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異世界恋愛短編集

その婚約、私の仕事ではありません

作者: 百鬼清風
掲載日:2025/12/20

 私はノエラ・ヴァンリック子爵令嬢、婚約者ルシアンの“実務補佐”として両家の取り決めで王宮案件の帳尻まで任されている。

 名目は婚約者でも、実態は王宮に登録されたグレイス家の外部嘱託(実務補佐)として、通行証と守秘誓約のもと執務棟で書類処理まで任されている。


 まず最初に言っておく。

 私は仕事が嫌いじゃない。

 むしろ好きなほうだ。数字が合う瞬間とか、書類の山が一気に片付く感覚とか、交渉がきれいに着地したときの静かな達成感とか、そういうの、わりと本気で楽しいと思ってる。


 でもね。

 他人の尻拭いは、仕事じゃない。


 これは愚痴じゃない。

 事実確認だ。


 私はノエラ・ヴァンリック。子爵家の令嬢で、そして――どういうわけか――伯爵家嫡男である婚約者の「補佐役」を務めている。

 補佐役、って言葉がもう怪しいでしょう?

 聞こえはいいけど、実態は便利屋。しかも無償。しかも感謝されない。


 今、私は朝から三通目の謝罪文を書いている。

 誰の謝罪文かって?

 婚約者の、よ。


 ◇


 事の発端は、昨日の昼。

 婚約者――ルシアン・ド・グレイス伯爵令息が、王宮の小規模な会合で余計なことを口走った。

 余計、なんて生やさしいものじゃない。条約の解釈を間違えた上に、「まあ細かいところは後で調整すればいいでしょう」とか言ったのだ。


 ……誰が調整すると思ってるの?


 私はその場にいなかった。

 なぜなら、彼は「女性が同席する場ではない」と判断したから。


 形式を重んじた結果、だそうだ。


 結果として、形式を守った代償を払うのは、いつも私だ。


 その日の夕方、屋敷に戻るなり、彼は私の部屋に来た。

 ノックは一応したけど、返事を待たずに入ってくるあたり、もう慣れきっている。


「ノエラ、ちょっといい?」


 この「ちょっと」が、ちっとも「ちょっと」で終わった試しがない。


「今、帳簿を整理してるの。用件は?」


 そう答えたのは、感情を抑えるため。

 最初から不機嫌だと、話が長引くから。


「例の件なんだけど……」


 来た。

 私はペンを置いた。

 片手間で聞くと、後で倍の修正が発生するから。


「どの例の件?」


 わざと聞き返す。

 彼に、説明させるためだ。


「その……会合での発言が、少し問題になっていて……」


「少し?」


 声が上ずった。

 自覚はある。

 でも止めない。

 ここで感情を殺すと、事の重大さが伝わらない。


「条約条項の読み違いは“少し”じゃないわ。

 しかも“後で調整”って言ったそうね。誰がやるの?」


 彼は、ほんの一瞬だけ視線を逸らした。

 その一瞬で、全部分かった。


「……君なら、うまくまとめられると思って」


 はい、出た。


 私は深く息を吸った。

 怒鳴らないためじゃない。

 怒りを言葉に変換するためだ。


「それ、私の仕事?」


 彼はきょとんとした顔をした。

 本気で分かっていない。


「婚約者なんだから、支え合うのは当然だろう?」


 この瞬間、胸の奥で何かが音を立ててずれた。


 ◇


 当然。

 この言葉ほど、便利で、残酷なものはない。


 私はその夜、遅くまで起きていた。


 彼の発言をなかったことにするための調整案を作る必要があったから。


 関係各所への説明文。

 解釈の再整理。

 責任の所在を曖昧にしつつ、火だけは消す文章。


 完璧に仕上げた。

 だからこそ、虚しかった。


 翌朝、彼は上機嫌だった。


「助かったよ、ノエラ。やっぱり君は優秀だ」


 私は、笑わなかった。

 褒められているのに、評価されていないと気づいたから。


 優秀。

 便利。

 それだけ。


 その後の会合で、誰が評価されたと思う?


 ――ルシアンだ。


「グレイス卿は調整力に長けている」

「周囲をよく見ている」


 私はその場に立っていた。

 でも、名前は一度も呼ばれなかった。


 胸が、じわじわと熱くなる。

 怒りとも、悲しみとも違う。

 これは、理解してしまった感覚だ。


 私は、婚約者ではない。

 処理係だ。


 ◇


 屋敷に戻る馬車の中、私は一人で喋り続けていた。

 昔からそうだ。黙ると、考えが煮詰まる。


「おかしいでしょう。

 やったのは私。

 でも評価されるのは彼」


 声に出すことで、輪郭がはっきりする。


「しかも、無償。感謝は口先だけ。責任は私」


 ここで、はっきり理解した。


 私は今、

 婚約という名目で、職能を無断使用されている。


 この構図に気づいた瞬間、

 胸の奥が、すっと冷えた。


 怒りより先に、理屈が立った。

 これは感情論じゃない。

 役割の誤配だ。


 私は屋敷に着くと、まっすぐ自室に向かった。

 今すぐ、書き出したかったから。


 「私がやっていること」

 「本来、誰の責任か」

 「婚約者であることと、業務の線引き」


 書き出せば書き出すほど、明確になる。


 ――この婚約、私の仕事じゃない。


 私はペンを置き、天井を見上げた。


「……遅すぎたくらいね」


 でも、気づいたなら、やることは一つ。


 次に何をするか、もう、決めていた。



 結論から言うと、その日の私は、だいぶ我慢していた。

 自分でも分かるくらい、我慢していた。

 なぜなら、朝から胸の奥がずっとざわざわしていたのに、まだ決定打が足りなかったからだ。


 感情だけで切るのは簡単。

 でも、それをやると「感情的な女」で終わる。

 私は、それが嫌だった。


 だから私は、その日もいつも通り、彼の“補佐役”をやった。

 現状を正確に把握するため。

 壊すなら、構造を理解してからだ。



 王宮の執務棟は、朝から人が多い。

 書類を抱えた官吏、急ぎ足の使者、低い声で相談する貴族たち。

 私はその中を、慣れた足取りで歩いた。


 慣れているのが問題だ、って?

 ええ、分かってる。

 でも慣れっていうのは、便利で危険なの。


 私は、ルシアンの三歩後ろを歩いていた。

 なぜ三歩か。

 一歩後ろだと秘書扱いされる。

 五歩後ろだと、存在を忘れられる。

 三歩は、口を挟める距離で、かつ前に出すぎない位置。


 こんな距離感を、婚約者との間で計算している時点で、おかしいんだけど。


「今日は財務局との確認が中心だ」


 彼が言う。

 私は頷いた。

 ここで訂正すると「細かい女」になるから。


 実際は、確認じゃ済まない。

 昨日の調整案を、正式に通す場だ。



 会議室に入ると、視線が集まった。

 それはルシアンに向けられたもの。

 私は、いつも通り、背景になる。


 議事が進む。

 質問が飛ぶ。

 彼が詰まる。


「その点については……」


 彼の視線が、横に流れる。

 私を見る。


 私は小さく頷いた。

 ここで助けないと、被害が拡大する。


「先日の整理案では――」


 私が口を開いた瞬間、空気が変わった。

 官吏たちの目が、私に向く。

 理解した顔。

 納得の表情。


 説明は、すぐ終わった。

 数字も理屈も、揃っている。


「なるほど」


「では、その方向で」


 決まる。

 早い。

 あまりにも。


 胸の奥が、少しだけ痛んだ。

 私がいなければ、最初からこうはならなかったと分かっているから。



 会議後、廊下で声をかけられた。


「グレイス卿、素晴らしい調整でしたね」


 官吏の一人が、ルシアンに言う。


「いえ、周囲のおかげです」


 彼は、そう答えた。

 名前は出ない。

 私の。


 私は、その場で何も言わなかった。

 今ここで訂正しても、“奥方気取り”になるだけだから。


 でも、胸のざわつきは消えなかった。


 歩きながら、私は考える。

 この評価の流れ、いつから?


 答えはすぐ出た。

 最初からだ。



 昼休憩。

 私は中庭の端で、一人腰を下ろした。

 喋らないと、思考が堂々巡りになる。


「おかしいでしょう……」


 誰に聞かせるでもなく、声に出す。


「説明したのは私。

 判断を下したのも私。

 でも評価は彼」


 感情が、言葉になると整理される。


「これ、婚約者だから許されてるだけよね」


 許されている、というより、見逃されている。

 “内助の功”という言葉で。


 その時、聞き覚えのある声がした。


「……君がまとめた資料、非常に分かりやすかった」


 振り向くと、見知らぬ男が立っていた。

 落ち着いた灰色の髪。

 無駄のない立ち姿。


 誰か、すぐ分かった。

 理由は、役職章だ。


 アーヴェル・クロイツ。

 王宮実務系の責任者。



「ありがとうございます」


 私は即答した。

 評価には、即座に応じるべきだから。


「あなたの判断ですか?」


 彼は、淡々と聞いた。

 探るようでも、責めるようでもない。


 私は一瞬、迷った。

 なぜなら、ここで正直に答えると、構図が露わになる。


 でも――

 私は、正直を選んだ。


「はい。私が整理しました」


 ここで濁すと、また名前が消える。


 彼は、わずかに目を細めた。


「では、次回からはあなたに直接確認を」


 その一言で、胸の奥が、すとんと落ちた。


 初めてだ。

 名前で呼ばれたわけでもないのに、“個人”として認識された。



 その日の帰り道、私は考え続けていた。

 なぜ、あの一言が、こんなにも効いたのか。


 答えは簡単だ。


 私は今まで、

 評価されている“体”の中で、評価されていなかった。


 役割は押し付けられ、成果は回収され、名前だけが残らない。


 それに、やっと気づいた。


 馬車の中で、私は呟いた。


「……これ以上、続けたら」


 続きを言わなくても、分かる。


 私は壊れるか、

 便利なまま、年を取る。


 どちらも、嫌だ。


 だから私は、決めた。


 次に押し付けられた時、断る。


 理由は、もう十分だ。



 その日は、朝から嫌な予感がしていた。

 こういう予感、私は外したことがない。

 なぜなら、嫌な出来事って、だいたい「いつもと同じ顔」でやってくるからだ。


 朝食の席で、ルシアンはやけに機嫌がよかった。

 それがまず不穏。


「今日は大事な決裁があるんだ」


 胸を張って言う。

 私はパンをちぎる手を止めた。

 大事な決裁=面倒な後始末、この等式が私の中で完成しているから。


「どんな内容?」


 聞いたのは、興味があったからじゃない。

 地雷の位置を把握するためだ。


「細かいことは大丈夫だよ。

 もう話は通してある」


 ……はい、赤信号。


 細かいこと、が大丈夫だった試しがない。

 しかも「話は通してある」という言い方。

 誰に?

 どこまで?

 どの権限で?


 私は黙って頷いた。

 ここで突っ込むと「心配性」扱いされるから。

 そしてその役は、もう十分やった。



 昼前、使者が来た。

 王宮から。

 顔色が悪い。


「ノエラ様……至急、ご同行を」


 私は即座に立ち上がった。

 なぜか。

 この手の使者は、問題が“もう起きた後”に来るから。


 馬車の中、私は状況を整理する。

 ルシアンの決裁。

 話は通してある。

 細かいことは大丈夫。


 ――絶対に大丈夫じゃない。



 王宮の会議室は、重苦しかった。

 扉を開けた瞬間、空気で分かる。

 怒りと苛立ちと、「誰がやった」の混ざった匂い。


 中央に立っていたのは、ルシアン。

 顔色が悪い。

 私を見て、ほっとしたのが分かった。


 その瞬間、胸の奥で何かがひっかかった。


 ……ああ。

 また、そういう目。


 助けに来た、って顔だ。


「説明してもらおうか」


 低い声が響く。

 私は視線を上げた。


 アーヴェル・クロイツ。

 彼が、そこにいた。


 理由は分かる。

 この件、実務系の管轄を直撃している。



 ルシアンが、しどろもどろに話し始める。

 契約条件。

 期限。

 権限。


 ……穴だらけ。


 私は、自然と一歩前に出かけて、止まった。

 今ここで口を出すと、“また私が処理した”事実が積み上がるから。


「……それで?」


 アーヴェルが淡々と促す。


 ルシアンの視線が、こちらに向いた。

 助けを求める目。


 ここで助けるのは、簡単だ。

 いつも通り、私が整理して、丸く収める。


 でも――

 私は、その一歩を踏み出さなかった。


「ノエラ?」


 彼が小さく呼ぶ。

 その呼び方が、決定打だった。


 私は、ゆっくり息を吸った。

 感情が込み上げてくる。

 でも、言葉は冷静だ。


「確認します」


 そう前置きしたのは、

 感情的な拒否ではなく、業務上の線引きだと示すため。


「この決裁、私に正式な権限はありますか?」


 室内が静まる。


「……いや、それは」


「では、私の業務命令として記録されていますか?」


 追い打ちをかける。

 逃げ道を塞ぐため。


「……ない」


 答えは出た。



 私は、はっきりと言った。


「では、この件は私の仕事ではありません」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 胸は、うるさいくらいに鳴っているのに。


「なっ……!」


 ルシアンが声を上げる。


「今さら何を言ってるんだ。

 今までだって――」


「今まで“やってきた”ことと、“やるべきだった”ことは違います」


 遮った。

 ここで情に訴えられると揺らぐから。


「私は、補佐役という曖昧な立場で、あなたの判断ミスを処理してきました」


 一つずつ、言葉にする。

 感情を整理するためだ。


「でもそれは、評価も権限も伴わない“便利な役”です」


 室内の視線が、私に集まる。


「それは、職能ではありません。

 尻拭いです」


 はっきり言った。

 曖昧にすると、また繰り返すから。



 沈黙の中で、アーヴェルが口を開いた。


「……では、この決裁は誰の責任だ?」


 その問いは、刃物みたいだった。


 私は答えなかった。

 答える義務がないから。


 ルシアンが、何も言えなくなっている。

 初めて見る顔だった。


 私は一歩、下がった。

 距離を取る。


「私は、この場で求められた業務を拒否します」


 正式に宣言した。

 感情ではなく、手続きとして。


「権限がなく、評価もなく、責任だけを負わされる役割だから」


 心臓が、うるさい。

 でも、後悔はない。



 会議室を出た後、足が少し震えていた。


 怖くなかったと言えば嘘になる。

 でも――

 もっと怖い未来が、はっきり見えていた。


 このまま続ければ、私は「何でもやる人」になって、誰の記憶にも残らない。


 それだけは、嫌だった。


 廊下の窓から差し込む光が、やけに眩しい。


「……やっと言えた」


 私は、独り言を零した。

 よく喋る自分を、今日は肯定する。


 ここから先は、

 もう戻れない。


 でも、戻る気もない。



 結論から言うと、私はもう我慢をやめた。

 なぜなら――あの会議室での拒否――は、ただの「前振り」だったからだ。


 本番は、これから。


 人ってね、仕事を断られるより、立場を断られるほうが、よほど動揺する。


 私はその事実を、よく知っている。

 なぜなら今まで、立場を餌に仕事を押し付けられてきた側だから。



 会議室を出たあと、私はそのまま屋敷に戻らなかった。

 感情が熱いうちに話すと、論点がずれるから。


 だから私は、いったん王宮の図書室に向かった。

 静かで、紙の匂いがして、

 頭を冷やすには最適な場所。


 そこで私は、紙とペンを出した。


 ・私がやってきた業務

 ・正式な命令があったか

 ・評価がどう処理されてきたか

 ・婚約という立場が、どう使われてきたか


 書き出す。

 感情を抑えるためじゃない。

 感情に、理屈を与えるため。


 書けば書くほど、はっきりした。


 これは、恋愛の問題じゃない。

 価値観の違いですらない。


 契約不履行だ。



 夕方、屋敷に戻ると、案の定、ルシアンが待っていた。

 応接室。

 逃げ場のない場所を選んでいるあたり、まだ「話せば何とかなる」と思っている。


 私は、先に座らなかった。

 対等な話をする時、先に腰を下ろすと引き下がりにくくなるから。


「ノエラ、さっきのは……」


「業務上の判断です」


 即答。

 感情を挟ませないため。


「どうして急に、あんなことを」


 急?

 ああ、本当に分かってない。


 私は、笑いそうになった。

 乾いた笑いだ。


「急じゃないわ。

 ただ、今日が“限界を超えた日”だっただけ」


 彼は困惑している。

 だから、私は説明することにした。


 なぜなら、

 ここで説明しないと、“感情的になった女”で終わるから。



「あなたと婚約してから、私は何をしてきたと思う?」


 彼は黙った。

 答えを持っていない顔。


「書類整理、交渉調整、数字の確認、謝罪文作成。

 しかも、全部あなた名義」


 一つずつ数える。

 指を折るのは、事実を可視化するため。


「それを私は、

 “婚約者だから”という理由で引き受けてきた」


 声が少し上ずる。

 でも止めない。


「でもね、今日、はっきり分かった」


 私は、一歩前に出た。


「それ、私の仕事じゃない」


 彼が口を開く。


「婚約者なんだから――」


「その婚約、業務委託契約でしたか?」


 遮った。

 そこを通すと、話が戻る。


 彼は言葉を失った。



 私は、用意してきた紙を差し出した。

 図書室でまとめたものだ。


「これは、私がやってきた業務一覧。命令系統も、評価の帰属も、全部書いてある」


 なぜ渡したか。

 感情論を防ぐため。


「これを見て、あなたは“対等な婚約”だと言える?」


 沈黙。


 その沈黙が、答えだった。



「だから、婚約を解消します」


 言い切った。

 躊躇はない。


「理由は三つ」


 ここで理由を列挙したのは、感情的な破局に見せないため。


「一つ。私の職能が、無断で使用されている」


「二つ。成果が正当に評価されていない」


「三つ。それを、あなたが問題だと認識していない」


 彼の顔色が、変わる。


「待ってくれ、そんなつもりじゃ――」


「つもりの話はしていないわ」


 私は、静かに言った。


「結果の話よ」



 しばらく、彼は何も言えなかった。

 私は、そこで初めて腰を下ろした。


 もう交渉は終わったから。


「ノエラ……」


 弱い声。

 初めて聞く。


 でも私は、揺れなかった。

 なぜなら、この婚約で失ったものを、もう数え終えているから。


「あなたは、私を失うのよ」


 脅しじゃない。

 事実確認。


「でも私は、あなたの“尻拭い役”を失うだけ」


 立ち上がり、頭を下げる。

 形式的に。


「本日をもって、婚約関係は終了。それに伴う無償業務も、すべて終了です」


 扉を開ける。


 背中越しに、彼の声が聞こえた。


「……そんなに、冷たかったか?」


 私は、振り返らなかった。


 冷たくなったんじゃない。

 役割を、正しく戻しただけだから。



 廊下を歩きながら、私は思った。


 怖い。

 正直、怖い。


 でも、それ以上に――

 胸が、軽かった。


 これでようやく、私は「私の仕事」を選べる。



 婚約を解消した翌朝、私はいつもより早く目が覚めた。

 眠れなかったわけじゃない。

 むしろ、久しぶりに深く眠れた。

 今日やるべきことが、はっきりしていたから。


 私はもう、誰かの「ついで」で動く必要がない。

 補佐役でも、尻拭い係でもない。

 だから朝の支度も、やけに手際がいい。


「……変な感じ」


 鏡に向かって呟く。

 よく喋るのは、落ち着くためだ。


 今日は王宮に行く。

 ただし、立場が違う。

 婚約者の後ろを歩くためじゃない。

 自分の判断を、直接差し出すためだ。



 王宮の執務棟に入ると、数人の官吏がこちらを見た。

 視線の質が、前と違う。


 以前は、「グレイス卿の婚約者」それだけだった。


 今日は、「昨日、あの場で拒否した人」その評価が先に立っている。


 私は背筋を伸ばした。

 舐められると、話が遠回りになるから。


 受付で名を告げると、すぐに通された。

 呼ばれた先は、実務系の責任者用の執務室。


 扉をノックし、中に入る。


「失礼します。ノエラ・ヴァンリックです」


「入ってください」


 低く、落ち着いた声。

 昨日聞いたばかりなのに、妙に記憶に残っている。


 アーヴェル・クロイツ侯爵家次男。

 王宮実務系の責任者。


 机の上には、書類の山。

 でも乱雑じゃない。

 必要なものが、必要な順で置かれている。


 私は、この時点で少し安心した。

 仕事ができる人の机だから。



「昨日の件で、あなたに話がある」


 彼は、前置きをしなかった。

 私はそれが気に入った。


「はい」


 即答する。

 評価の機会を逃さないため。


「あなたが提示した拒否理由、すべて記録として確認した」


 胸が、少しだけ跳ねた。

 “感情的な拒否”として処理されていないと分かったから。


「あなたの判断は、正しい」


 その一言で、胸の奥が熱くなる。


 でも私は、すぐに礼を言わなかった。

 喜ぶと“褒められて満足する人”になるから。


「ありがとうございます。

 ただ、私は拒否しただけです」


 彼は、わずかに口角を上げた。


「拒否できるのは、構造を理解している人間だけだ」


 ……ああ。

 この人、ちゃんと見てる。



 彼は、書類を一枚、私の前に滑らせた。


「昨日、あなたが拒否した件。

 あなたなら、どう処理する?」


 私は、迷わなかった。

 これは試験だから。


 書類を読み、要点を拾う。

 感情は後回し。

 判断を先に出す。


「この条件なら、契約自体を一度白紙に戻すべきです」


 はっきり言った。


「調整で済ませると、次も同じ構造が繰り返される。責任の所在を明確にしないと、必ず歪みます」


 彼は、即座に頷いた。


「同意見だ」


 短い。

 無駄がない。


 この瞬間、私は確信した。


 この人は、私を“使う”人じゃない。



 打ち合わせは、予想以上に長引いた。

 でも、疲れはなかった。

 全部、自分の名前で話しているから。


 彼は、何度も確認した。


「それは、あなたの判断か?」


「はい」


 「責任は持てるか?」


「持ちます」


 そのたびに、彼は必ず言った。


「では、私も名前を出そう」


 この一言が、どれだけ大きいか。

 分かる人は少ない。



 昼過ぎ、打ち合わせが終わった。


「一つ、提案がある」


 彼が言う。


 私は、少しだけ身構えた。

 提案という言葉が、仕事の境界を越える可能性を含むから。


「あなたの能力を、

 婚約者という関係性で消費するのは、無駄だ」


 直球。

 嫌いじゃない。


「正式に、こちらで引き受けたい」


 引き受ける。

 その言葉の選び方が、いい。


「条件は?」


 即座に聞いた。

 曖昧な善意を排除する。


「職務内容、権限、評価基準、報酬。

 すべて明文化する」


 胸の奥が、静かに震えた。


 欲しかったのは、これだ。



 帰り道、私は一人で笑っていた。

 よく喋る私が、珍しく声を出さずに。


 仕事を、名前で呼ばれた。能力を、立場で隠されなかった。


 そして何より――

 “支え合おう”と言われなかった。


 代わりに言われたのは、「一緒に責任を負おう」。


 これなら、いい。


 私は、胸の奥で静かに決めた。


 この席に、座る。


 誰かの尻拭いじゃなく、私自身として。



 正直に言うと、私は少しだけ拍子抜けしていた。

 もっと大騒ぎになると思っていたから。

 婚約解消なんて、貴族社会では一大事だし、しかも私は「便利な側」だったわけでしょう?

 取り上げられたら、そりゃ困るはずなのに。


 でも現実は、違った。


 世界は、ちゃんと回っていた。

 ただし――回っていなかったのは、彼の周りだけだった。



 王宮での仕事が本格化して、数週間が経った。

 私は忙しかったけれど、不満はなかった。

 忙しさの中身が、全部自分で選んだものだったから。


 判断をする。

 説明をする。

 責任を取る。


 全部、自分の名前で。


 ある日、書類の束を抱えて廊下を歩いていると、聞き覚えのある声がした。


「……ノエラ」


 振り向かなくても分かった。

 でも、あえて立ち止まった。

 逃げる必要が、もうなかったから。


 ルシアンは、以前よりもやつれて見えた。

 服装は変わらない。

 立場も、形式上は変わっていない。


 でも――

 目が、違った。


「忙しそうだね」


「ええ。自分の仕事なので」


 即答。

 嫌味じゃない。

 事実確認だ。


 彼は、一瞬だけ言葉に詰まった。


「君がいなくなってから……その……」


 歯切れが悪い。

 珍しい。


「会議が、思うように進まない」


 ああ。

 ついに、そこに辿り着いた。



「それは、大変ですね」


 私は、感情を込めずに言った。

 同情すると話が歪むから。


「ノエラ、君は……

 いなくなって初めて分かったんだ」


 分かった、か。


「何を?」


 聞いたのは、優しさじゃない。

 言語化させるため。


「君が、どれだけのことをやっていたか」


 私は、少しだけ首を傾げた。


「“やっていた”ではなく、“やらされていた”です」


 訂正する。

 ここを曖昧にすると、また美談になるから。


「君がいれば……」


「いません」


 即遮る。

 反射みたいなものだ。


「私は、もうあなたの婚約者ではない」


 彼は、唇を噛んだ。


「戻るつもりは、ないのか?」


 ああ。

 やっぱり、そこに行き着く。



 私は、少しだけ考えるふりをした。

 実際、答えは決まっている。


「ありません。戻ったら、また同じ役割を期待されるから」


 彼は、何も言えなかった。


「あなたは、私を失ったんじゃない」


 これは、はっきり言う必要があった。


「“尻拭いをしてくれる人”を失っただけ」


 冷たい?

 ええ、そうでしょうね。


 でも、これは事実だ。


「それを、恋愛や婚約で包むのは、もうやめましょう」


 私は一礼し、その場を離れた。

 振り返らなかったのは、もう確認する必要がなかったから。



 その日の夕方、アーヴェルに呼ばれた。

 執務室。

 最初に入った時と同じ場所。


 でも、立場は違う。


「正式な話だ」


 彼はそう切り出した。

 私は、姿勢を正す。

 これは私の人生に関わる話だから。


「君を、正式に我が家で迎えたい」


 来た。

 でも、私はすぐに頷かなかった。


「理由を、聞いても?」


 聞くのは当然だ。

 理由のない提案は、断ると決めている。


「君は、判断を共有できる。

 感情で流されず、責任を取る」


 淡々としている。

 でも、曖昧じゃない。


「それは、仕事の話ですか?」


「最初は、そうだ」


 正直でいい。


「だが――

 それだけでは、人生は組めない」


 私は、思わず笑った。

 よく喋る私が、珍しく短く。


「……その言い方、好きです」



 数日後。

 私は、新しい婚約の書類に目を通していた。


 職務内容。

 権限。

 責任範囲。

 そして、婚約の位置づけ。


 すべて、明文化されている。


「確認します」


 私は、最後に言った。


「この婚約で、私の仕事が無償になることはありませんね?」


「ない」


 即答。


「私の判断が、あなたの名前だけで処理されることも?」


「ない」


「失敗した時は?」


「共同責任だ」


 完璧。


 私は、ペンを取った。


 なぜ、頷いたのか。

 この婚約は、私の仕事を奪わない。


 むしろ、私の仕事を、私のものとして扱う。



 署名を終え、私は息を吐いた。


「……やっと言える」


「何を?」


 アーヴェルが聞く。


 私は、はっきり答えた。


「その婚約、

 私の仕事ではありません」


 でも、続ける。


「だからこそ、選びました」


 仕事じゃない。

 義務でもない。

 尻拭いでもない。


 対等な選択。


 私は、よく喋るし、感情的だし、面倒な女だ。

 でも、自分の役割くらいは、自分で決める。


 そしてもう二度と“それ、当然でしょう?”なんて言葉で、人生を使わせない。



完。

よろしければ何点でも構いませんので評価いただけると嬉しいです。

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― 新着の感想 ―
貴族なのに家の事情や親や親族が出てこず、当事者間のみで話が完結してるのがちょっと不自然かなと思いました。 基本的に貴族だと家門ごとで見られるので、元婚約者さんも個人が評価されてるわけじゃないんじゃない…
ノエラさんって何をしてらっしゃる方でしょう? 秘書でも従者でもないただの婚約者が仕事に同行するってどういう状況なのでしょう? 婚約破棄していち令嬢に戻った彼女がなぜ王宮の執務棟に一人で入れるのでしょう…
AIの補助が段落のルールを無視してます… 自身でいま一度読み直し修正して見て下さい これは小説ではなく「台本」です。
感想一覧
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