3話 ムーンシーカー
突然鳴ったクラクションに俺は驚き思わず足を止めた。
目を向けると信号が赤に変わったにも拘らず横断歩道のど真ん中で立ち止まっている人がいた。
知り合いらしき人が必死にその者の手を引っぱってその場から離れようとするが、相手にその気がないらしく思うように進まない。その者の視線は月に向けられていた。
「ムーンシーカーだ」
誰かのささやき声が聞こえた。
ムーンシーカーとは月見症候群を発症させた者達のことだ。
月見症候群はその名の通り月を見たいという衝動が起こる病気だ。
それだけなら害はなさそうにみえるが、その欲求は抑えがたく、時、場所を選ばない。
発症するとそれまでの行動を中断して月を見つめる。どんなことをしていてもだ。例え月が出ていなくても現在ある方向へ視線を向ける。正確に。月が見える、見えないは関係ない。
そのため月見症候群が発症した者はあらゆる制約が課せられている。
運転免許無期限停止がその最たるものだ。
それは仕方がないと思う。
今回は歩行者だったが、これがドライバーだったらと思うとぞっとする。
最初は同情を集めていた彼等だが、その奇怪な行動やネット上に彼らが不思議な力を使うなどという書き込みまで流布されたこともあり、彼らは偏見の目に晒されることになった。
月見症候群はいつ、どこで発症したのか。
それは五年前、東京湾に寄港したレジャー施設を完備したネバーランド号に隕石が落ちて起きた大災害が始まりだ、という説が有力だ。
数千人以上の死者・行方不明を出したこの大災害の生存者の多くが月見症候群を発症したからだ。
この大災害を引き起こした隕石については謎が多く、未だ何も解明されていない。
船へ衝突する瞬間をビデオに撮った者が何人もおり、テレビやネットで放送されたがそのどれもが何もない空間から突然隕石が姿を現したように見えた。
ビデオの編集だと疑う者もいたが、各地で撮られており、目撃者も数え切れないくらいいた。
しかし、本当に隕石が飛来してきたなら宇宙ステーションや各国の人工衛星など、そのすべてが隕石の存在を事前に察知できなかったことに疑問が残る。
月見症候群の原因を各国の医療機関が共同で解明に挑んだ結果、月見症候群は心身病の一種であると正式発表されたがそれを信じているものは少ない。
月見症候群は発症度に応じてレベル0から5までの6段階あり、5が最高だ。5だと基本外出禁止だったかな。
レベル0は自身で発症することはないが、近くで誰かが発症するとそれにつられて発症することがあるらしい。
最近では病院で診察を受けるときに月見症候群のレベルを聞かれることがある。
保険証カードにこっそり記入されているという話も聞いたことがあるな。本当か知らないが。
俺のように一度も発症したことのない者の月見症候群のレベルは”なし”だ。
現在、月見症候群は不治の病で一度発症すると二度とレベルがとれることはない。
いくら症状が改善してもレベルは”0”から”なし”になることはないのだ。
はやく誰か治療法を見つけて欲しいぜ。
ちなみにムーンシーカーという呼び方は誰かがネットの掲示板で書き込んだのが始まりだ。それまでは他にも呼び方があったが淘汰された。
実は俺の家族もこのネバーランド号に遊びに行く計画を立てていたがことごとく抽選に外れたのだ。
結果からみれば運が良かったのか?
彼らが前からゆっくりと歩いて来た。
中学生くらいか。
彼らを間近で見たのはこれが初めてだった。
無表情でその動きはどこか機械的だった。
よくできた人形か下手くそな役者が演技している、そんな錯覚さえ起こさせる。
コンピュータグラフィックスのほうがこの少年よりよっぽど人間らしい動きをするんじゃないか。
横を通り過ぎようとした時、俺は少年と目が合った。
なんの感情も込もっていないガラスのような瞳。
俺は思わず目を逸らしてしまった。
今まで彼らを差別しているつもりはなかった。だが心のどこかで差別していたようだ。
俺は自分の行動に自己嫌悪した。
俺はもう何も考えないように速足でバイトへ向かった。
「おはよう、進藤君」
「おはよう、四季」
四季薫はつい最近入ったアルバイト仲間だ。確か俺より一つ下だ。
四季は高校を中退し、バックパッカーとなって日本中を旅しているらしい。
旅費が乏しくなってここのアルバイトを始めたと言っていた。
旅の理由はよくある自分探しというやつだ。突然今までの生活に疑問を持ってあっさりと高校を辞めてしまったらしい。
俺にはできないな。
そういや、家族のことは聞いたことないな。心配したりしないのか?それとも何か事情があるのか。
気にはなるがどうしても知りたいというわけでもないし、そこまで四季と親しいわけでもないから聞くことはないだろうなぁ。
四季は人当たりがよく、皆に好かれている。いつも笑みを絶やさずにいる。こいつには悩みがないんじゃないかってくらいに。
男の俺から見ても四季は並のモデルよりかっこいい。最近では四季目当ての客がいるほどだ。
アルバイト女子にも好意を寄せている者は多い。こうなると男性には嫌われそうなんだが男にも受けはいい。
俺も悪い印象は持っていない。
今日もさっそく四季目当ての客が来てる。
なぜわかるかって?
簡単だ。呼び出しボタンを押さず、四季が近くを通ったときに声をかけて注文をするからだ。
日曜日。
今日は久しぶりにバイトのシフトが入っていない、完全休養日だ。
俺が起きたとき午前十時を過ぎていた。
「おはよう、にゃっく…あれ?」
にゃっくはいつもの場所、つまり机の上にいなかった。
俺はベッドから起き上がると窓の外を見た。
いた。
にゃっくは俺の家の塀、にゃっくと初めて出会った場所にいた。
窓に鍵はかかっていなかった。にゃっくが外したか。それくらいは普通のネコでもできる奴はいるよな。
今日は暖かいから外に出たってことか。
俺はひとり納得し、寝間着代わりのジャージのままで下に降りると遅めの朝食を済ました。
本当はかわいい妹と遊びたかったのだが、おやじがだっこして離す様子がないので仕方なくにゃっくの様子を見に行くことにした。
もちろん普段着に着替えてだ。
にゃっくは、相変わらず厳しい顔?をしながら、空のある一点をじっと睨んでいた。
俺も倣ってその辺りを目を凝らして見たりしてみたがやはり何もない。
そのときだ。
背後から声が聞こえた。
「皇帝猫がいる」
「四季?」
俺の声ににゃっくを見ていた青年、四季が俺に笑顔を向ける。
「やあ、進藤くん。ここ、君の家?」
「ああ。おまえ、この辺に住んでいたのか?」
「違うよ。散歩さ。僕はさ、いろんなところを見て回るのが好きなんだ」
「そうか」
俺は何の疑問も抱かず納得した。何せ相手はバックパッカーだからな。
ん?これは偏見か?まあいいや。
俺はにゃっくが空ではなく、四季を見ているのに気づいた。
いや、睨んでいる、と言った方が正しいか。いつもポーカーフェースのにゃっくがこれほど表情を変えるのを初めて見たぞ。今にも襲いかかりそうな雰囲気さえある。
「にゃっく、どうしたんだ?」
「どうやら僕は君のネコちゃんに嫌われているようだね」
「なんかやったのか?」
「まさか」
「そうか」
にしてはにゃっくの表情は尋常じゃないぞ。まるで親の仇でも見るみたいだ。
あ、そういえば四季の奴、変なこと言ってたよな。
「さっきにゃっくのことをコウテイネコっていったよな?コウテイってアウグストゥスとかの皇帝か?」
「そうだよ。『可愛さと強さ、そしてかっこよさを兼ね備えた最強の猫。それが皇帝猫。』ってどっかのホームページに書いてあったよ」
「へえ」
今度調べてみるか。
「ところで、進藤くん……君には見えているのかな?」
「見えている…?」
何が、と聞き返そうとしたが思い当たることがあるじゃないか!
「ってまさか、おまえは見えているのか?にゃっくが見ているものが!」
「…」
「おいっ」
「ということは君には見えていないんだね」
「だから何がだよ⁉︎」
「見えてないんだね。じゃあアレは片付けておいた方がいいね」
俺の質問には答えず、四季は独り言のようにつぶやいた。
「ちょっとごめんね」
「あ、おいっ…⁉︎」
四季は手をポケットに突っ込んだまま塀に向かって軽くジャンプした。
そう、俺には軽くに見えたんだが、四季は俺の予想を遥かに超えるほど高く上がった。
右足で塀を軽く蹴り、更に上がると塀の上にとん、と着地した。
なんて身の軽い奴だ。運動神経も半端じゃないぞ!どんだけ才能に恵まれてんだよ。差がありすぎるぞ。神様は昼寝でもしてたのか。
四季の行動はそれで終わりじゃなかった。
四季はポケットから手を出すと、いつもにゃっくが見つめているあたりに向かってジャンプする。今度も高い。勢いもつけてないのに軽く一メートルは跳んだぞ。
そして右腕を振り上げ、振り下ろした。
その動きはまるで、何か得物を手にしているようだ。
剣が一番しっくりくるか。
しかし四季は何も持っていない。俺にはなにも見えない。
振り下ろした瞬間、キィィンと妙な音が聞こえた。
ストンと静かに着地する。
「…おまえ、今何やったんだ?」
「ちょっとした掃除…かな」
そう笑顔で答える四季が以前に見たムーンシーカーの少年と似ている気がした。
いったいどこが似てるんだ?四季は無表情じゃないし……
‼︎
いつも笑顔を絶やさない。
いつも変わらない表情。
これは無表情といえるんじゃないか!
そして今の奇妙な行動。
四季はムーンシーカーなのか?
「どうかしたかな?」
「……いやなんでもない。で何やったんだ?」
「ははは」
誤魔化しやがった。
「じゃあね」
「おい」
「ん?」
「せっかくだ、寄ってかないか?」
四季がムーンシーカーだろうと関係ない。
俺はもう差別はしない。
俺のために何かしてくれたことだけは確かだ。
なぜそう確信したかは説明できないんだが…
「前からバックパッカーの話を聞いてみたかったんだ。俺と同じ年頃の奴が俺とは違う道を進んでいるんだ。すごい興味がある」
「うーん、残念だけど僕、これから用事があるんだ。それに君のネコちゃんが睨んでるし」
確かににゃっくは四季を睨んでいた。ただ、さっきよりは幾分落ち着いたか?
「そうか」
「そのことはバイトで話してあげるよ。あ、そうだ、せっかくだからメアド交換しない?」
「いいぜ」
俺はメールアドレスだけじゃなく電話番号も交換した。
「じゃあね。また面白いことがあったら教えて」
「俺は何にも面白くないぞ。お前が何も教えないからな」
「はは」
四季は駅の方へ去って行った。
にゃっくはしばらく四季を睨んでいたが、その姿が見えなくなると、いつもの空を眺め、そしてぴょん、と俺の家の屋根に乗るとトコトコと俺の部屋に戻っていった。
俺はこの日以来、四季とよく話すようになった。
バックパッカーのことだけじゃなく、世間話もした。
俺は四季に、
お前はムーンシーカーなのか、
とは聞かなかった。
どっちにしたって対応を変える気は無かったしな。
四季が俺の予想通りムーンシーカーだとしても月見衝動を起こしているところを見たことがないからレベルは0なのだろう。