の子供は破るのが当たり前だ」
ファントレイユは暫く俯いて、考え込んだ。
「君、お人形みたいだと思ってたけど、本当にセフィリアのお人形なんだな?」
そう言ってやると、ファントレイユが顔を上げた。
レイファスより少し、大柄だった。
ファントレイユのとても綺麗な顔立ちを覆う、ふんわり柔らかな淡い色の髪が肩の上で、揺れた。
「…僕が、人形みたい?どうして?」
レイファスはファントレイユの腕を掴むと、大鏡の前へ連れていった。
小柄な自分よりも幾分背の高い、淡い色の髪をしてクリーム色の衣服のとても栄える、それは綺麗なファントレイユの姿がそこに、映っていた。
「…自分を見て、そう思わない?」
ファントレイユは自分の姿を眺めたものの、まだ腑に落ちないようだった。
それでレイファスはようやく、セフィリアには彼の母親アリシャのように、綺麗な人形が大好きで、集めて飾って眺める趣味が無い事に気づいた。
「…君の屋敷に人形は、無かったな………」
ファントレイユは頷いた。
「…あんなものより腕のいい画家の絵を飾るべきだし、その方が絶対心が潤うってセフィリアは言っていた」
ファントレイユが言うので、レイファスは頷いた。
「君のお母さんは文学少女で、少女趣味は無いもんな」
「君は、随分色んな言葉を知ってるんだな?」
「家庭教師が色んな事を話してくれるし。
彼は大抵僕の話を聞いてくれて、それについての意見を言ってくれる。
絶対自分の考えを押しつけたりせず、必ずどう思う?って。
僕の意見をちゃんと聞いてくれるんだ。
凄く、ほっとする。
でも女は駄目だ。
人の話なんてそこそこで、すぐ自分のやり方を押しつけてくる。
心配だとか怪我をするからとか言って」
「…でも、心配かけると辛くない?
とても悲しそうで一生懸命な姿を、見たりすると」
「セフィリアは熱を出した君もいつも、看病していたからそう思うの?」
ファントレイユは、大人しく頷いた。
「…元気になるといつも、ほっとしたみたいに力一杯、抱きしめてくるから、心配かけないようにしたいんだ」
レイファスは母親想いのファントレイユは随分見た目と違って、ちゃんと男の子なんだ。とは思ったが、言った。
「気持ちは解るけど。
男の子としてちゃんとこの先、やっていけるようになる事が一番、親孝行だと思うな」
「親孝行?」
「セフィリアの心配じゃないって事!
君だって、軍教練校に入校する気なんだろう?
あそこは男ばっかだし、騎士志願者なんて洗練されている者なんてほんのわずかで、乱暴者ばっかだって。
僕もそうだけど、君もあんまり体の大きな方じゃないし。
うんと剣の腕を磨くか、相手を言いくるめるか。
ともかく殴られないよう身を護れなきゃ、学校を自分から、止めなきゃならなくなるしそれは凄く、不名誉な事だと思う」
「不名誉?」
「みっともないって事さ!」
そう言った時、ファントレイユは青くなった。
どうやら彼は、みっとも無いのは嫌いらしい。