漫画の取材と称して跨ってくる先輩と呆れながら受け入れる後輩の百合
「『おぉん……いぐ――』……なんか違うな。『イグゥッ!』――これも違う。やっぱね、エロ漫画の喘ぎ方っていうのは汚ければ汚いほどエロいんだよね。じゃあ汚さって何なのさ? 性行為の最中に唐突に『うんこ!』って叫ぶのはとても不衛生的だけど、そうじゃない。だからね、本質は『汚さ』じゃなくて『生物の本能的な姿』にあると思うんだ。つまり、」
ある夏の部室のテーブルで、板タブでノートパソコンに漫画を描いていた女がペンを掲げる。
身長百五十前後の小柄で華奢な三年生の女子生徒は、一つ結びにした茶髪を揺らしながら不遜な顔を液晶に向け、見得を切るようにペン先を突き付けて言った。
「――『オに濁点』。あたしゃコイツ一本で生計を立ててきたんでさぁ!」
そして、隣で漫画を読んでいた編み込んだ赤髪セミロングの二年生女子が呆れた顔をする。
「あの、先輩。お願いなんでもう少し静かに作業できませんか?」
パタンと閉じられる漫画。
すると、プクリと膨れ上がる小柄な三年生――鈴村里穂の幼い頬。
「――少しくらい許してよ! 言葉にすることで思考が整理されていくこともあるんだよ! もう少しで印刷所の締め切りなの! 間に合わないの!」
目を瞑ってヤケクソ気味に叫んだ理穂に、二年生女子、八雲日名子は閉じた漫画の背表紙を片手にポンと叩いて、端整な顔を歪めながら嘆息と共に中背から小柄な理穂を見下ろす。
「高校の部室で執筆中のエロ同人誌の喘ぎ声を音読するのは『少し』の次元と常軌を逸してるんですよ。つーか、何度も言いますけど、未成年の成人向け同人誌販売は違法ですよ」
すると理穂は可愛らしい顔を生意気に歪め、目を細めてピロピロと指を揺らす。
「別に私は売ってませーん! 私が描いたものを成人の姉が盗んで売ってるだけでーす!」
「じゃあなんで同人誌即売会の後は羽振りがいいんですか」
「そりゃね、漫画を盗まれたから代わりに利益を盗み返してるんだよ」
「でもさっき『印刷所の締め切りが』って言ったじゃないですか」
「言ってないよ? いつ言った? 何時何分地球が何回回った時ですかー!」
「……何かの間違いで先輩の頭に隕石降ってきませんかね」
日名子が先輩相手に臆さず、慣れた舌捌きで口論をしていると、
「お疲れ様です、また喧嘩してるんですか?」
「いつもの軽い小突き合いでしょ。お疲れ」
言いながら、馬鹿みたいな名称の『超漫画部』の残り二名の部員が引き戸を開けた。
「うっす、今日は遅かったね!」「お疲れ様です。喧嘩ですよ、喧嘩」
日名子より一回り高い背の女子が理穂と同じ三年生。副部長の鐘ヶ江有栖。ややウェーブを帯びた金髪は地毛だそうだ。そして、その隣で理穂と大差ない身長なのに一回りだけ大きく見えるくらい背筋をピンと伸ばす黒髪シニヨンの女子生徒は、唯一の一年生である鏡原宇都璃。
『超漫画部』。それは事実上の漫画読書会であった『漫画研究会』に嫌気が差した理穂が発足した、漫画を描く部活。初回の文化祭で理穂が出した漫画がSNS上で大ヒットした結果、校内でも一躍有名になったグループだ。クオリティを問わず漫画三十ページ以上を持ってくることが入部条件となっていて、日名子以外の面々はそれを突破して入部し、各々の漫画を描きながらも知見を交換して、切磋琢磨をし合っているという構図だ。
早速、有栖と宇都璃も各々のスタイルで原稿作成に取り掛かっている。
「しかしアンタ、見たところ凄いペースで描いてるわね。締め切りヤバいの?」
クルリと回った有栖のシャーペンの先端が理穂を向いて静止。
「近々、大規模な同人誌即売会があるんですよ。ね?」
いち早く反応した同士の宇都璃に、里穂は満面の笑みでサムズアップ。
「そ! これでもフォロワー十五万人ですから、楽しみにしてる人が沢山いるのですよ! 君達も、私が発足した『超漫画部』の一員なら、もう少し精力的に漫画を描くのだぞ!」
部長として偉そうに二人へマウントを取る理穂に、日名子は頬杖を突いて小言を挟む。
「偉そうに言ってますけど鈴村先輩。二人は商業誌経験のあるガチプロですよ」。
理穂は容赦なく突き付けられた現実に打ちひしがれ、梅干しのような顔で下唇を噛んだ。
「ぐぅぅ……! 憎い、運と才能で作り上げられた世界と戦争が憎い……!」
「そこ並列になるのって殺人とか外患誘致だと思ってました」
「わ、私の商業経験は小説の方ですから。漫画では先輩と同じくアマチュアです」
ぼんやり頬杖を突く日名子に代わって、宇都璃が励ますように手を胸元で合わせた。
追従するのは、おどけた笑みで肩眉を上げる有栖。
「私も今はスランプでサボってるし、真面目に描き続けてるアンタのが偉いわよ」
ピクピクと肩を動かした理穂は、バッと噛んでいた下唇を離して笑みを浮かべた。
「だってさ! 私は偉いんだって! ねえねえ、聞いた⁉」
言いながら日名子に二人を指し示す理穂。
やれやれ。日名子は頬杖を突きながら素直に認めることにした。
「まあ、コンスタントに一日一ページ以上を仕上げてるのは素直に凄いと思います」
すると、ニマとだらしなく頬を緩めた里穂はウキウキで腰を左右に振る。
「えー、何さ、急にみんなして。今日私の誕生日じゃないよぉ?」
「あ、違いましたっけ?」
「やめてよ⁉ マジでお世辞だった感じが出るじゃん! 誤魔化されませんからね、私は凄い漫画家なのです! むふー!」
すっかり上機嫌になった理穂は、元気百倍と言いたげな勢いで原稿に着手した。
三十分後、里穂は机に頬を置きながら呻き声を上げてペンをガリガリと滑らせていた。
「わがんにゃい……エッチな構図がわがんにゃい……にゃい、にゃい、にゃい」
呻き声を上げながら性的な絵を描こうとする未成年の姿を痛ましそうに眺める三者。
この部で唯一自分の作品を手掛けていない日名子がディスプレイを見てやる。
「どれ、うわ……ネームクソ雑ですね。『エロい絵』って。小学生の検索履歴ですか?」
思わずツッコミを入れる日名子。しかし反応しない理穂。
しばらくボーっと原稿を眺めていたかと思うと、不意に彼女はペンを優しく置く。
「資料が――必要です。脳に刺激が欲しいのです」
そして理穂は下唇を噛んで顔を上げると、
「誰か……! エロ漫画の作画資料になってくれませんか……!」
息も絶え絶えに砂漠でオアシスを求めるかの如く、切実な願いを絞り出した。
「何言ってるんですか、アンタは……!」
「まあ実物の刺激がインスピレーションをくれるのは否定しないけどさ」
思わず唖然とする日名子と、気持ちだけは理解できるから苦笑する有栖。
「もう私、エロが分からなくなっちゃって……無知の知……ムチムチ……?」
「駄目だ、もう手遅れかもしれない!」
「これはもう末期ね。悪いけど私は匙を投げるわ」
言葉尻で急に虚空を見てムチムチな女を幻想する理穂に、日名子と有栖は頭を抱える。
その傍ら、ひょいと宇都璃が手を挙げた。
「そういうことなら、私でよければ一肌脱ぎましょうか?」
「えっ」「お」
驚く二人をよそに、里穂は弾かれたように満開に咲かせた笑みを向けた。
「いいの⁉」
宇都璃は穏やかな微笑みでブラウスの胸元に手を当てる。
「はい、構いませんよ。資料になるかも怪しい貧相な矮躯ですが」
そう言って少しだけ頬を紅潮させる宇都璃に、流石の日名子も制止を図る。
「い、いやいや。宇都璃ちゃん、正気?」
しかし宇都璃は、突拍子もないアイデアだと承知の上らしい。苦笑して頷く。
「私も普段、困っている時に正気の先輩からアドバイスを頂いてますから」
「やー! 困った時は頼れる後輩だ! どこかの生意気な二年生とは違うね!」
言いながら理穂が肘で脇腹を突いてくるので、日名子は忌々しく目を細めて舌打ち。
すると有栖が、頬杖を突きながら全てを見透かした目で嫌な笑みを見せる。
「だってさ、日名子。可愛い後輩が悪い先輩にエッチな姿を見せちゃうらしいけど?」
なぜ日名子にそんな話をするのか。首を傾げる二人。
日名子だけは腹の底から出てきた膿を嘆息で捨て、胡乱な半眼で有栖を睨む。
「……ホントに、悪い人ですね」
すると、肩を竦める有栖に代わって理穂が怪訝そうに訊いてくる。
「何の話?」
日名子は口を押さえて返答を考えてから数秒後、目を瞑ってこう言った。
「……可愛い後輩にそんな真似をさせる訳にはいかないって話ですよ。私がやります」
変な汗を浮かべた里穂が「どうぞ」と日名子を自室に招いた。
母子家庭の母親は、出張で明後日まで帰ってこないそうだ。
部屋に上がった日名子は鞄をその辺りに置くと、何となくぎこちない様子の理穂に不器用に促されるまま、ベッドの上に座って――平然と部屋を見回す。
「何だかんだ、先輩の部屋は初めて来ましたね」
言いながら平静を保ってベッドに仰向けになる日名子。自分より一回り大きい後輩が制服姿で自分のベッドに寝転ぶ姿を、里穂はどこか憎そうに見ながら膝をマットレスに乗せる。
「まあ、君が入部してからまだ三か月だしね、と……じゃあ、の、乗るね?」
「どうぞ」
エロ漫画の資料集め――それは体位を描く際の作画資料でありつつ、より性的な絵を模索するための閃きを求めた取材行為でもある。最初に選んだのは騎乗位だ。
理穂は恐る恐る、生唾を呑み込みながら日名子の下腹部に跨った。
「本当に今更だけど、なんかその、とても不健全なことをしている気がする……!」
しかし、発案者である理穂がこの期に及んでそう言ったので、流石に頬を引き攣らせた。
「何を今さら……! 部室でエロ漫画を描いて即売会に脱法販売してる人が!」
「だってぇ……なんかもう全然わからなくてぇ……! 閃きが欲しくてぇ……!」
本当に原稿に行き詰っているのだろう。里穂は恥も外聞もない情けない顔で頭をぶんぶんと振って、反動で腰の上の彼女が揺れてベッドが軋んだ。はぁ、と溜息。
「まあ、一部の様子がおかしい漫画家に振り回されるのには慣れてますから」
「な、慣れてるんだ」
意外そうな理穂に、日名子は頬を歪めながら半眼を虚空に向けた。
「本当に駄目なことは止めますし、彼女も私も本気で嫌なことはしません。確かに何度か苦言は呈しましたけど、まあ……本当に必要なら手伝いますよ。漫画の為でしょ?」
少し呆けた顔で一拍を置いた後、里穂は唇に微かな笑みを浮かべた。
「うん」
「なら、手伝います。先輩の漫画は好きですからね」
「『は』って何! 『は』って! まるで愛しき先輩のことは好きじゃないみたいじゃん!」
「ほら、いいから早く資料を揃えましょ。何すればいいですか?」
日名子が尋ねると、罪悪感を払拭した里穂はやる気に眉尻を上げてスマホを取り出す。
「えっと、取り敢えず――騎乗位の感想を聞きたいんだけど」
言いながら、まるでうさぎのように日名子の腰の上で身体を上下させた。
スカートの上で理穂の臀部が何度も跳ね、衣擦れとベッドの軋む音が響く。
何とも言えない光景に日名子は絶妙な顔で数秒ほど黙って、辛うじて感想を口にする。
「想定していた十倍くらいマットレスが沈みますね」
「私が重いって言いたいの⁉」
「そうですね、私がニュートンなら万有引力に気付いてたくらいには重みを感じます。って冗談はさておき、まあ、中々眺めは良いですよ」
すると、作画資料用にスマホで自撮りを繰り返していた理穂が、『撮って』と言いたげにスマホを日名子へと渡して得意げに言う。
「うーん、眺めもそうだけど、やっぱり騎乗位はアレだよね。なんというか、女性主体だからさ。ある種、その行為には『女性側の性欲』が描写されるというか――そこがエロい気がする!」
一転して真剣な顔で『エロ』に向き合う理穂に合わせて、日名子は壁打ち役になる。
「……『感情の表出』ってことですかね?」
「流石アシスタント! そうそう、そんな感じのイメージ!」
ふと、里穂は日名子の腰の上で懐かしそうに目を細め、お腹に手を置いて笑う。
「そういえば、二人で何かをするのは久々だ。覚えてる? 入部した時の」
即座に記憶がフラッシュバック。日名子は思わず吹き出して目を瞑った。
「覚えてますよ。忘れません――元々は宇都璃ちゃんの入部原稿のアシスタントだったつもりが、即売会と新人賞の原稿を一カ月半で完成させようとしていた馬鹿に出会って」
「ば、馬鹿とは失礼な! ――と、否定することもできないのだ!」
「まあ、馬鹿は馬鹿でも漫画馬鹿ですから。私は嫌いじゃありませんけどね」
遠慮なくそう言った後、日名子はそのまま少しだけ記憶を遡り、
「あの時……」
そう言って、何かを思い直したように口を噤む。
その様子に理穂が首を傾げ、編み下ろしの茶髪が揺れた。
「ん? あの時、どしたの?」
「いえ、何でもないです。それで、次は?」
日名子が撮影用スマホを返すと、それを受け取った理穂はスマホをおとがいに当てる。
「……うーむ、正常位! 日名子が入れる側!」
言うや否や、里穂がスマホを構えながらシングルベッドで日名子を押し退けるように横に。「こ、こう――ですかね?」と日名子は身体を起こし、里穂の足の間に入る。
「でさ? ここでこう、足で掴む! だいしゅきホールド!」
そして理穂の足が日名子の腰に回され、日名子は軽い咳払いをする。
「あー、言われてみればこれも『女性側の性欲』感があってエッチですね」
「やっぱそうだよね⁉ うーん、やっぱり実際にやってみると色々と新発見があるなぁ。インスピレーションが湧いてくる! ね、ね! 腰動かして!」
恐らく、完全に知的好奇心に基づく無邪気さだろう。
里穂は目を輝かせながら日名子の身体を足で抱き寄せ、日名子は流石に半眼を返す。
「あの、これはマジで宇都璃ちゃんに頼んじゃ駄目ですよ。私と有栖さんなら構いませんが…………じゃあ、動きますよ」
「どうぞ!」と理穂がスマホを構えるので、日名子は枕に両手を突いて腰を前後する。
衣擦れの音。軋むベッド。ギシ、ギシという音に合わせてお互いの身体が前後する。
スカートが擦れるに合わせて柔軟剤の香りが立ち上がり、里穂の目が好奇に輝く。
「おー……ゆ、揺れるね! 確かに。思ったよりも揺れる。それとやっぱり騎乗位よりも女性側が随分と楽だね! あと、身長差次第ではキスできる体位なのもグッドだね。『正常』の名を冠するのは伊達じゃないよ。でもさ、行為をするのに最適化された体位と……そ、それを、それを……? あの、だ、第三者視点から表現するにおいて興奮できる体位は別物なんだよね。うん。だからね、えっと、エロ漫画だと――うんと、正常位はあんまり……あの、」
爛々と光る眼でスマホにメモを取っていた理穂だったが、段々とその口が萎んでいく。
徐々に徐々に、頬を紅潮させながら顔を背けるようにした理穂は、恐る恐る、横目で日名子の様子を窺う。息を荒くさせながら、一生懸命に腰を振る後輩の獣のような姿を。
「あの、こ、興奮してるの……?」
その言葉が出た瞬間、日名子が理穂に覆いかぶさる。身を強張らせる理穂。次の瞬間、
「お、お尻が痛い……」
そんな悲痛な日名子の呻きに、里穂はあんぐりと口を開けた。
「背中から――は、ハムストリングスにかけての筋肉が痛い……!」
「あ、意外と大変なんだね⁉ 大丈夫⁉」
理穂に覆いかぶさりながら息を乱して自分の尻を撫でる日名子を、流石に心配する。
「すみませんね、可愛げのない後輩なりに、やるべきことはやりたかったんですが……いてて。アレですね、アダルトビデオの男優は筋トレしてますよ、絶対に」
宇都璃を押し退けて立候補した以上はしっかり取材に付き合いたかったのだが。
そう思って詫びる日名子を、里穂は横目に見ながら口を噤んでいた。
「……先輩?」
相槌を打ってくれない理穂を横目に見る。
視線が合った理穂は、聞こえなかったフリをして首を傾げた。
「うん? どうしたの?」
「――本当に泊まって大丈夫ですか?」
「うん! ママには確認取ったし、今日は流石に私の都合だから――条件は、私が冷蔵庫の中から好きなものを食べても、ママに密告しないこと!」
「いやそれは駄目でしょ」
気付けば時刻は十八時。天気予報より少しだけ早めに雨が降った。
傘を借りるか止むのを待つかと悩んでいる内に雨が強くなったので、明日は休日ということもあり、成り行きで日名子は理穂の家に泊まることにした。
日名子が経緯を家族に連絡していると、里穂は気付けばノートパソコンを開いて漫画を描き始めていた。板タブレットでサラサラと、部室の頃より少し淀みなく。
「――泊めてもらうお礼に、アシでもやりましょうか? パソコン余ってるでしょ」
瞬間、里穂の上半身がグリンとこちらを向いた。
「その言葉を待っていた! 用意してあります!」
「だったら最初から言ってくださいよ。まったく」
可笑しくて頬を綻ばせた日名子がローテーブルに着くと、いそいそと不慣れな手付きで理穂がセットアップをする。「えっとね、うんとね、ちょっと込み入った部分の背景と、序盤のモブ。後は全体の仕上げ作業をお願いしますぅ」と、クラウドデータを見せられた。
「……これ、一ページ目から仕上げ手つかずですけど」
「ソウダネ」
「最初から私にやらせるつもりでしたね?」
「チガウヨ」
やれやれと苦笑しつつ、日名子は用意されたペンタブで仕上げ作業を始めた。
取り敢えず背景から。デジタルツールでパースを取った後、不慣れな設定のペンを自分好みにカスタマイズしながら指示通りの背景を描いていく。
「これ背景、ラフ時点で一度見せますね」
「えー、いいよ。信頼してるから。そのままペン入れて」
「駄目に決まってるじゃないですか」
なんてやり取りをしていると、思い出すのは入部した時のことだ。
同じことを思い出したのか、作業デスクで理穂が頬を緩めて視線を向けず言う。
「ねえ、覚えてる? 初めて会った時のこと」
「それ、さっきも話したじゃないですか。覚えてますよ。入部した時の」
苦笑しながら返すと、一拍の沈黙。
怪訝に思って日名子が首を傾げると、里穂は微笑を浮かべていた。
「そっかそっか」
「大丈夫ですかね、あの二人」
理穂と日名子が少し早めに部室を出てから数分後まで遡る。
ふと手を止めた宇都璃が、有栖だけが残る部室でそう呟いた。
十分ほどペンを回し続けていた有栖は、ふっと笑うと「そうねえ」と視線を虚空へ。
「まあ、喧嘩ばかりだものね」
「仲が良いのか悪いのか……うーん、私が行くべきだったでしょうか」
「いや、何だかんだ、二人とも漫画馬鹿だから。漫画のことなら真面目よ」
「そうですか」と目を丸くする宇都璃へ、「それに」と日名子の秘密を知る有栖は笑う。
「まあ――うん、とにかく大丈夫。大丈夫ったら大丈夫」
根拠が薄弱な先輩の妄言を宇都璃は胡乱な目で見るが、有栖は胡散臭い素振りで返す。
「打ち切りまで一万ページある漫画の、序盤みたいなものだから」
全く荒唐無稽な言い回しに、元商業作家の宇都璃は眉を潜めて唇を尖らせた。
「お風呂、上がりました」
時間と場所は戻って理穂の私室。二十二時。
作業が一段落した日名子がシャワーを浴び終え、里穂の部屋着を借りて戻ると、作業デスクで理穂が突っ伏し、寝息を立てていた。
日名子は足音を殺して歩み寄ると、脅かさない程度の声量で囁く。
「先輩、身体に悪いですよ」
起きる気配は無いので、腰に手を置いて苦笑。そして、ベッドの毛布を剥ぐ。
それから椅子を引いてどうにか理穂を抱きかかえると、そのまま寝かせて毛布をかけた。
穏やかに眠る漫画馬鹿の顔をジッと見詰めた日名子は、照明を常夜灯に変える。
――漫画家の姉を手伝って、小学生の頃からアシスタントをしていた。姉に限らず、色々な縁でプロ漫画家の手伝いをすることもあった。次第に、芽生えてくる感情があった。
それは、漫画家の描く漫画と同じくらい。
自分の人生を原稿に注ぐ漫画家の人生が面白い。という感情。
そして、そんな風に他人の人生を娯楽として消費する自分の気質が嫌いで、日名子は次第にアシスタント業務からも離れていった。ところが、かつての縁で知り合った宇都璃からアシスタント業務を頼まれ、最後の一回だと『超漫画部』への入部を手伝った時。
初めて出会った鈴村里穂に、うっかり自己嫌悪を吐露してしまった。そして、
「――いや、漫画描いてる側からすると、マジでどうでもいいよ。それより、あの、お願いなので私の原稿を手伝ってくれませんか? ジュース奢るから!」
まあ何とも、身勝手で馬鹿馬鹿しい返答で。全くこちらを気遣ってはいなかった。
しかし、だからこそ純然たる事実が自己嫌悪を払拭し、ペンを握る手から余計な力が抜けてくれた。そして、彼女の原稿を手伝い終えた時、帰り道で彼女は言った。
「へー、漫画家を眺めるのも好きなんだ。じゃあ、アシ代の利子はそれで!」
春先。温かいペットボトルを差し出しながら理穂は笑顔で言った。
「『私という漫画家を特等席で眺める権利』」
毎日一ページ以上は描き続けて、新人賞に応募して。
承認欲求や小銭稼ぎでエロ漫画を描いて一喜一憂して。でも筆は折らなくて。
傍から見たら迷走に見えるような足取りで漫画に向かい続ける。漫画を描き続ける。
――まるで愛しき先輩のことは好きじゃないみたいじゃん。
貴女はそんな風に言っていたけれども、そんな貴女が――
翌朝。目が覚めた里穂がのそのそとベッドから出ようとすると、ベッド下に死体が!
嘘だ。日名子だった。驚きに理穂はベッドで跳ね、心臓をバクバクと弾けさせる。
そして、昨夜の記憶が曖昧なことに気付き――或いは日名子が自分をベッドまで運んでくれたのだろうかと気付く。少し申し訳なくて、凄く嬉しい。
そっとベッドを下りた里穂は、尿意を我慢しながら日名子の身体の下に手を入れる。そして、全力で力を入れてどうにか持ち上げると、落とさないよう唇を噛んでベッドに寝かす。
ふう。やりきってやったぜ。満足げに理穂は日名子の寝顔を眺めた。
ふと、昨晩の会話を理穂は思い出す。
どうやら、彼女は覚えていないらしかった。
――理穂と日名子の初対面は、実は中学時代だ。
それを思い出したのは、彼女の入部後。
自分の夢を応援して、作業を手伝ってくれる。少し生意気で、でも優しいそんな後輩を眺めていたところ、その顔が記憶のどこかに引っ掛かったのだ。
そして、思い出したのは中学三年。
漫画は小学生の頃から描いていたが、一度、嫌になって目を背けそうになった時があった。
「オタクじゃーん! あれでしょ? 知ってるよ、漫画の主人公とライバルがセックスするような漫画を描くんでしょ、フジョシだっけ?」
と、後ろ指をさされるくらい漫画を描き続けていたのが、当時の理穂だった。
今よりもずっと暗くて、猫背で。卵が先か、鶏が先か。内向的だからからかわれていたのか、からかわれて内向的になったのかは定かではないが、地味で卑屈で陰鬱だった。
ある日、図書室にノートを忘れた。漫画のネームを描いていたノートだ。
広げっぱなしだった気もする。真っ青になって放課後に家から全力疾走をすると、後輩の図書委員が大事に保管してくれていた。恐る恐る、内容を見たか尋ねると、
「――本気で描いてるんですね。閉じる前の一瞬で分かりました」
と、まるで漫画をよく知っているかのように、優しい笑みで、
「迷惑だったらごめんなさい。応援しています」
そう言ってくれた、親以外の初めての理解者であり味方の女子生徒。
彼女は全く覚えていないだろうし、彼女にとってはきっと日常の一幕に過ぎないだろう。けれども、その出来事が無ければ、今ほど愚直に漫画と向き合えていなかったかもしれないし、やはり年頃の乙女としては、そんな相手と高校の部活で再会したのは運命的にも思えて。
つまり、何が言いたいかというと。
――すみませんね、可愛げのない後輩なりに、やるべきことはやりたかったんですが。
なんて君は言っていたけれども。漫画に向き合わせてくれた君が――
「好きです」
「好きだよ」
八雲日名子は――鈴村里穂は、眠るお互いの顔にそう囁いていた。
大抵の恋愛漫画は、完結の目前になると焦ったように展開が進む。だが、今はまだ、臆病な先輩は関係を変えるつもりは無いし、そんな先輩の漫画を描く姿が好きな後輩は、その夢の邪魔をしたくないから、その生活に自分という存在が入ってほしくない。
悠長に、二人は打ち切りまで一万ページある恋愛漫画のような、そんな恋愛をしていた。
さて、こっそりとリビングに戻って、冷蔵庫から朝食前の間食を持ってきて。今日も今日とて必死に原稿を描き始めた漫画家は、少し遅れて目を覚ました後輩に笑う。
「おはよ。原稿確認したよ。ちょっと仕上げの進みが遅いかな?」
日名子は目頭を揉みながら苦笑し、朝一番に意中の相手の顔を拝める僥倖を噛み締めた。
「……今回はアシ代払ってるからって、偉そうに」




