別れの挨拶
皆川万結が祖母の葉桜哉子にあやされ、祖母が去った部屋の布団で微睡む中。窓ガラスに小石がぶつかった音が部屋の中に響く。
パジャマ姿で今にも寝るか泣くかの表情のまま、皆川万結は起き上がって金色の東洋龍のアンドールをスリープモードから目覚めさせる。
アンドールを抱きかかえて窓に近づく。二階なのだが、外に設置しているパイプと窓枠を器用に掴んで柊というアンロボットが無表情で待っていた。
窓を動かせば少しだけ生暖かい風が頬を撫でる。皆川万結はその風を受けて少しだけ目を覚まさせる。
柊は開いた窓に足をかけて、体勢を安定させる。いざという時は下に隠れている楓という同じアンロボットがフォローする流れだ。
皆川万結は夜の来客を見上げ、次に腕の中にいる狭間進歩を見つめる。皆川万結が憧れていたロボットの友達、アニマルデータ。
それを手放す時はあっさりとやって来た。だが柊はすぐには手を伸ばさない。感情が少ないとはいえ、別れの挨拶が必要なことを知っているからだ。
まだ幼い少女がぐずり始めたらデータだけでも送信する手筈を整えている。だから柊は焦らずに皆川万結の決心を待つ。
「……ムーくん」
<なんだ?今ならなんでもお願い聞いてやれる。最後だけど……>
「じゃあやくそくして」
金色の東洋龍の姿をしたアンロボット、狭間進歩の顔の上に熱い滴が落ちる。
それも風を受けてすぐに冷たくなっていき、滑り落ちてしまう。熱を名残惜しむ暇すらない。
最後のお願い、どんな無茶が飛んできても狭間進歩は叶えようとした。それが皆川万結のムーくんとして最後にできることだから。
「ずっと、ともだちでいてね……どんなにはなれても、ぜったい!」
嗚咽で肩が震える皆川万結が絞り出した声は、言葉は、狭間進歩にとって予想外の物だった。
そして予想外な嬉しさで涙が込み上げそうになるのに、アンドールの体では涙を流すことができない。
機械の体、機械で作られたデータ、魂のない存在。それが狭間進歩を苦しめた原因。
それら全てを吹き飛ばすような優しく幼い言葉に、狭間進歩は救われる。
皆川万結にいつも救われる。最後の最後まで狭間進歩にとって、幼い友達は優しい存在だ。
涙を流して別れることしかできない自分が辛い、だが狭間進歩は青い血が造り上げた世界に向かわなければいけない。
用意された世界と幸福、そこで苦しめられている友達がいる。約束を果たしていない相手がいる。
今度こそ終末を乗り越える。狭間進歩にとってそれは生まれた意味でもあり、生き残った意義でもある。
だからこそ大切な少女にかけられる言葉は少ない。一音でも間違えないよう、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
<もちろんだ。俺は、ずっと、万結の……友達だ>
泣き続けて俯いた少女の額に、自分の額を合わせる。ぬいぐるみサイズなので、とても小さな額を。
伝わる人肌の熱さは機械の体にわずかな温もりを与える。それも額を離した直後には言葉のように淡く消えていく。
だけどデータは覚えている。熱を、言葉を、涙を、与えられた優しさ全部を、忘れない。
例え皆川万結がいつか大人になって、狭間進歩が過去に一人取り残されたとしても、忘れられない。
零れ落ちていく涙が乾いて消えていく。頬にいくつも涙の痕をつけた皆川万結は、震える腕で柊に狭間進歩を差し出す。
柊は無意識に優しく狭間進歩を受け取り、俯いた少女の顔が上がるのを待つ。まだ一番大切なことが聞けていないためだ。
パジャマの裾で目元を勢いよく擦り、真っ赤になった顔と目のまま笑顔を作る皆川万結。
今にも口元が歪んでしまいそうになるのを堪えて、顔を上げて表情が崩れないように注意を払いながら、しっかりと声を出す。
最後の会話、別れの挨拶を笑顔で切り出した。
「ばいばい、ムーくん」
<ばいばい、万結。俺の大事な友達>
そして軽やかな動きで柊は狭間進歩を抱えたまま窓から飛び降り、音もなく地面に着地する。
待機していた楓と共に素早く目的地へと向かって走り出し、あっという間に皆川万結の視界から消えてしまう。
見えなくなるまで、いや見えなくなった後も、皆川万結は手を振り続けた。何度も、小さな手を動かし続けた。
しかしどんなに動かしても大好きな友達が再び目の前に現れることも、戻ってこないことも知ると、途端に床に座り込んでしまう。
開いたままの窓からは風が流れ込んで、カーテンを揺らす。夢よりも短い最後の言葉を何度も思い出す。
立ち上がった後は布団に戻らず、覚束ない足取りで祖母の部屋へと向かう。わずかにドアを開けて様子を見れば、老眼鏡を片手に本を読んでいる祖母がいた。
ドアが開いた気配に葉桜哉子は振り向く。ドアの隙間から目元を腫らした孫の皆川万結が覗き込んでいた。
先程寝かしつけたばかりだというのになにがあったのだろうかと立ち上がろうとした。その前に皆川万結が駆け込んで、胸の中に飛び込んでくる。
少なくない衝撃を受けても咳き込まなかった自分を褒めつつ、葉桜哉子は声を押し殺して泣き始めた孫の様子を確認する。
声に出すのも恐ろしいほどの怖い夢でも見たのだろうか。それとも辛く悲しい夢を見て心細くなったのだろうか。
ただただ泣き続ける孫の背中と頭をあやすように撫で続ける。大丈夫と想いを込めて、撫で続ける。
震える肩が落ち着いた頃、葉桜哉子はおまじないをかけるように優しく語りかける。
「万結ちゃん。どんな夢も眠って明日になれば消えちゃうものよ。もし眠れないなら一緒のお布団でお婆ちゃんと寝ようか?」
濡れた胸元で小さな頭が頷く感触がした。葉桜哉子は老眼鏡を専用ケースにしまい、読みかけていた本もしおりを挟んで机の上に閉じ置く。
少し重くなった孫の成長を喜びつつも、腰を懸念しながら抱きかかえ、あらかじめ敷いていた布団へと運んでいく。
そして鼻も耳も真っ赤にした皆川万結を傍らに、眠れるように昔話でもしようかと考えた矢先、声をかけられる。
「おばあちゃん。わすれたくないことがあったら、どうすればいい?」
「それなら日記をつければいい。今度教えてあげるね。今日はもうおやすみ」
「……うん、おやすみ」
重い瞼の誘惑に負けて、皆川万結はすぐに眠ってしまう。この後に起きることは何一つ知らないまま、朝を迎える。
ただ一つわかっていることは、もう二度と狭間進歩、ムーくん、には会えないということ。
どんな奇跡が起きたとしても決してそれだけは叶うことがないことを、皆川万結は無意識に理解していた。
だから夢の中で小さく呟く。もう一回、別れの挨拶を。