まっさら
──花園殿。
そこは、国を統べる天子がおわす天子宮の奥地にある、天子の子を生み育む場所──天子の為の後宮であり、天子宮の中でも特に警備の厳しいこの敷地内のどこかに、天子の寝所はある。
ごく一部の側近と女官しか寝所の場所は分からない。正室や側室が夜伽に訪れる時は、下着姿にされた上に目隠しをされ、布団に包まれて運ばれるから、その場所を探ることもできない。
よほどの体調不良でない限り、夜伽は毎夜行われる。今宵も、月の明かりも届かぬ寝所にて、今上天子の元に侍る女がいた。だが──その女は衣服をきちんと身に纏い、自分の足でここまで来た。
板張りの床の上に直に座る彼女は、姿勢を正し、正面をじっと見据えながら口を開いた。
「花園殿、書物処所属、朗読係の涅沼千夜子にございます」
千夜子の視線の先、薄布で作られた天蓋は閉じられ、布越しに、涅槃像のように横たわる男の姿が見えた。下半身には薄い掛け布団が掛かっているが、汗ばんだ裸体を晒す上半身と、彼の後ろに横たわる女の一糸纏わぬ姿から、情事の後と思われる。
女は一言も発しない。目を凝らせばその身体は僅かに上下しており、耳を澄ませば寝息も聞こえてくる。女は疲れて眠ってしまったようだが、反対に男──今上天子・夏茜の瞳に眠気の色は見えず、つまらなそうに千夜子に目を向けている。
「朗読係は長いのか」
「一昨年より配属になりまして、その後間もなく絵畑秋女御様に気に入られてからは、秋ノ舎の専属となり、秋女御様や神子様相手に朗読をさせてもらっておりました」
話しながら千夜子の脳裏には、美しく微笑む秋女御の顔と、彼女が生んだ神子の愛らしい顔が、交互に浮かんでいた。
秋女御とは、天子の四人いる上級妃の中で、三番目の地位にある側室。絵畑秋更衣は男爵家の出で、さる公爵家と実家が懇意にしており、その公爵家の紹介で入内してきた。天子の閨には何度も訪れており、神子を一人儲けている。
「ずっと、秋女御の元にいるのか」
「たまに神子様方を集めた朗読会に参加する以外は、秋ノ舎におります」
「……今宵、お前を寝所に招いたのも、その秋女御からお前の話を聞いたからだ。凛とした、聞き心地の良い声で朗読するんだとな。それで興味が出たが──その頬は、秋女御にやられたのか?」
夏茜の言葉に、千夜子は咄嗟に右頬を押さえる。窓のないこの場所は灯りも乏しく、薄暗い。だというのに、秋女御に打たれて赤くなった千夜子の頬が、彼の目には見えているのか。
「何だ、本当に打たれていたのか」
「……ぇ」
「あいつは顔は美しいが、内面は嫉妬深い。俺の寝所にお前が呼ばれたと聞いて、そんな軽率な行動に出たのではないかと思ったが……」
「秋女御様は悪くありません」
大きな声ではないが、その声は室内の隅々にまで響く。
どこか、馬鹿にしたような吐息が、夏茜の口から溢れるのを千夜子は耳にした。
「どうでもいい。取り敢えず、いつも通りに仕事をしろ」
「……はい」
膝の上に丸めた拳を置き、夏茜から目を逸らさぬまま、千夜子は口を開く。
◆◆◆
まっさらな雪原に、男はおりました。
腕の中には、生まれて間もない赤子。可愛らしき女の子にございます。
彼女が凍え死なないように、男は布を何枚も赤子に巻きつけ、そして誤って落とさないように、大事に抱き抱えて進みます。
男は逃げておりました。
大切な赤子を連れて、ひたすらに逃げておりました。
◆◆◆
「……以上にございます」
「以上? それだけか?」
千夜子は拳を開いて膝の前に添えると、ゆっくりと頭を下げる。
「いつも通りに語るのがお望みのようでしたので、いつも通り、秋女御様の望む長さで物語を作り、語らせていただきました」
「……秋女御はそれで満足するのか?」
夏茜からの問いに千夜子は頷き、いつもの夜について想いを馳せる。
「私が語った内容について、秋女御様は床の中で想像を巡らせ、そうして頭を使い、いつの間にか眠る。という行為を好んで繰り返しておりました」
「……物好きな女だな。なら、俺もそうするべきか」
「お好きになさってください」
「……分かった、下がれ」
夏茜から許しが出ると、なるべく音を殺しながら千夜子は立ち上がり、寝所の出入口に向かう。そうすれば来た時と同じように布で目を塞がれ、手を引かれて秋ノ舎に連れていってもらえるだろう。
早く帰らなければ。
あまりにも帰りが遅ければ、天子に手を付けられたと秋女御が勘違いをし、また暴力を振るわれるかもしれない。痛いのは嫌だ。
秋女御は基本的には良い人だが、頭に血が上ると気性が荒くなり、接する態度も慎重になる。
神子様の健やかな成長の為にも、秋女御には穏やかに日々を過ごしてもらわなければ。
帰還直後に嵐は起きなかった。
だが、翌日、嵐は吹き荒れる。
──千夜子は、天子の命により、天子専属の朗読係となることが決まった。