5話 キャンパスのにゃっく
俺の受けている選択科目の中には席の取り合いをするものがある。
残念ながらというべきか、講義に人気があるためではない。
そう、新田せりすのそばの席を確保するためだ。
特に学科が違う者達は少しでも近くに座れば親しくなる機会があるだろうと必死なのだ。
だが、学科が違うためいつ来るかわからない。熱心な講師が平気で講義を延長したりするからな。
それで授業料が上がるわけじゃないから本来は喜ぶべきなんだろうが、そんな奴を俺はいまだかつて見たことがない。
講義室へ早く着きすぎれば新田さんはいないし、遅すぎれば同じ目的の者共に取られる。
正直いうと、俺も最初はその椅子取りゲーム参加していたが、早々に降りてしまった。
俺はみんなが熱中するものに冷めやすいのだ。
その日、俺が講義室へ入ったとき、新田せりすはまだ来ていなかった。
俺は適当な席に座ると教科書を取り出すためにリュックを開けた。
しゅたっ。
ぬいぐるみが俺と目が合った瞬間、手、いや足か、をあげて俺にあいさつをした。
にゃっくだった。
「な、なんでいる…?」
いや、それよりなんで俺は今まで気づかなかったんだ?
普通ふくらみとか重さでわかるだろう、俺!
驚いている俺をよそににゃっくは無理な体勢でいたためだろう、リュックの中で首を回したり体を動かす。
「おまえな…⁉︎」
誰かの視線を背後から感じた。
ゆっくりと振り返るといつ来たのか新田せりすが驚いた表情でこちらを見ていた。
俺ではなくにゃっくをだ。
見られた!どうする?でるか?
しかし、そこで始業の鐘とともに講師が入ってきたため出る機会を失った。
「おとなしくしてろよ」
にゃっくは体の割に大きな頭で頷いた。
俺の後ろに座った学生の視線を感じる。
間違いなく新田さんだろう。こんな注目のされ方したくなかったぜ。
講義が終わると俺はすぐに講義室を出た。
キャンパスの空いているベンチを確保すると半分あけた状態だったリュックを全開にした。
ぴょん、
とにゃっくが飛び出した。
その背には赤いマントを羽織っている。マントはにゃっくが寒がりということで母が使い古しの毛布を使って作ったものだ。にゃっくは気に入っているようだ。
「おいおい、なんでついてきたんだ?」
にゃっくが俺を見上げ、小さく頷く。
「いや、なんだよ、その頷きは?」
当然にゃっくは答えることなく、さっと駆け出してあっという間に見えなくなった。
「おいおい」
にゃっくのことだ。おそらく状況を理解しているだろう、と俺は自分を納得させ次の講義に向かった。
午前中の講義が終わり、俺は購買でパンとジュースを適当に買うと、にゃっくと別れたベンチに急いで向かった。
ベンチには誰もいなかった。
俺は席を確保し、ほっと一息ついて視線を下に向けると足下ににゃっくがいた。
「びっくりしたな!おまえ、いつからいたんだ?」
もちろん、にゃっくが答えることはなく、ひょいっと軽くジャンプし俺の横に降りた。
なかなかカッコいいじゃないか。意図的にやったのか?
にゃっくは俺の意図を読みとったのか、大人しく普通の猫のふりをして俺が持ってきたパンを食べる。
「ほんとよく出来たネコだよ。おまえは」
俺は頭を撫でようとして、寸前で思いとどまった。
あのアホ毛に触れてこんなところで絶叫したくないからな。
「やっぱり、本物のネコだったのね」
「え?」
その声の主は新田せりすだった。まさか、俺を探していたのか?そんな訳はないよな。
本来なら新田さんから声をかけられ、お近づきになるチャンスなのだが、どうすべきなんだ?にゃっくは普通の猫じゃないんだ。
「や、やあ、新田さん」
「この子は進藤くんの?」
「ああ」
「いいなあ。わたしのマンションはペット禁止なんだ」
「へえ、そうなんだ」
俺のメモリに新田さんはマンションでペット禁止がインプットされる。
その代わりに今日の講義の内容のいくつかが消去されたような気がするが、まあテスト前に再入力すればいいだろう。
にゃっくはちらりと新田さんを見たがすぐに食事に戻る。
よしよし。にゃっくは普通の猫のように振舞っているから、バレることはないな。
そう思った矢先だ。
「ほんと、ちっちゃくてかわいいね」
新田さんはかかみこんでにゃっくの頭を撫でる。
あ、それはやばい!
俺の制止は間に合わず、新田さんはにゃっくのアホ毛を立ててしまい、絶叫した。
「おっきいぃ♡すごくおいっきいぃ♡♡すっごーいぃ♡♡♡こんなのはじめてぇ♡♡♡♡♡♡」
うわっ、新田さんの声、色っぽい、っていうか、なんか卑猥だぞ。
俺は目を背けながらにゃっくの頭を押さえてアホ毛を押し込んだ。
新田さんの叫びはぴたりと収まるが、その顔は真っ赤だ。
「そ、そこまで大声出すことはないと思うけど」
俺はちょっと困惑気味の表情を作って言った。
「え?え、ええ、でも、あの…」
新田さんは自分でも卑猥だったと感じたんだろう。言い訳したいようだったが、何故絶叫したのか理解できないため、うまい言葉が出てこないようだった。
そこで予鈴が鳴った。
いつもなら憂鬱な気分になる鐘の音がこの時ばかりは天の助けに思えた。
「授業が始まるね」
俺は立ち上がるとにゃっくが駆け出し、とあっという間に見えなくなった。
「あ、あの、」
「新田さんも急がないと次の講義遅れるよ」
俺は何かいいたそうな新田さんを残して逃げるようにその場を後にした。
いや、ほんと学科が違って良かったよ。
次に会う時までに何か言い訳考えておいたほうがいいな。
すべての講義が終わり門に向かうとすっと小さなものが俺の前に現れた。
にゃっくだ。
「おまえどこに行ってたんだ?」
俺の問いに小さく頷くのみ。
またかよ。
「まあいい。帰るぞ」
にゃっくはぴょんとジャンプして俺の右肩に乗った。
重くはない。
いやほとんど重さを感じない。
服を掴んでいる感触があるだけだ。
「ほんと、おまえはいったい何なんだろうな」
にゃっくは自ら俺のリュックに入ったわけではなかったようだ。
今朝、俺がスマホを部屋に忘れたことを思い出し取りに戻ったとき、玄関に置いたままだったリュックに俺のかわいい妹が突っ込んだらしい。
そうだよな。中からファスナーを閉められるわけがないんだから。
俺のかわいい妹は俺を驚かそうとしたようだが、俺はそれに気づかず、そのまま出かけてしまったのだ。
帰ってから俺は妹に怒られた。
もちろん、俺は素直に心から謝ったさ。わかいい妹は悪くない。気づかなかった俺が百パーセント悪いんだ。
これが他の奴なら入れた奴が二百パーセント悪いことは言うまでもないよな。
にゃっくは家に着いた途端、妹に連行されていった。
その目が悲しそうに見えたのは気のせいだろう。俺のかわいい妹に好かれて嫌がる奴がいるはずがないからな!
俺は荷物を置くとアルバイトにいくために駅へ逆戻りだ。にゃっくを届けに戻っただけだからな。
アルバイトから帰ると風呂に直行した。
風呂から上がりベッドに寝転がるのとほぼ同時にドアが開きにゃっくが入ってきた。
「でもよ、リュックの中にいることを俺が家を出る前に知らせることも出来たんじゃないか?それとも大学に興味があったのか?……まさか俺のかわいい妹の相手をするのがイヤだったんじゃないだろうな?」
にゃっくは俺の疑惑の目をスルーし無言で指定席、俺の机の上に乗り畳んであったミニ毛布を体に巻いた。そしてそばにあったホッカイロの袋を破き取り出すと下にひく。慣れたものである。
にゃっくは一度頭をカーテンの切れ目に突っ込んだが、一分も経たずにすぐに頭を戻した。
そして体を丸めた。
次の日、講義室に入るとちょっとざわついていた。
「どうかしたのか?」
俺は先に来ていた皇に聞いた。
「いや、まあ、嘘だとは思うんだけど、昨日、新田さんが下半身丸出しにした男のナニをガン見して卑猥な声を上げて喜んでたっていうんだ」
「…」
なるほどね。アレの状況を遠くから見ればそう見えなくもないか。もちろん、相当悪意を持って見ればだが。
って誰だ!こんな噂流したのは!俺は下半身なんて露出してねえぞ!
俺は内心の憤りを必死に抑えながら言った。
「そんなわけないだろ。だいたい大学でそんな変態行為する奴がいるか」
「だよね。でも奇声をあげている新田さんを何人も見かけてるんだって」
「ふ、ふうん」
俺も見られてたんだろうけど、名前が出てないところを見ると相手が俺だったとはわかってないようだな。
まあ、わかってもやましいことはしてないからいいけど。
しかしひでえよな。やっぱり、モテない女のひがみか、それとも振られた奴の嫌がらせか。
どっちにしろ、新田さんにもこの噂は伝わってるはずだ。
当分新田さんが俺に話しかけてくることはないかな。
皇帝猫についてはこのままってわけにはいかねえな。
俺は皇帝猫を探せ!の管理者にコンタクトをとることにした。
四季薫が話してくれない以上、もうここしか当てはない。
まず、にゃっくの写真を撮った。証拠写真は必要だろうからな。
にゃっくは他の皇帝猫と違い、カメラを向けても見向きもしなかった。
これはこれでクールさを演出しているのかもしれない。
俺は管理者のメールへにゃっくの画像を添付して皇帝猫について知りたいと書いて送った。
会いたいという返事が次の日に来た。
驚くことにその待ち合わせ場所の最寄り駅は五つ先で定期券がそのまま使える。
電車代を払う必要がないじゃないか!
これは嬉しい誤算だった。
たかが電車代とか言うなよ。
バイトしてるとはいえそれは学費とかわいい妹へのプレゼント用なんだからな。