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ふりむけば、鬼嫁。  作者: 江本マシメサ
第三話「虎穴に入らずんば虎子を得ず」
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三十四

「おい、起きろ」


 眠る総一郎を朝も早くから揺さぶり起こすのは、ラムウルだった。しかしいくら声を掛けても眉間に皺が寄るだけで目を覚まそうとしない。

 そうこうしているうちに卯の刻(午前六時)を知らせる村の鐘が鳴り響く。焦ったラムウルは総一郎の上で幸せそうに眠る豆狸を蹴り飛ばした。白い狸こと矢島は畳の上をぽんぽんと跳ねて壁に激突していたが、安らかな寝息が途切れる事は無い。

 邪魔者を排除した後に掛け布団を一気に剥ぎあげようとしたが、その前に部屋の主は覚醒をする。


「ーー!!!! ま、枕元に綺麗な人がいる!」

「何言ってんだお前…」

「……あれ?」


 白鬼ソウの視力は裸眼で2.0あったが、普段の癖で瞼を擦ったあと眼鏡を掛け、視界の確保に努める。


「ラムウルさん? なんでここに…」

「今からエビを捕りに行く」

「え?」

「五分で準備しろ」


 そう言い捨てるとラムウルは部屋から出て行ってしまう。とりあえず指示された通りにしないと後が怖いので、未だはっきりとしない意識に鞭を打って準備に取り掛かる事にした。大急ぎで支度をし、玄関を飛びだした先にあったのは、ラムウルの背中だった。何を見ているのかと隣に並んだが、なんて事の無い村の風景が広がっている。


「早かったな」

「……歯も磨いてなければ、髭も剃っていませんが」

「気にするな」


 ぼさぼさの髪と髭を隠す為に、今さらながら総一郎は手ぬぐいを頭に被る。

 先ほどは寝ぼけていたので良く見ていなかったが、今日のラムウルは男性用の作業服を着用していた。腰には何故か紐で連なった鈴の束を着けている。総一郎の視線に気が付いたのか、ラムウルは同じ物を股引の物入れから取り出し差し出した。


「お前の分だ」

「これは?」

「猪避けだ。あいつらは臆病だからこちらから存在を知らせれば寄ってこない」

「なるほど」

「ウリ坊を見つけても無視しろ」

「子育て中の獣の恐ろしさは存じております」

「今は猪の出産の時期だからな」

「はい」


 総一郎の育った場所も猪の生息地域だった。猟友会の爺様達が警察官と共に銃を携えて歩き回る姿を目撃するのは珍しくない事で、近所の畑を荒らしたと思われる猪の肉が食卓に並んだこともあった。


「もし出会っても刺激するなよ。こちらが大人しくしていれば居なくなる場合もあるからな」

「そうですね。猪の突進力は……ん?」

「突進力がなんだ?」

「ーーすみません、忘れてしまいました」

「はあ?」

「以前誰かに猪の話を聞いた様な気がしたんですが」

「? まあいい。とにかくこの鈴を付けていれば問題ないからな。…ってもう日が昇りきってるじゃないか! 急ぐぞ」


 腑に落ちない様子の総一郎を置き去りにして、ラムウルは小走りで山道へと進んでいった。


***

 ラムウルの言うエビとは河川の海水と淡水の混ざった場所で捕れる<テナガイエビ>という左手だけが長く成長した生き物の事だった。梅雨入りから初夏にかけてが一番の爆釣ばくちょうする時季らしい。

 総一郎が背負う籠の中には八本の細い竹で作った釣竿が入っており、それ以外にも何か入っているようでずっしりと重かった。

 河川までの山道を草木をかき分けながらラムウルは進んで行く。屋敷から三十分ほど歩いた場所に、海老が捕れるという川があった。

 到着するや否や総一郎の背中から籠を取り、八本あるうちの二本の竿を手渡した。手作りと思われる竿の糸には中身がうつろな状態のウキ代わりのどんぐりとオモリの石が付いていた。


「お前は二本でいい」

「?」


 渡された二本の竿を使ってエビを釣れという指示を出したあと、見知らぬ場所で落ち着かない様子の総一朗を残してラムウルは岩場の方へ歩いて行ってしまう。

 ラムウルがエビの餌だと用意していたのは、総一郎にとって見覚えがあり過ぎる銀色の缶に入ったもので、中身は先日捕ったばかりのミミズだった。

 鶏に心の中で謝罪を入れつつ、釣り針にミミズをつけて静かに水面に針を落とした。

 テナガイエビは夜行性で、昼間は岩の隙間や水草が生い茂る暗い場所を好む。雨が降った後は川が濁り、日がある時間でも活動が活発になり、釣れやすくなるとラムウルは説明をする。

 大きさは大体十センチ前後だが、稀に二十センチ程までに成長した個体もいるらしく、そういった大物は天ぷらにして食べるのだとラムウルは言う。

 総一郎は今まで釣りをした事が無かったので、準備にもたついていたが、離れた場所に居るラムウルは六本の竿を等間隔で置いていた。全ての釣糸を水の中へと垂らし、あとは獲物が掛かるのを待つばかりだった。

 昨日の土砂降りとは打って変わって、雲ひとつない空が広がっていた。気温はまだ上昇しておらず少々肌寒く感じていたが、実に気持ちの良い朝だと総一郎は澄んだ空気を吸い込む。三十分ほどその場で静かな時を楽しんでいたが一匹もエビが釣れる事も無く、濁った川を前にどうしたものかと独り言を呟く。 


「なんだ、釣果なしボウズじゃないか」


 いつの間に近づいて来ていたのか、背後には取っ手の付いた桶と六本の竿を持ったラムウルが居て、あきれた表情を浮かべている。


「糸は引くんですけど」

「…もしかして引きがあったらすぐに竿を上げてないか?」

「上げてますねえ」

「……」

「……?」

「お前釣りをした事ないとか?」

「はい。今日が初めてです」

「ーーそれは、悪かった」


 ラムウルは総一郎の隣に腰を下ろすと自らの竿に餌を付け、川の中へ落とした。

 糸を垂らしてから三十秒と経たないうちに竿の先端がピクリと動く。


「お前はここで引いていただろう? この最初の引きはエビが餌を掴んでるだけなんだ、しばらく待って口に餌が入って針が引っかかった瞬間に、引く!」


 竿を引き上げると十センチ程のテナガイエビが釣れていた。ラムウルはテナガイエビの長い脚の先端にある鋏を千切り取って川に投げた。挟まれると地味に痛いらしい。

 総一郎も教えてもらった通りに釣りを始める。はじめの何度かはバレたり餌だけ盗られたりしたが、六回目の挑戦で一匹釣り上げる事に成功した。

 コツを掴んでからは竿の数を二本に増やし、次々と大なり小なりなエビを釣る。


「ここへは良く来るんですか?」

「いや、八年ぶり位だな」


 村の近くにある川はドブ川と呼ばれ、食べられる生き物は生息しておらず、泳ぐ事すら出来ない汚れた川で、もう一つ別の場所にある川は生活用水として活用しており、洗濯物をする母親たちが行きかう場所になっていたので、手伝いを頼まれる事を予想していた子供達は誰も近づかなかった。

 そんな村の川とは打って変わって、山を越えた先にある村から離れた河川は澄んだ水が美しく、川魚やエビなどが釣れたり泳ぐのにも最適な場所だった為子供達の絶好の遊び場だったという。しかしながら上流に行けば流れが早く、水位も深かったので遊びに行く事は禁じられていた。

 もちろん村の外から来たラムウルも森の奥にある川に行ってはいけないとハクゲイからきつく忠告を受けていたが、大人たちの監視を掻い潜って一年間バレずに遊びに行っていた。


「バレた時は大変だったよ、色々と」


 ラムウルは空を見上げ幼かった日の愚かな行いを思い出す。当時の制裁の記憶も蘇り、ぶるりと体が震えた。


「今日はここに来ても大丈夫だったんですか?」

「ああ、婆さんには許可を取っている」

「そうでしたか」


 話しながら総一郎は先ほどから反応があった竿を上げる。


「小さい」


 釣り上げたのは五センチにも満たないテナガイエビで逃がそうとしたが、小さいものは砂糖醤油で煮ると旨いというラムウルの悪魔の囁きを聞き、釣った獲物は水の張った桶の中へと放たれた。


「そろそろ帰りますか」

「そうだな」


 背負ってきた籠に竿を入れようと覗き込んだ時、底に四角い風呂敷包みを発見してしまう。


「あれ、これお弁当じゃないですか?」

「……」

「飲み物も入ってますよ」

「そうか」

「アメリさんが準備してくれたのでしょうか?」

「そうだな」

「折角なのでいただきましょう」

「……」


 風呂敷包みを開くと中から二段の重箱が出てきて、蓋をあければいなり寿司が隙間無く詰まっていた。二段目も開く、一段目と同じく綺麗に詰められたいなり寿司だった。

 

「これは凄い」

「…さっさと食って帰るぞ」


 ラムウルは乱暴にいなり寿司を掴み、二口で飲み込んでしまう。

 この後は一度家に戻り、また畑に行かなければいけない。晴天に恵まれた日の農家に休みなどないのだ。


 しかしいくら急いでいるからと言ってラムウルのように雑に食べるには勿体無い一品だった。甘しょっぱく煮込まれた皮はほおばった時に染み込んだ煮汁がじゅわっと滲み出てきて、中の酢飯にはプチプチとした食感の麻の実おのみといなりの皮より薄味で炊かれた乾瓢かんぴょうと筍、干し椎茸が具材として混ぜ込まれている。


「うわ、おいしい」


 麻の実入りのいなり寿司など二度と食べる事は出来ないと総一郎は思っていた。就職時に上京し食生活で様々なカルチャーショックを受けたが、一番驚いたのはスーパーで買った酢飯に胡麻しか入っていない、いなり寿司の存在だ。

 翌日会社の同僚に麻の実入りのいなりについて聞いたが、誰一人として知っている者は居なかった。

 

「アメリさん、凄いなあ」

「はあ?」

「これ、すごく手の込んだいなりですよ。そんな乱暴に食べて勿体無い」

「…う、うるさい。黙って食え!」


 隣から受けた突っ込みを最後にラムウルは食べるのをやめてしまう。一方の総一郎はきっちり詰め込まれた九個全て平らげ、帰り支度を始めた。


***


『おかえり~うわ! 大漁だね~』


 帰って来た二人を一番に出迎えたのは美雪よしゆきで、総一郎の持つ桶を覗き込んで感嘆の声をあげる。

 ラムウルは疲れたのか気の無い返事を返して部屋の奥へと消えていく。


『朝から逢い引きなんてお熱い事だね~ラムウルどんな風に誘ってきたの?』

「それはもう、ガキ大将が舎弟を嫌々誘うような優しさで……」

『うわっ…想像以上に酷い。それよりラムウルのいなり寿司おいしかった?』

「え?」

『あれ、食べなかったの?』

「いえ、いただきましたけど…アメリさんが作ったものとばかり」

『朝から台所でごそごそしてたのがラムウルだったから吃驚したんだよ~』

「知りませんでした」

『ラムウルね、料理上手なんだよ。年に数回しか作らないけど、意外でしょ?』

「はい。…何も言わずに黙々と食べてしまいました。お礼を言わなければ」

『ま、待って、総ちゃん! 改まってそんな事されたらラムウル恥ずかしくなって大変な事になるよ~!』

「そ、そう?」

『そう!』


 美雪の勢いに負け、総一郎はそのまま畑へと出かける事にした。

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