57話 今日が初日?
夕飯は夜八時過ぎだった。
何故遅くなったかって?
それは夕飯を作るのが俺を扱いていた、いや、指導していた楓さんだったからだ。
俺を指導するのに夢中ですっかり忘れていたのだ。
俺を救ったのは空腹に我慢できなくなって楓さんを探しに来たじじいだった。
楓さんはじじいの姿を見てご飯の支度をするのを思い出したようだ。
じじいに自分で作るとか買うという選択肢がなくってよかったぜ。
もう少し遅かったらまた気を失うところだったな。
俺はじじいが楓さんに代わって指導すると言いだすのを恐れていたが、じじいにそんな気力はなかったようだ。あるいは下手な事を言って夕飯が更に遅れるのを恐れたのかもしれない。
「じゃあ雑巾掛けよろしくね」
「俺一人でですか?」
「他にいないでしょ」
確かに他には仁王立ちしてるじじいだけだ。
良識ある俺は高齢のじじい、しかも師範に手伝ってとは言えなかった。
っていうかこんなじじいに借りを作りたくない。
「さっさとせんか!飯抜きにするぞ!」
このじじい!
雑巾掛けとはいえ、満身創痍の俺には非常にきつかった。しかもじじいは俺が拭き終わった所を人差し指で触れ、汚れをチェックする。
お前は姑か!
一通り拭き終わった時にはじじいの姿は既になかった。
途中から声が聞こえなくなったのは雑巾掛けに集中し過ぎていたからではなかったようだ。
母屋のキッチンに向かうと楓さんに「まだ出来てないから先にシャワーを浴びて来なさい」と言われたので素直に従った。
早く道着を脱ぎたかったのだ。
汗で気持ち悪かったのもあるが、またまだやる気があるなんて思われてはかなわんからな。
離れは静まり返っていた。
人の気配はない。
知らない家に一人ってなんか落ち着かないな。
クララを他の人に見られてはまずいので部屋で外した。
結構乱暴に扱ったので壊れてないか心配だったが、外観もセルフチェックも異常なしだった。見た目に反して結構頑丈に出来ているようだ。ハイブリッドモードで起動していたのでまだバッテリーも余裕はあった。
着替えを持って一階の浴場へ向かう。
脱衣所には洗濯の終わった道着が何着か置いてあり、その内の一つに俺の名前が書かれた紙が貼ってあった。明日はこれを着ろということらしい。
こういうのって毎日変えるものなのか?
まあ、そのほうがうれしいけど。
俺は脱いだ道着を紙の指示通りに洗濯カゴに放り込んだ。
風呂場は結構大きい。洗い場は一度に六人くらい体を洗えるし、浴槽も同じくらい入れそうだ。
湯は溜まっていない。
体を調べるとあちこちに青い痣ができていた。顔だけ目立った痣がないのがアンバランスだ。
この痛めつけ方、流石プロだな。
違うか。
温かいシャワーが痣に沁みた。
軽く汗を流し、食後にちゃんと洗おうと思っていたが、飯を食ったら速攻で寝てしまう気がしてきた。
明日の朝に洗うのもありか、とも考えたが、痛みが更に酷くなっている可能性もあるので、今洗う事にした。痣だらけの左腕で痣を避けるように洗うのは大変だった。
かといってクララを装着したまま入って万が一、他の人に見られたら面倒だしな。
風呂から上がり、寝間着代わりのスウェットに着替えた。ちなみにこれは以前新田さんに貸したやつだが深い意味はない。
スマホを見ると新田母からメールが届いており、明日は九時から訓練を始めるとの事だった。
俺は再びクララを装着し、キッチンに向かうと丁度食事の準備が出来たところだった。
夕飯は三人だけだった。
新田母が自分の家で食べるのはわかるとして、当主のあやめ様はどうしたのだろうか?
疑問に思っても口に出す事はしない。
これ以上危険を犯す気はなかった。
俺は朝食以来まともに食事をしておらず、空腹の筈なのだが、疲れと痛みでまったく食欲がなかった。だが、残したら扱きの名目を与える事になるかも知れないので残すという選択肢はなかった。
茶碗を持つ左腕に激痛が走る。本来であれば右腕も同様のはずだが、呪いのせいで感覚が麻痺してるので全く痛みはない。
初めて感覚がない事に感謝するぜ。
「やっぱり楓の料理が一番じゃのう」
「前はあきらの方が美味しいって言ってなかった?」
「同じくらいうまいぞ。な!」
って俺に振るのかよ?せめてその敵意むき出しの目を向けるなよな。
楓さんの料理は不味くはない、が正直な感想だが味覚っていうのは置かれた状況にも影響するものだ。
俺を敵意むき出しで扱きまくった二人に囲まれてる分、マイナスしていることを考えれば本来はとても美味いんだろう。
「えっと、俺は妹さんの料理は食べた事ないから、いや、あるかもしれないけど、その時酔ってたからよくわからないですけど、楓さんの料理は美味しいと思います」
「なんじゃと!あきらと酒を飲むってどういう事じゃ!」
あー、面倒だな、じじい。
「あのときでしょ。せりすが事件に巻き込まれた時に家に呼んで尋問したっていう」
「そうです。それです、っていうか尋問て……」
「あの男がそこで始末しておけばのう!」
娘婿をあの男呼ばわりとは。孫は可愛がるのにその父親は許さないか。
新田おやじ、哀れだな。
それはそれとして、
これ以上じじいには付き合ってられんな。
俺はじじいの被害妄想が酷くなる前に食事を終え、早々に離れの自室へ引き上げた。
「……とりあえず生き残ったな」
明日からは新田母の指導だから今日のような事はないはずだ。
もし、指導者が新田母じゃなかったら今頃逃げ出していたところだ。
仮に新田母が私情を挟む事があっても悪い方へはいかないだろう。
娘を何度も救ったんだからな。
問題があるとすれば、俺が明日の朝を無事迎える事が出来るかだ。
実は、致命的なダメージを負っていて二度と目覚める事がないかもしれない、
なんて事もゼロじゃない気がする。
そう思うと無性に俺の可愛い妹に会いたくなった。
時間は夜の九時を過ぎたところだ。
今ならまだ俺の可愛い妹は起きてるかもしれないな。
いや、俺がいなくて寂しくて寝れない可能性もあるな!
俺は家に電話をかけた。
だが、電話に出た母からは「もう寝たわよ」と言う冷たい言葉が返って来た。
意気消沈している俺に母からメールが届いた。
俺はメールに添付された俺の可愛い妹の寝顔を見て心が癒された。
気持ち体の痛みも引いた気がする。
俺の可愛い妹の左右ににゃっくとみーちゃんのでっかい顔があった。
どちらの寝顔もどこか不満そうに見えるのは、俺が嫉妬して正常な判断が出来ないからだろう。
俺の可愛い妹と一緒に寝て不満を抱く理由など全く思い浮かばないからな。
にゃっくはこの訓練に連れていくか最後まで迷った。
俺の魔粒子を吸収する事でにゃっくの回復は早まっているみたいだったからな。
だが、運転免許の合宿と言った手前、連れて行くのは明らかに不自然なので結局断念したのだ。
ベッドに横になるとあっという間に眠ってしまった。一切夢を見なかった。
六時過ぎにスマホの目覚ましで起きた。
無事朝を迎えたことにを神に感謝した。
どの神様かって?誰でもいい。俺を贔屓してくれる神様ならな。
まだ二月は始まったばかりで朝はとても寒い。目覚めてもベッドを出る気は起こらない。
この部屋唯一の暖房器具であるエアコンをリモコンを操作してスイッチを入れる。
十分程で部屋は暖まりベッドから起きた。
ベッドで横になってる時から痛みがひいているのに違和感を覚えていたのだが、服を脱いで確認してみると、ほとんどの痣が消えていた。
いうまでもなくこんなことは初めてだ。
もしかしてこれが魔法使いになった効果なのだろうか?
だが右腕は相変わらずぴくりとも動かない。
やっぱり呪いは治せないようだ。
朝食も三人だった。
俺が発した言葉は「頂きます」と「ごちそうさま」だけだ。
食事を終えると早々に部屋に戻った。
九時十分前に部屋を出た。道場の前に来ると何人か門下生らしき人を見かけた。
その中に明らかに不自然な感じがする者もいた。
ムーンシーカーだろう。
ムーンシーカーにも教えてるのか?
組織に関係してるのだろうか?
俺が人間観察をしていると見覚えのある女性がこちらにやってくるのが見えた。
新田母だ。
「おはようございます」
「おはようございます。昨日はよく眠れましたか?」
「はあ、お陰様で。夢も見ませんでした」
一歩間違えたらそのまま旅立ってたかも。
「それは良かったです。進藤君は適用能力が高いのですね」
「いやあ、たぶん、神経が図太いんですよ」
「あらあら、まあまあ」
新田母について行くと道場の入り口を通り過ぎた。
「今日は道場使わないんですか?」
「ええ。初日ですから、まずは進藤君の基礎体力を確認します」
ちょっと待て!
「あの、初日って、昨日が初日ですよね?」
「いえ、私の初日は今日ですよ」
「こんな事言いたくないんですが、開始日を最初から今日にすればよかったんじゃないですか?」
「あらあら、まあまあ」
いや、あらあら、まあまあじゃなくて。
「昨日の事は無駄じゃありませんよ。昨日の指導にも意味はありました」
「そうなんですか?」
「そう思えば楽になるでしょう?」
「……本当はないんですね?」
「あらあら、まあまあ」
だから、あらあら、まあまあじゃなくて。
「それにしても進藤君は人気者なんですね」
「は?」
「みんな進藤君が強くなるのに協力したい、って言ってくれてます」
おやじ、じじい、楓さんの事か?事だよな。
「それは俺を強くしたいんじゃなく、俺を倒したいんだと思いますけどね」
「面白いこと言いますね」
「事実ですから」
「あらあら。でも楓姉さんは違うと思いますよ。せりすの恋愛には関心ありませんでしたから」
「楓さんは俺が失言して怒りを買いました」
俺は島の話を聞いた後だったので楓さんの事をあやめ様と間違えたことを話した。
「あらあら、まあまあ」
「あの、ついでだから聞きますけど、島君てどういう人なんですか?」
「悪い子じゃありませんよ。ただちょっとイタズラ好きなところがありますけど」
「はあ。それはつまり、やっぱり、あれは島君の策略だったと?」
「どうでしょう?そこまでの策略家ではなかったように思います。単に進藤君の運が悪かっただけのような気もしますね」
……まあ、それは否定しないが。
「それでは、まず、敷地を壁伝いに二十周程走ってみましょうか」
「え?二十周ですか?」
「はい」
笑顔で頷く新田母。
「結構ありますよね、これ」
「はい。真剣に走ってくださいね。その後も色々行ってもらいます。その結果でこの合宿中にどこまで進藤君を鍛えるか決めるつもりです」
「はあ。あ、気のせいかもしれませんけど、以前と口調が違うような気がするんですが」
「それは今の進藤君がせりすの友達ではなく、私の生徒だからです」
「なるほど。じゃあ、俺も先生って呼んだ方がいいですか?」
「私はどちらでも構いませんよ」
ここでお母さんなんて呼んでたら、また敵増えそうだし、名前は問題外だよな。新田さんだって名前で呼んでないんだからな。
「じゃあ、先生って呼ばせてもらいます」
「はい」
「では、行ってきます」
「はい。頑張ってくださいね」
こうして俺の本当の訓練が始まったのだ。
ホント、今日からにして欲しかったぜ。




