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大人の常識、大人の純情  作者: 篠宮 英
しーくれっとⅠ:婚約編
17/22

Secret.17

 小宮 かおり、23歳。

 

 私の中で彼女は、イイ男を捕まえる為に腰掛けでこの会社に入社したぶりっ娘で、頭の中が可哀想な子だと思っていたのよ。

 それがどうよ。


 散々な休日も明け(課長達のデート現場を目撃⇒映画館係り員に注意される⇒見知らない女性に睨まれる)、会社に出社した私に待ち受けていたことは、秘書課以外の女子社員からの完全無視と言う、地味に心に傷を負う陰湿で原初的で最悪な虐めだったの。


 で、その主犯と言うか黒幕が、例のアホッ子の小宮さん。


 彼女はその見た目と中身からは推測不可能なほど同性の支持と、一部の熱狂的な彼女の信者を自称する男性社員からの圧倒的な支持と賛同を得て、私を存在しない者として振る舞う様に仕向けたってワケ。

 勿論、彼女に従わなかった人達もいたけど、彼らは総じて面倒を起こす社員を嫌っているか、見下していた為、私を見ても見ぬふり。


 朝、私がいつも通りに会社のエントランスをくぐると、今まで賑やかだったその場は静まり、そうかと思えば嘲笑交じりの視線。中には明かに悪意の籠った声音で「死ねばいいのに」なんて言葉も聞こえてきたりした。


 そこで昔の私なら刃向かってくる敵は全て全力で相手をしていたのだけれど、生憎と私は今年度の秋での退職を控え、ゆくゆくは【天王寺グループ傘下企業】を始め【天王寺一族】の頂点に就く身。そんな立場になる私がこれぐらいの事で一々目くじらなんか立てていたら、会社も回らなければ、経済も円滑に回らないの。


 だから悲しいなんて言ってられない。

 悔しいなんて落ち込んでなんかいられない。

 だって私はいつだって前を向いて歩いていかなきゃダメなんだから。それが出来なきゃ【天王寺】の名前は背負っては行けないし、生きていけない。


 私に求められてる人間性は、物語で出てくる一時の感情に揺らされる【お姫様】じゃなくて、誰にも屈さぬ鉄壁の理性を持つ【氷鉄の女帝】。


 女帝は私情に動かされてはいけない。


 私は一度ゆっくり息を吐き出すと、意識して背筋を伸ばし、前を向いて、戦いに挑む様な強い眼差しで武装し、エレベーターに乗り込み、チクチクと針が突き刺さてくる様な視線を無視し、いつも以上に【天王寺 萌】を演じた。


 会社での私は常に堂々としていなければならない。

 会社での私は誰かに媚びたり、誰かの前では泣いてはいけないし、涙を見せたりはしない。


 その心意気だけで、私は何とかその日の終業間近までは、皆の前ではいつも通りの【天王寺萌わたし】を保つ事が出来た。


 けど、どんなに感情を押し殺し、誰にも負けない強い自分を演じていても、私以上に苦難な人生を積み重ねてきた人の前では無意味だったのか、帰る前に不覚にも慰められてしまい、激しく動揺してしまったの。

  

「君は上手くやってくれている。私の秘書は君にしか務まらないと思っているよ。だがね、時には人に甘える事も必要だよ。」


「専務...。」


「さぁ、今日くらいは早く帰って休みなさい。それで明日からはいつも通りのとびっきりの笑顔を見せてくれないかな」


 目尻に刻まれた皺が、専務の微笑みと一緒に一層深くなり、専務の朗らかで温かな空気で満ちた様な気がして、それとほぼ同時に、私は自分の涙線が崩壊するのが分かった。


 じわじわとゆっくり熱くなっていく瞳の奥の熱。

 その熱は、人前では決して見せてはいけないと教え込まれてきたもので。

 だから私は泣きたい時は唇を噛み、時にはタオルを噛み、泣かないように努めてきた。


 知ってる?

 人って中々習慣を変えられないものなのよ。

 私の場合は、人前で泣かないこと、それと泣く時は絶対声を出さないこと。


 その根強い習慣は、例え信頼している上司の前でも有効だったのよね、私は。


 そんな状態の私を前に、私をどう扱って良いのか悩んでいた専務は、役室の中で行ったり来たりを何度か繰り返した後で、何か良い方法を思いついたらしく、電話の内線で何処かへ連絡を入れた後、にっこり微笑んだかと思うと、私を残し、部屋を出ていってしまった。



 ポタリ、ポタリ。



 音も無く私の頬を伝い落ちていく熱くて冷たい雫。

 泣く事の意味を忘れてしまった私の感性や身体の機能は、泣く事と同様にどうやってこの熱を治めるか、その方法すらもどうやら忘れてしまっていたようで。


「あれ・・・?どうして止まらないのよ・・・。なんで止まらないのよっ、泣きたくなんてないのにっ!!」


 何度拭っても治まらない、出てこようとする熱い雫に、私は完全に振り回されていた。

 

「ヤダ・・・、泣きたくない。泣きたくないよ・・・。」


 嘘でもそう言っておかなければ、弱い自分に負けてしまうと思っていた。

 子供の頃から求められていたのは、常に冷静で、誰にも弱みを見せない、強い跡取りだったから、ここで泣いてしまえば、本来の弱い私に、自分が負けてしまうと本気で思っていた。


 そんな頑なだった私の心を、簡単に突き崩してしまえた人は。


 ふわりと香った仄かな煙草の匂いと、男性用の爽やかな香水は、もういつの間にか完全に馴らされていて。

 その少し低い温もりと、唇の柔らかさはとても気持ち良くて。

 そして何よりも私を素直にさせるのは、その人の落ち着いた声音と、大きな手と絶対的な安心感を抱かせてくれる彼の持つ独特な雰囲気だった。


「泣いても良いんですよ、萌さん。」


「・・・っ、」


「泣いても良いんですよ。僕の前だけなら。」



 ――だから、そんなに唇を噛み締めないで下さい。




 と、言われ、顔をあげるように促された時には、私は神崎課長と唇を何度も重ねあい、泣き止んだ時には若干の服の乱れがあって、私はまた激しく自己嫌悪に陥ってしまったのよ。



 ふふふ、私ったらなんてオマヌケさん。

 神様、お願いです。

 一生に一度の、正真正銘のお願いです。


 どうかこの破廉恥な記憶をいますぐ、私の中から欠片も残さず、完全消去して下さい!!





 

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