二
総一郎は腹部の痛みで目を覚ます。鳩尾を何者かにぐりぐりと踏みつけられていた。
「ぐ…」
視界がぼやけている。眼鏡をかけていないのだろう。頭の周りを手探りで探せば指先に眼鏡のフレームが当たる。それを手にしようとした時どすりと重い何かが総一郎の眼鏡と手の間に落とされた。
「か、金棒…?」
音がした方角には八角形の鉄の棒に棘の様な鋲がついた武器がある。お伽話でよく鬼が持っているアレだった。
「なんで…」
「お前、私の部屋にいきなり現れてどういうつもりなんだ、ああん?」
「ぐっ」
総一郎を踏みつける女は足に更なる力を加えた。眼鏡をかける事は許されず、視界がぼやけて何もわからない、かろうじて赤い髪と、声質から若い女性だと分かる。
「分からな、何故ここに」
ぼんやりとした視界でも部屋の内装が料亭とは違う事は理解出来た。先ほどまでいた落ち着かない赤の内装では無く、白を基調とした部屋には黒い机らしき物があるだけで他には何も見当たら無い。
「分からないだと? お前人間だろう?何も知らないとは言わせねえよ!」
金棒を持つ女性は踏みつけた足は退かす事無く、ぐっと顔を総一郎に近づけた。
「ッ…!」
目の前で睨みつける女性は短い赤髪に金の瞳、口元には鋭い牙を覗かせ、額の少し上には3cm程の角の様な物が左右二カ所に生えていた。
目の前にいる女性の現実離れをした姿に動揺し、慌てて眼鏡を掴み取り掛けた。しかし見えるモノは変わらない。彼女は幼い頃に絵本で見た事のある容貌をしていた。その姿とは…
「鬼…!」
「だから何だってんだよ! 誰の差し金だ!アウロラか、マキエダか!」
「うっ…だから何も」
うっすらと総一郎はここが死後の世界ではないかと思った。鬼が居て自分を責め、苦しめている。
「罰が、当たったのか…」
「はあ? お前何言ってんだ?」
総一郎は瞳を閉じる。夢なら覚めて欲しかったが、鳩尾の痛みがここが現実だと語っていた。ここは死後の世界ではない。瞳を開けば美しい赤鬼が凶悪な笑みを浮かべている。
「訳が分からない奴だな、…まあ、この部屋に突然現れた地点でお前に命は無い、死ね」
赤髪の鬼は踏みつけていた足を退かし、金棒を振り上げ総一郎の顔目掛けて振り下ろした。
拘束がなくなった総一郎は金棒を転がりながら避け、起き上がり体勢を整える。
「は、すばしっこい奴だ、美雪こいつを捕まえろ」
赤鬼は背後の襖を開き、誰かに声を掛けた。奥から「ニャ」と猫の声がする。
「え、猫…? うわ!」
音も無く現れたのは白い毛並みを持つ虎だった。一息で総一郎を押し倒し「ニャー!」と得意気に赤鬼を振り返った。何故虎が可愛らしく小さな猫の様に鳴くのか、そもそも何故一般家庭(?)に虎が飼われているのか
「その前にここは、どこ…」
「ああん?」
力無く呟けば金棒を肩に担ぎ上げ、総一郎の横でメンチを切る赤鬼が居た。金の瞳は今にも総一郎を殺さんとばかりにギラギラと殺気を放っている。
「本当に何も知らないんだ…さっきまで料亭に居て、気がついたらここに」
「ニャンニャ…」
「何だって?」
まるで虎と意志の疎通が出来るかの様に虎の鳴き声に赤鬼は反応した。彼女は再び総一郎に顔を近づける。柔らかな赤い髪が頬を撫で金木犀の様な甘い香りがする。
「確かに、匂いが違うな…」
赤鬼は何かを確認するかの様に総一郎を値踏みする。両肩を抑えつけていた虎の重みに耐え切れなくなった総一郎は苦しみに顔を歪めた。それに気がついたのか虎は拘束を止め、もふりと総一郎の上に伏せた。もちろん体重は掛かっておらず滑らかな毛皮だけが全身に触れる。
「美雪、そいつを見張っておけ。逃げる素振りを見せたらかじっておけ、死なない程度にな」
「ニャ!」
虎は了解したとばかりに尻尾をピンと立て返事をし、赤鬼は部屋から出て行ってしまう。
*****
「ニャ、ニャンナャーニャ!」
「…いや、全然分からないよ」
虎は優しい気性の様で総一郎の中の恐怖感は多少薄くなっていた。
美雪と呼ばれた雄の虎は気づかいのつもりかしきりに総一郎に語りかける。もちろんその言葉を理解する事は無い。
周囲を見渡せば内装は普通の和室と変わらず、木で出来た艶やかな漆黒の机は高価な物と分かる。それ以外に物は無く、ここが何処かも推測出来ない。身じろいでいるのに気がついたのか虎は起き上がり、総一郎の上から退いた。
スーツは毛だらけで一度クリーニングに出さないとな、と考え思いとどまる。そんな場合では無い。ポケットに入れていたスマートフォンを手にすれば圏外の文字が表示され、当たり前の様に電話もつながらない。
「ニャ?」
「これはスマホ」
「ニャー! ニャニャ」
「圏外だから今はただの鉄クズ、言い過ぎか、カメラかゲーム機位にしとくか…」
「ニャ、ニャン」
総一郎は現実逃避として虎と会話をしていた。面白い事に虎は総一郎の言葉の一つ一つに反応してくる。今も興味津々にスマートフォンを覗き込み、ニャーニャーと鳴いていた。
「ここは、本当に何処なんだ」
「<鬼ヶ島>だ、異世界人よ」
突如襖から現れたのは先ほどの赤鬼と、年老いた女性で赤い頭髪を持つ鬼と同じ特徴を持った白髪の鬼だった。
老婆は手に包丁を持っていて、総一郎は手にしていたスマートフォンを思わず落とてしまう。
「何、怯えるな。取って喰うつもりは無い」
説得力の無い言葉を老婆は言う。恐怖のあまりいつの間にか総一郎は虎に抱きついていた。
「えらい短い間に仲良くなったモンだな」
「ニャ!」
虎は抱きつく総一郎の体に尻尾を巻き付け、首筋をペロリと舐めた。虎の舌はザラザラしていて皮膚が赤くなる程痛かったが、目の前の包丁を持つ老婆の恐ろしさが総一郎の感覚を麻痺させる。
老婆は物語に出てくる鬼婆そのものに見え背筋が凍りついた。
「これが恐ろしいのか?」
赤鬼の金棒も十分怖かったが、鬼婆と包丁の組み合わせは更なる恐怖感を煽った。総一郎は鬼婆の言葉に力無く頷く。
「そうかい」
鬼婆は不思議そうに首を傾げ、包丁を背後の柱に勢いよく刺した。
「…………」
総一郎はびくりと体を震わせる。普通に机の上にでも置いて欲しかった。綺麗な白い壁に不釣り合いな刃こぼれの無い包丁が刺さっている。鬼婆と赤鬼の視線は情けなく虎に抱きつく総一郎にあり、逃げ出すのは不可能だと思った。
向こうに殺意が無い事はかろうじて理解した。今度はこちらが誠意を見せる番で、総一郎は虎から離れ背筋を伸ばし、頬を両手で叩き気合いを入れ正座をした。
「私は篠宮総一郎と申します」
「ふむ。総一郎、とな。儂は鬼ヶ島の頭であるハクゲイだ、こいつは娘…孫娘のラムウル、まあ…お前は不幸な事に鬼の集落に迷い込んだ哀れな人間と言う訳だ」
「鬼の…集落?」
「そうだ。」
鬼婆は赤鬼と同じ金の瞳を細めて言った。
「…この世には異世界からの迷い人が突然現れる事がある」
ある時は厄災をもたらし、ある時は世界を救済した。〈迷い人〉の物語は遥か昔のお伽噺となり、存在を信じる者も居なくなっていた。
「昔婆さんから聞いた事があるんだよ〈迷い人〉の話をな」
〈迷い人〉は赤鬼、ラムウルが幼い頃枕元で聞いた物語の中だけの存在だと思っていた。こちらにいる人間とは違う〈匂い〉を持ち不思議な格好をしていて突然現れると。しかし目の前の男はその特徴に当てはまり、何より〈人〉であるにも関わらず〈鬼〉に憎しみを向けなかった。
「…それであの、私は」
「ああ、心配いらない。お前の生活は保証しよう。この嫁き遅れた乱暴な孫娘の婿になって貰うのだからそれくらいしないとな」
「え?」
「はあ?何言ってんだクソばばあ!」
ハクゲイは壁に刺さった包丁を抜き、去ってしまった。ラムウルはその後を追いかけ部屋には総一郎と虎だけが残された。