Secret.19*
みちる視点
――天王寺 萌。
彼女はきっと知らないだろう。
俺にとって彼女が、長年俺を苦しめてきた、呪縛にも似た家から解き放ってくれた恩人であると言う事を。
天王寺家及び花里家は、広い世界から見れば極東に位置するこの狭い島国の経済界の二大巨頭であると同時に、世界各地に独自に交流手段を持っている事は、公然とした事実であり、無暗に逆らってはならない家柄の代表でもあった。
俺の実家はそんな華々しい家とは並ばないが、血筋を辿れば公家に長年仕えた家であり、宮家に娘を嫁がせた経歴のある、それなりに名の知れた名士の家であり、旧家だった。
但し、一口に旧家とは言っても、俺が成人を迎える少し前からは《成金》と称される位までに誇りや矜持を捨てた家に成り下がってはいたが、両親や親族は誰一人としてその事実には気付いてはいなかった。
いや、むしろ気付いていながら見て見ぬふりを通していたのかもしれない。
そんな家に生まれた事を恨みながらも、自分が一族の意のままに行動し、生活してきたのは、偏にその家に生まれた頃より、洗脳されるがままに言い聞かせられて育ってきたからだ。
お前は神堂家の人形である。
お前は自我を持ってはならない。
お前は常に神堂家に齎す利益を考えて行動しなければならない。
その呪いの様な言葉に背く度、俺は家の敷地内にある黴と埃が充満した、明かり窓も一つもない蔵に押し込められ、反省するまで食事はおろか、飲み水さえ与えられなかった。
そんな日々を幼少期に何度も繰り返せば、必然と俺の中には新たな人格が出来るのも当然の結果と言えるだろう。
粗方成長すると《俺》は鳴りを潜め、代わりに大人の言う事なら何でも言う事を聞く人形の様な《私》人格が形成され、大学卒業時にはそこに親しみの感じられる表情が足された《僕》人格が形成された。
より詳しく説明をするのならば、《男の恋人》がいたのは、《俺》と《僕》と《私》が複雑に混ざり合った第4の人格であり、会社では常に第4の人格と第2人格ないし、第3人格で通していた。
俺の容姿は例えどんなに鍛えようにも必要以上に筋肉が付く訳でもなく、どんなにモノを食べようとも太る気配はなかった。
それが原因とは言わないが、俺は中学時代から同性に好かれやすく、初めてを奪われたのは中学に入学した日のことで、相手は数学を担当するクラス担任教師だった。
同性に襲われたと言う屈辱的な経験は、直に校内に知れ渡り、結局卒業するまで色んな相手から関係を望まれ、卒業した後にもその類の誘いが減る事はなかった。
その代償として、当然のことながら俺の身体は、いつの間にか異性にピクリとも反応を示さなくなっていた。その事を知るや否や、神堂家の人間は俺を不出来な人形だ、淫らな雄猫だと罵り、家から追い出す手段として選んだのが、見合い結婚であり、相手の家は家格としては上の天王寺家だった。
その天王寺家の中でも、俺の見合い相手として選ばれたのは、本家の次男の娘ではあったが、その娘が会社に何ら携わってないと知るや、両親は見合いの撤回を求めた。
普通ならば考えられない暴挙であるのに、何故か天王寺家側は理不尽だ、礼儀に反していると責める事無く、こちら側の勝手な言い分を受け入れてくれた。
俺は当初、見合いする相手の家が天王寺家だと知らされた時、真っ先に思い浮かべたのは、幼い頃一度だけ逢ったことのある、金髪に近い茶色の髪を持った女の子を想像していた。
そしてその子は俺と同じ会社に勤めていて、外見こそ派手で、意地悪そうには見えるが、専務の憶えも良い優秀な社員でもあった。
彼女は母親の実家の家業を継ぐ為、社会勉強と称し畑違いの会社に勤めつつ、毎日定時を過ぎた後は、タイムカードを一度切ってから、語学の勉強や天王寺の仕事をこなしていた。
だから見合い相手が彼女ではなかったと知った時、少しだけ残念に思えた。
彼女ならきっと穏やかな関係を築けるのではないかと期待していたから。
が、現実は。
「あの~、本当に引き払っちゃうんですか?勿体無くないですか?ここ、セキュリティー万全なんですよ?」
G・Wの連休を利用して、引っ越しの準備をする事にした俺の手伝いと称し、彼女の外出の許可を彼女の母から事前に得ていた俺は、のんびりと荷物を纏めている。
彼女は彼女で、なんだかんだ言いつつも要るものと不要なモノを仕分け、時折「ううぇ」っと、何かに嫌悪感を示しつつ、ゴミを処分していた。
そんな彼女の中の嫌悪感が頂点に達したのは、そろそろ昼になるであろう頃合いだった。
それは所謂《大人の玩具》と言われるモノであって。
それは最近愛用者が増えてきたとはいえ、まだまだマイナーな商品で。
更にそれはそれらに免疫が無い人達にとっては、拷問にも値する道具であって。
「もぉ~う、いや!!なんでこんなのばっかし出てくんのよ!!こんなのあんなトコロに入れたら不潔じゃない、痛いじゃない。私はゼッタイお断り!!そんなコトさせられる位なら口の方がだいぶマシよ!!」
色白な頬を紅く染め、汚いモノを扱うか如く親指と人差し指のみで持ち上げ、不燃ゴミの袋に入れ、ぷりぷりと怒っている。
やがてその怒りは、素知らぬふりで荷物を纏めていた俺にまで飛び火してきた。
「だいたいなんで私がこんなの分類しなきゃいけないんですか?最初から処分しておくのが礼儀ってモンじゃないんでしょうかね?麗しの課長サマ?」
タシタシっと、平手でフローリングを叩く彼女の指には、俺がとりあえず間に合わせで渡した婚約指輪がきらりと輝いている。
その指輪を目に映す度、俺の心は満たされる。
彼女はきっと知らない。
彼女はまだ気付いていない。
自分がどんなに俺の心を鮮やかに救ってくれたかを。
「聞いてますか!!って、聞いてないじゃないですかぁ~!!」
怒りを爆発させる彼女の様子を微笑ましく思いながら、俺はわざとにっこりと意地悪気に微笑んでやった。
とりあえずは今は。
「僕の名前は課長ではありませんよ?萌さん」
「うぅっ、課長のイジワル、いじめっ子」
「萌さん?」
《俺》の、そして《僕》、《私》の婚約者は、今日も素直じゃない。
でも近い内に必ず名前でまた呼んで貰う事が今の目標である事は秘密にしておこうと思う。