三十三
太陽が出る前の早朝、東の空に浮かぶ雲は赤橙色に染まっている。
ラムウルは玄関を出て井戸から水を汲み、木製の釣瓶から桶に移した冷水で顔を洗う。井戸の縁に掛けた手ぬぐいを取ろうと見上げれば、天と海を繫ぐ地平線から暁光が出てくるところだった。眩い輝きを放つ朝日を見上げ、ご来光なんぞを拝む事など何年ぶりだろうかとラムウルは考える。
数ヶ月前のあの日、総一郎の呪いによって目覚めて以来灯りを点けたまま眠る様になり、その効果なのか毎晩心地よい眠りを得る事が出来ていた。
早起きは三文の徳という言葉がある通り、早く起床をするようになってから体の調子も良いし、家族に迷惑も掛ける事もなくなっていた。
それに朝の静謐な空気というのはこんなにも心地のいいものかと息を吸い込む。
景色に見とれ顔を拭うのを忘れていた事に、今更ながら気が付く。寝巻き用の浴衣の共襟は残念ながら水分を含んでいた。
早く干さねばと思い立ち上がるが、情けない事に立ちくらみを起こしてしまう。低血圧は健康状態にに関係なく襲ってくるのだ。
立ち上がった際に覚えた気怠さを訴える体に活を入れる為、日の出に背中を向け、力いっぱい体を伸び上げた。
玄関から庭に回りこみ、アメリのいる台所へと繋がる勝手口の戸を開く。台所の奥からはトントンとまな板を叩く音が聞こえていた。
部屋の中は暗く、小さな行灯の光だけを頼りに作業をしていたアメリは勝手口から入る太陽の眩しさに目を細める。
そして外部の光によって浮かび上がったアメリの姿は普段の二倍ほどあった。
「な!!」
「おはようございます、ラムウル様」
ラムウルに掛けられた声は低く野太い。上体を腰からきっちり四十五度程に曲げ、畏まった挨拶をしていたが、ガタイのいい男がするには不自然な格好だった。
「お前、アメリか?」
「はい」
その姿は村に住む樵の姿だった。
「南瓜が固くて自分の力では切れなかったので、樵様の姿を拝借しておりました」
「……知らん男が家に居たら驚くだろうが」
「樵様は村の住人ですよ?」
「知ってる。家族以外の人間が家に居れば普通驚く」
「そうですか。気が利かずに申し訳ありませんでした」
そう言ってアメリは再び頭を下げ、着物の袖から変化に使う落ち葉を取り出し頭に載せた。
ラムウルは固くて切れないという南瓜に包丁を入れる。
「…確かに、固いな」
「でしょう?」
「ーーは?」
ラムウルの背後から再度聞こえてきたのは男性の低い声だった。その姿を確認したラムウルは驚きで声を失い、アメリは呆ける娘から包丁を勝手に受け取ると、サクサクと南瓜を切り刻む作業を始める。
「…………」
有ろう事かアメリが変化をしたのは総一郎の姿だった。
「ラムウル様、危ないので少し離れてーーあら?」
「な、なんだよ」
南瓜を切っていた手を止め、アメリはラムウルを見つめる。その視線を受けて落ち着かない気分になった鬼の娘は壁側へと後ずさる。
「濡れています」
「は?」
「浴衣が」
「あ、ああ…さっき顔を洗った時に」
「水ですか、染みかと」
浴衣の確認をする為に包丁を置きアメリはラムウルに近づくが、その度に後ずさるので二人の距離は縮まない。そして後ずさる道も無くなり、壁に追い詰められたラムウルは瞠目しつつ息を呑みこんだ。
総一郎の姿をしたアメリはラムウルの胸元に鼻を寄せたが、一瞬で体を押しのけられてしまい不満気な表情を浮かべている。
「ーーまだ、大丈夫ですね」
「……ッ!!お、お前、それやめろって、前に何度か言ったよな」
「そうでしたっけ?」
アメリは洗濯の必要の有無を衣服の匂いを嗅いで確かめる癖があった。その行為を止める様注意をした事があったが、獣の性だと一蹴されるのは平素の事で、過去に起こった苦渋の味わいを思い出してしまい、舌打ちをする。
「ラムウル様、浴衣を庭に干してくるので脱いで下さい」
「は?」
「着替えは丁度戸の外に置いてありますから」
そう言いながらアメリは浴衣の帯を解こうと手を掛けた。
「い、今はいい、やめろ。脱がすな!って力強いな」
「今の姿は篠宮様ですから」
「ーー戻れ! せめて元の姿に」
「?」
壁を背に攻防を繰り広げるアメリとラムウルだったが、第三の介入者の出現によってその戦いは終わりを告げる。
「おはようございます、アメリ、さん?」
「!!!!」
浴衣を脱がされ右の肩だけがむき出しの状態になった涙目のラムウルと、その服に手を掛ける男の後ろ姿を総一郎は呆然と眺めていた。
「おい、呆けてないで助けろ!!」
「え? --あ、はい」
小さな籠に入れた卵を台の上に置き、ラムウルに迫る男の手を取ったが
「おはようございます、篠宮様」
「おはよう、…ってあれ?」
「…………」
自分と同じ顔の男に挨拶をされ、返したのはいいものの今起こっている事態が飲み込めずこの後どうすればいいのかとラムウルの顔を見たが、彼女の視線は地面にある。
そんな気まずい空間を切り裂いて現れたのは白い虎だった。
『おっはよ~ん! アメリ! 朝ご飯何~~?』
「ーー邪魔が入ってしまいましたね」
アメリはラムウルの浴衣から手を離し、「早く着替えてくださいね」と声をかける。皆に背を向けて、何事も無かったかのように再び朝食の準備を始める謎の男と総一郎、衣服が乱れたラムウルを交互に見ながら美雪は首を傾げた。
『ーー何、この修羅場』
「……」
「……」
総一郎も同じ事を聞きたかったが、答えはどこからも返って来なかった。
※※※
慌ただしい朝を乗り切って、総一郎は今日も畑へ出かける。いつもと違う点といえば後を歩く妙齢の女性の存在だった。
「矢島君…他のものに変化は出来ないよね」
「はあ、今のところこれしか…申し訳ありません」
「そっか…」
十八位の女性の姿をしているのは豆狸の矢島だった。彼はアメリと違い異性への変化を得意としていた。
先日畑仕事を手伝いたいと申し出た矢島の進言を無下にする訳にもいかず、穴掘り位は出来るかなと思っていたところ、翌日総一郎の目の前に現れたのは儚げな女性だった。
その女性が矢島だと気が付くのにしばらくの時間を要した位、見事な変化っぷりを見せる。しかし美しいその姿は多大な弊害が伴っていた。
村人の視線が、痛い。
村での総一郎はラムウルの婿として伝えられており、見ず知らずの異世界人を暖かく迎えてくれた。
ところがその婿は真昼間から他の女を連れ歩き、挙句夫婦の様に仲睦まじい様子を見せ付ければ「ラムウル様の婿殿は浮気者だ」という一部の村人から出た謂われない噂が出回り、頭を悩ます毎日を過ごしている。
ーーこれは<あやかし>です、性別は雄です、男なんです。さりげなく村人達に説明をするが、突き刺さる視線は厳しいもので、真意は伝わっていない様に感じていた。
仲睦まじいと噂されても普通に仕事を教えたり、話をしたりしているだけなので、冤罪だと総一郎は心の中で涙を流す。
「矢島君、やっぱ厳しいよ」
「何がでしょうか?」
昼時になりアメリが用意したおにぎりを頬張りながら、隣に膝をそろえて座る矢島に話しかけた。
「……君の事」
「!!!!」
矢島は驚きのあまり咀嚼を誤り、喉に米を詰まらせてしまう。慌てて竹筒に入ったお茶を飲み干した後、胸を激しく叩き、嚥下を促した。
「はッ、働きが足りないという事でしょうか!?」
「いや、そういう訳ではなくて」
「でっではではどういう事なのでしょうか~~?」
胡坐をかいた総一郎の腿に両手を沿え、潤んだ瞳で見上げる。
「いやいや、見えるから!」
アメリが用意した矢島の作業服は作務衣だった。元々山田家の男性用の服は亡くなったハクゲイの主人のものを仕立て直した品で、小柄な女性の姿になった豆狸には大きかった。
屈む度に胸の重さに負け襟が開きかけているのを何度も注意したが、衣服を着なれていない矢島には難しい注文の様で、仕事が終わる頃になればあられもない姿になっている事は珍しくは無かった。
「旦那様! どうか、どうか捨てないで下さい」
「いやいやいや…」
またしても総一郎の真意は伝わらず、そんな二人の姿は傍から観察すれば仲良く戯れている様に見えたという。




