二十九
記憶を喪失した鬼の娘に対して皆どう接すればいいのか困っていたが、ハクゲイは冷静なもので目覚めたばかりの記憶の無いラムウルと話し、症状を探る事から始めていた。しかし医者でもないのでいくら問診をしても分かる事は少なく、鬼婆は早々に匙を投げる。
「記憶」には種類があり、新しく入って来た経験を理解して覚える事を「記銘」、一度記憶した情報を残す事を「保持」、覚えたものを引き出す事を「追想」という。ハクゲイ曰くラムウルの記憶が欠陥しているのは「追想」の一部だという。「追想」の中でも種類が分かれており、「自分に関わる記憶」「知識」「動作」の三つがある。ラムウルは「自分に関わる記憶」だけが欠如していた。
見たところ目立った外傷も無く、生活に必要な記憶は残っていた為、ハクゲイはラムウルをアメリに任せて仕事に出かける事にした。
男手が戻ったと張り切って出かけた農作業だったが、急に雨が降りそうな天候になったので仕事を早急に切り上げ帰宅した。
しかしながら玄関を跨いだ先に、しおらしく主を迎えるラムウルの姿がある事など露知らず、表口の扉を総一郎は開く。
「……」
「……」
三つ指をついて出迎えるらしくないラムウルの行動にハクゲイと総一郎は絶句する。そんな祖母と夫の様子を不思議そうな顔で見上げ、首を傾げていた。
「旦那様、お風呂にいたしますか、お食事になさいますか?」
「……!!」
ーーこれは日本古来からの素敵文化「お風呂にする?ご飯にする?それとも私?」ではないかと総一郎は瞬時に悟る。
しかし待てども・待てども・待てども「それとも私?」が出て来なかった。
一時の間己が妻を熱心に見つめつつ沈黙を続ける婿を、良からぬ事を考えているのなと察知したハクゲイは「早よ決めんか!」と総一郎の尻を力いっぱい叩き叱り付けた。
「……お風呂で」
何故かがっかりした様子の総一郎を余所に、ラムウルは風呂釜の準備をしに外へ出かけて行く。
時間帯はお昼前でお風呂に入るには早すぎたが、畑仕事で泥だらけになっていた為丁度良いと思い、お言葉に甘える事にした。
屋敷の離れに脱衣所と湯殿に分かれた煉瓦で出来た小さな小屋があり、外には竈が備え付けられ、火を入れ薪を焼べながら湯を温め入浴をする、それこそ日本古来の生活様式だった。
もちろん浴槽は鉄釜で底は火が直接あたる為、丸い木で出来た底板を踏みながら入らなければ火傷をしてしまうらしい。
風呂がある小屋に来てみれば、ラムウルが竈の焚口に薪を焼べ、中が空洞になった竹筒から息をフーフーと吹きかけている。その姿を美雪が恐々とした表情で見守り、落ち着かない様子でその背後をうろついていた。
準備は出来ているとラムウルは言い、脱衣所に繋がる扉を開いてくれた。何だか申し訳ないと思いつつも中へ入り、着ていたものを脱ぎ始める。
この世界に来た当初、もしやふんどしが下着として普及しているのではと危惧していたが、その心配は杞憂で終わる。
渡された下着は畳んだ状態なら普通の下穿きと変わらない様に見えた。綿で出来ていると思われる肌着の手触りはふんわりと優しく、感心しながら開いてみればおしめみたいな一枚の布地になっており、腰と腿の部分左右四箇所に紐が付いて結んで固定する仕組みだと鬼の少女は淡々と説明してくれた。着てみた感じはトランクスに近く、左右四箇所にある紐を無視すれば見た目も似ていた。
作業着と肌着を籠の中に入れ、最後に眼鏡を外す。脱衣所に置かれた大きな鏡に映るのは、白い頭髪を持ち血管が透ける程肌の白い角の生えた男だった。何故このような恐ろしい姿になってしまったのか疑問は尽きなかったが、ラムウルの記憶が無い以上考えても仕方が無いと捨て置く。
体を洗う為の手ぬぐいを持ち、風呂場に入る。湯殿の半分を占めるのが鉄で出来た大きな五右衛門風呂で、浴槽からは湯気があがり手でなかの温度を確かめれば、まだ全体的に温かった。
『総ちゃん、湯加減はどう?』
「う~ん、ちょっとまだぬるいかな?」
『ラームーウールー! だから言ったじゃん! お風呂沸かしは僕しか出来ないお仕事なの~!』
風呂を沸かすのは美雪の仕事で、薪を咥えては器用に焚口に入れ、火を吐いて着火させるという<あやかし>の能力を最大限に活用した手伝いを毎日進んで行っていた。
「もう一度温め直します」
『大丈夫だって、ここは任せてよ』
「しかし」
『ほら、顔も煤だらけだ』
今日は風が強いので焚口に溜まった煤が辺りを舞っているのだろう、ラムウルは顔どころか全体的に黒く汚れていた。
その会話を聞いていた総一郎は体を洗う為に持ち込んだ手ぬぐいをお湯に浸し、よく絞ると小さな窓から顔を出し、ラムウルに顔を拭うよう手渡した。
「ありがとうございま、す…?」
手ぬぐいを受け取ったラムウルは小窓から顔を出した白い鬼を見て小首を傾げる。その様子を見て総一郎は鬼の姿である事を失念していた為「しまった」と思ったが気付いた時には遅く、こちらを見つめる金色の瞳は、初めて目にする白い鬼に向かって怪訝な色を滲ませていた。
「……旦那様?」
「……」
「……」
『ラムウル、総ちゃんだよ』
「やはり旦那様ですか。--旦那様は<鬼>だったのですね」
「……そうだね」
「私は、ーー本当に何も覚えていない」
手ぬぐいを握り締め俯くラムウルの背中に美雪は額をあてぐいぐいと脱衣所の方へ押しやる。
『ねえ、ラムウル~総ちゃんの背中でも流してきなよ! 裸のお付き合いでもすれば何か思い出すかも』
「え? 背中…そうですね」
思いのほかラムウルは素直に脱衣所に入って行き、美雪はため息をつく。記憶が戻ったほうが良いのか、戻らないほうが良いのか分からないと白い虎は思惟を思い重ねた。
『総ちゃん、そっちにラムウル行くけど大丈夫』
「大丈夫、多分」
『裸で入って来る事は無いと思うけど』
「だよね…」
ラムウルを待つ間総一郎は髪の毛を洗う事にする。もちろんこの世界にシャンプーやリンスなどの洗剤がある訳が無く、頭も体も全て石鹸で洗っていた。驚いた事に石鹸もハクゲイの趣味で手作りらしい。市場で出したら売れそうだと言えば鬼婆の瞳が輝き、どういうものが売れるのかと聞かれ困ってしまった事もあった。
女性ならば巷で有名な食品や植物を使ったバス用品の専門店に行った事もあっただろうが、生憎三つで二百円もしない石鹸で満足していた総一郎には無縁のお店だった。
現在使用しているのは椿油と蜂蜜の入った石鹸で、泡立てると甘い香りが広がり、風呂からあがった後もしばらく体に残る位の強い香りだった。総一郎が体にまとわり付く甘い匂いを嗅ぎながら一人苦笑をしていれば、ラムウルから不審な表情を向けられたのを思い出す。
石鹸で髪を洗い、美雪が良い具合に温め直してくれたお湯で濯ぐ。しかし一向に浴室に入って来る様子がない事を不思議に思い、総一郎は声を掛けた。
「ラムウルさん?」
「は、はい」
「?」
「……」
「旦那様」
「はい」
「お背中を流そうと参った訳ですが」
「はい」
「その……」
ラムウルは恥じらいからか浴室に入る事が出来なかった。どうしようかと扉の前で立ち尽くしていた所声がかかり理由を言おうとしたが、何故か口がうまく回らない。そんな躊躇いを察してか総一郎は扉の向こうにいるラムウルに向かって、無理はしなくてもいいと言った。
「申し訳ありません」
「大丈夫、気にしないで下さい」
「背中を流したい気持ちはあるのに、体が動かないのです」
「記憶が戻った後、まだその気持ちが残っていたら嬉しいと思います」
「……」
こうして初めての裸のお付き合いは失敗に終わり、風呂から出て来た総一郎の瞳に光は無く虚ろだった。
『総ちゃん…なんか、ごめん』
「ダイジョウブ…」
『に、肉球触る?』
「……」
総一郎は汗を拭う為の手ぬぐいを美雪の額に置きぽんぽんと軽く叩いて、ふらふらと屋敷へと戻って行った。




