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「瑠璃、こっち来て」
リョウの声に私はピアノを弾く手を止めて彼が座っていたソファの隣りに腰をおろした。
あれから三ヶ月。
深夜に電車を何本も乗り継ぎ、リョウは私をこの町に連れてきた。
今まで暮らしていた土地より低い気温のこの地域は、私の故郷と似たような地形で緑が茂っている珍しいところだった。
それ故、自給自足で食べ物をまかない、町の人同士で協力し合って生活していると説明されていた。
リョウと何か縁のある地なのかと聞いたが、「ないよ」と笑って返された。
けれど元政府組織の彼は、ここは絶対安全な場所なのだと言う。
詳しいことは分からないが、取り締まるべき法律違反も犯していないが、宗教じみた絶対神を敬う人々が集まっている町なんだそうだ。
それを聞いた時、世の中には色々な人がいるなと素直に思ったのはまだ記憶に新しい。
ここに来たその日、町長さんだというニコニコした平凡なおじさんにリョウは挨拶に行き、おじさんのご好意で、空き家になっていた家に住まわせてもらえることになった。
そして次の日にはリョウがどこからかグランドピアノをもらってきて、家の一室に置いて言ったのだ。
「ピアノは続けろ」と。
それからというもの、隣りの町に楽器屋があると聞いて楽譜を買い、毎日ピアノを弾いて生活をしている。
もちろんただ暮らしているだけではご飯が食べられないので、リョウは宛がわれた畑を耕し、私は公民館でピアノを使った仕事を2時間ほどしている。
仕事の内容は、この町では数少ない子供と一緒に歌を歌ったり、ふらっとやってきた人にピアノの演奏をしたり、ようするに町の人々と音楽に触れるというものだ。
老人の多いこの町では、今まで簡単にしか演奏できる人がいなかったらしく、珍しいのか毎日誰かしらがピアノ室へと足を運んでくれていた。
「なに?」
リョウが指差す先にはテレビの中で、子供にピアノを教える斉藤の姿があった。
「…これ何?」
「教育系の番組みたいだな。第2回ってテロップ出てるから最近始まったんじゃないの?」
小学校の高学年くらいの女の子が必死にショパンのエチュードを弾き、斉藤が彼女らしい辛口のコメントをしていくのを見て、思わずくすりと笑ってしまう。
テレビ用に抑え目にしているが、相変わらず彼女の厳しいレッスンは健在のようだ。
「またいつか、演奏会したいな」
幼い女の子がミスタッチもせず速いパッセージを弾くのを見て、夢物語だと分かっているけど、つい本音が口から滑り落ちた。
そんな私にリョウが目だけでこちらを見てくるのが分かる。
おそらくそんないつかはやってこない。
出て行ったら捕まるだけ。
それも今度は私だけではなくリョウも罪を問われる事になる。
「そうだな、いつかな」
それでもリョウは否定の言葉を言わない。
その優しさに胸が苦しくなり、私は画面を見ながらそっとリョウに凭れかかった。
リョウと生活を始めて相変わらず口喧嘩は絶えないが、自分を飾らずに穏やかに生活できている。
初めは元々友達だったからなどと考えていたが、どうも違うらしい。
彼といると楽しいのだ。
そしてとても幸せな気分になる。
それは生まれてから誰にも持ったことのない感情で、だからこそすぐ彼のことが好きなんだと気付いた。
いつからだろう。
明確には分からないけど、はっきり分かってるのはファミレスで出会ったあの頃から特別ではあった。それは恋ではなかったが、他の知り合いや友人とは全く違う存在だったことは確かだ。
あんなに地位や名誉を求めたのに、結局何もかもを失った男を好きになるとは思わなかった。
けれど私はこれで良かったんだと思っている。
ピアノを捨てずにコツコツと練習し、生きていれば何かビックリするような未来があるかもしれないじゃないか。
ポンポンと頭を叩かれて私は目を閉じる。
テレビから懐かしい声を聞きながら、私達はしばらく寄り添っていた。
このまま年をとっていくのも悪くないな、と絶対口には出さないが、素直にそう思っていた。