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「おい…!」
野田の目の色が変わる。
これは駄目だ、殴られる…。
私は目を瞑って痛みに備えた。
しかし何秒待っても一向にその時は訪れない。
そっと目を開けると私の前に庇うように立つリョウの背中と、野田の腕を止めるように掴む斉藤の指が見えた。
「行きなさい」
斉藤が私に言う。
堂々としたその佇まいに、ああ彼女はすべて知っていたんだと悟った。
そしてそんな根回しをするのはこの男、リョウしかいない。
そしておそらく組織に演奏会が終わるまで逮捕を待つように説得したのもリョウなのだろう、そう理解
して私はリョウの手を自分からギュッと握り締めた。
「ほとぼりが冷めたらまたレッスンにいらっしゃい。あなたはまだまだ伸びるわ。次のリサイタルまでしごくから覚悟しておいて」
斉藤がにやりと笑って言ってくる。
「はい、お願いします」
私も同じように笑って頭を下げた。
野田が1人斉藤の手を振りほどいて抗議の声をあげる。
「なに勝手に決めてんだよ。今日リサイタルを開かせてやったのは誰のおかげだ?リサイタルが終わったら男と駆け落ちか?いいご身分だな。でもここで逃げたら一生日の目を見れないように根回しすることくらい簡単なんだぞ」
そう言う野田の目は、多分今まで見た中で一番冷たい色をしていた。
当然ながら野田は私が念願の演奏会を果たし、隠していた恋人と逃げるとでも思っているのだろう。
私は小さくため息を吐く。
その方がどれだけいいか。
そして覚悟を決めて野田を真っ直ぐ見つめて言った。
「私は今問題になってる海の町の出身です。つまり政府に追われる身だというわけ。そんな事が知れたら野田さんは困らないの?私が逃げた方が都合いいんじゃないの?」
リョウの背中から前へ出て、正面から野田に事実を突きつける。いきなり知った私の素性に、成り上がり社長の野田は言葉を失った。
「そんな…嘘だ…瑠璃ちゃんがそんな…」
そう呟いた野田の声は掠れて震えているようだった。
「残念だし私にとっても不本意だけど…事実です。客席でさっきスーツ姿の男達が揉めてるのを見なかった?あれは聴きにきてくれてた母を連行するための政府の手先よ」
斉藤が痛ましい表情で目を伏せる。
それには構わず私は言葉を続けた。
「それとせっかくだから言うけど、ごめんなさい。私は野田さんのこと好きじゃない。パートナーとして好きになろうと思ったことはあったけど、殴られたり浮気されたりでそんな気持ちは完全になくなっちゃった。だからここで別れよう?あ、あと次に付き合う子の出身地はちゃんと調べた方がいいよ。こっそり探偵に依頼するのなんて慣れたもんでしょ?」
こんな事を言ってしまったら次回演奏会をする時のスポンサーはどうするんだ、そう条件反射で思ったが次回なんておそらくないんだという事に思い当たって取り越し苦労だと失笑してしまう。
自分の浅ましい貧乏性はもう染み付いてしまっているに違いない。
「…その男は?」
呆然としたような野田の声に、こんな時なのに爽快感を覚えてしまう。
そして気付く。
自分の野田に対する不満や恨みはこんなに根深かったのかと。
「古い友人です。そして政府側の人間です。今日は彼女を迎えにきました」
口を開こうとすると先にリョウが答えた。
真剣な瞳に硬い口調。
仕事モードの彼の様子に私は言葉を飲み込む。
こういう時は黙っているのが賢明だ。
今の言葉の真意がどこまで野田に伝わっているのだろうか。
野田はリョウを見て、私を見て、そしてそれっきり黙った。
「…じゃあ」
野田を一瞥し、リョウが私を振り返った。
私も頷いて一歩踏み出す。
「早く行こう」
リョウの言葉がかけ声となり、手を繋いで私達は走り出した。
これからどうなるのか分からない。
けれど今は不安がるよりこの場を切り抜けることが先決だ。
息を切らして建物の裏口までやってくるとリョウはハッとしたように私を見た。
「しまった…赤か…」
「何が?」
単純に尋ねて私もようやく気付く。衣装だ。
あまりにも逃げるという行為にはふさわしくない鮮やかな色合い。
「せめて着替えとけよなぁ」
やれやれといった感じの声音にムッとして、
「こんなことになるとは思わなかったから」
と返す。
更に何か言われるかと思ったが、そんな私を見てリョウはやれやれと優しく微笑んだ。
そしておもむろに自分の黒いスーツの上着を脱いで私の肩にかける。
「少しはマシかな」
背の高いリョウの上着は私の太ももを隠すくらいの長さだった。
長い丈のドレスなのですべて隠れた訳ではないが、そのままよりいくらかは目につきにくいだろう。
「さあ、ここからが問題だ。奴らは表と裏口と両方で張ってるはずだ。俺が今から無線で表口にお前が向かうと報告する。俺を信用して全員そっちに向かうか、疑って数人は残るかは分からない。もしかしたら捕まるかもしれない賭けだけど乗るか?」
そう言ってリョウは小型トランシーバーのようなものをズボンのポケットから取り出した。
それをじっと見つめながら考える。
もしこのまま出て行ったら確実に捕まるだろう。
待ってて奴らがいなくなるはずもないし、タイミング良く大事件が起きてそちらに注意を引き付けられる可能性も0%に近い。
そして何よりリョウについて来た時点で彼に決断を委ねる覚悟はできている。
だとしたら…。
「乗る」
簡潔に結論を告げた私に、にやりと昔ながらの笑みを返してきたリョウは無線のスイッチを入れ、さっき言った通りに無線先に報告をした。
やがてバタバタと表口に向かって走り去る数人のスーツ達の足音が鳴り響く。
そして数秒後、その場はしんと静まり返った。
リョウと私は改めてお互いの手をしっかりと握り締め、どちらからともなく全速力で駆け出した。
迷路のような細い路地をいくつも曲がり、通りかかったタクシーに飛び込んで呼吸を整える。
おそるおそる車内から後ろを振り返るが、特に追っ手がついていないと分かると私は安堵の長いため息を吐いた。
リョウと目が合い、小さく頷き合う。
――私達は賭けに勝ったのだ――。