8
目が覚めると太陽は高く上がっていた。
柔らかい布団の中でゆっくりと意識が浮かんでくるのを感じながら、私は寝返りをうつ。
時計を見ると14時だった。そろそろ準備しなければ。
半分寝ぼけた頭で冷蔵庫まで歩き、水をがぶがぶと飲んだ。
簡単なご飯を作って食べ、メイクをし、クローゼットから今日着るドレスを選ぶ。
仕事以外では黒い服が圧倒的に多いが、衣装は必ず赤と決めている。
ステージで赤いドレスを着ている時はいい女を演じることができているような気がするから。
(本当の私はこんなにもどうでもいい存在なんだけど)
そんな私を見下すかのようにクローゼットの中は異常なほど赤いドレスが並んでいた。
地下鉄で銀座で降り、大きな楽器店へ向かった。
何の曲を弾こうかな。曲を選ぶのは楽しい。
壁一面に並ぶ楽譜の棚の前に立つと、柄にもなくワクワクした気分になる。
POPS系の曲もいいけど、クラシックもいいな。
遥か昔に作られた曲が楽譜の中に現在まで残っている奇跡。
この曲が作られた当時は、今より豊かで幸せな時代だったんだろうかと無意味な思いがいつも頭をよぎる。
何冊か楽譜を手にとり、パラパラと楽譜をめくった。
クラシックだったらショパンかリストか・・・ラヴェルも弾きたい。
しばらく棚の前で悩んだ結果、迷うのが面倒で結局めぼしいもの全部をレジに出した。
「瑠璃?」
楽器店を出たところで、後ろから不意に名前を呼ばれた。
振り返ると背の高い男が手を上げながら走り寄ってくる。
(・・・誰だっけ?)
客ではない。
こんなに若くてチャラチャラした男があの店の客なら絶対に記憶に残っているはずだ。
狭い交友関係の糸をいくら辿っても全く心当たりがない。警戒心が身体をさっと覆った。
「相変わらずだなぁ。そんな睨むなよ。俺だよ、リョウ」
「・・・あ」
名乗られて分かった。
脳裏に今朝心の奥に放り込んだはずの小さな町と海が再び蘇る。
彼は・・・リョウは私がまだ故郷にいた頃の、数少ない友達だった。