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パラパラとアンコールを求める拍手が聞こえる。
それも社交辞令のようなおざなりな拍手。
一旦ステージ脇に引っ込んだ私は汗をぬぐい高揚している気分を抑えようと深呼吸を繰り返した。
一回、二回…吸って吐いての単純作業に少しずつまともな思考が戻ってくる。
「アンコールよ」
袖でずっと演奏を見守ってくれていた斉藤が促す。
待たせすぎてしまうのも失礼だ。
私は頷いてもつれそうになる足を動かして再び舞台へと立った。
おざなりとはいえ送られる拍手に感謝して観客席を見渡す。
公演後ということで少し明るくなった客席は座っている人の顔まで認識することができた。
笑顔の人、つまらなそうな人、真面目な顔をしている人…。
ぐるっと視線を向けるとと隅の方に数人の塊が見えた。
不自然な人の密集によく目をこらしてハッとする。
―――母だ。
来てくれたんだという喜びよりも、母を取り囲むスーツ姿の男たちが気になった。
嫌な予感がする。
もしかしたら追手かもしれない。
私の演奏会に来たせいで母が捕まってしまうようなことになったら悔やんでも悔やみきれないではないか。
私がいつまでも着席しないので客席がわずかにざわめく。
その小さな異変に気付いたのか母が、スーツの奴らが、揃ってこっちを向いた。
「良かったわよ」
母の席とステージにはかなり距離があるのに、私の耳には確かに母の声が届いた。
思わず足が一歩前に出る。
それに気付いて母はふわりと笑顔を見せ、首を横に振った。
「アンコール」
またしても聞こえた母の声。
その声に反応したかのように私の身体はギコギコと勝手に動き、ピアノの前に腰をおろしていた。
ラヴェルの亡き王女のためのパヴァーヌ。
タイトルで勘違いされやすいが葬送曲ではない。
ラヴェルらしい哀愁にみちた曲。
この曲調が、もしかしたら最後になるかもしれない私のリサイタルにぴったりだと思い入れをもって練習してきた。
ゆったりとしたメロディー。
けれど決して易くはない。
踏みしめるように曲は進む。
しんと静まり返る会場で、私の指ははこうして最後の舞踏を踊って幕を閉じた。
最後にもう一度お辞儀をするために会場を真っ直ぐ見つめた時には、さっきまでそこにいたはずの母の姿はすでになく、そこは元々誰もいなかったかのように空席がポツンと佇んでいるだけだった。
楽屋に戻ると斉藤と野田が労いの言葉をかけてくれた。
正直演奏会が終わった達成感と目標を失った喪失感、さらにアンコール時の母のことで私は放心状態になっていた。
けれど野田や斉藤の知り合いという人々が何人か楽屋に訪れ、私は表面上は笑顔でお礼を言い、感じの良い対応をこなした。
コンコンとまたドアをノックされる音がして、私は背筋を伸ばしてそちらに向かう。
どんなに疲れていたってこの楽屋挨拶だって次に繋がる大事なコネクション作りだ。
最後まで気は抜けない。
「お疲れ様でした」
そこに立っていたのは黒いスーツに身を包んだリョウだった。
予想外の客に私の心臓はドキリと大きな音を立てる。
不自然にならないように野田の表情を窺い、斉藤と談笑しているのを確認するとさりげなく外に出てドアを閉めた。
「良かったよ。演奏を聴いたのは初めてだったけど、なんていうかグッときた」
「それはありがとう。でも何しに来たの?こんなところまで来て嫌がらせなの?」
背中にあるドアの向こうに話声が聞こえないようにヒソヒソと声を荒げる。
気が気ではない。
「違う、単に聴きにきたんだ、と言いたいところだけど仕事だ」
仕事という言葉に私の身体はぴくりと揺れる。
そうだ、もしかしなくても母を連れ去ったのはコイツの属している組織の人間なのではないだろうか。
「お母さんのこと見えてたよね?連れて行かれたことも。次は瑠璃の番だ」
私の心の疑問をあっさり肯定し、淡々と話すリョウの想定外の言葉に頭をがんと殴られたような衝撃を受けた。
「私…?」
「そう。あの町の住人を政府が捕まえてることは知ってるだろ?」
知っている。テレビで何度か見たのだから。
けれど自分もターゲットに入っているなんて考えてもいなかった。
だって…。
「私はあの町の住人じゃない。もう、関係ないよ」
「それは瑠璃の言い分だろ?お前の中ではそういうことになってるかもしれないけど、あそこで生まれて育った過去があるんだから、お前はあの町の住人なんだ。元住人といった方が正しいかな。そして残念ながらそれは今回の逮捕の対象に入ってる」
捕まったらどうなるのだろう。
いつか見た刑務所のドキュメントを思い出す。
座敷牢に入れられて生活を監視されて、そして老いていくのだろうか。
ようやく夢に一歩踏み出したところなのに。
「演奏会前に捕まえなかったのは組織の慈悲みたいなもんだ。俺達はつつがなく今日が終わるのを待っていた。瑠璃が着替えて会場を出た瞬間、捕まえることになっている」
どうしてリョウはそんな情報を私に伝えるのだろう。
情報漏洩になってしまわないんだろうか。
そこまで考えて私は顔をあげる。
「リョウ、もしかして」
リョウはにっこり笑って頷いた。
「そうだよ。瑠璃、おいで。逃げよう」
リョウが私の右手を握った。
それは温かい手だった。
「そんな…。そうしたらアンタはどうなるの?大丈夫なの?…ねえ!」
すぐにでも手を引っ張って歩き出そうとするリョウに私は思わず大声を出した。
ハッとして背後のドアに意識を向けると案の定、カチャリとノブが回る音がした。
「瑠璃ちゃん…?」
野田の声。
目と目が合う。
そして野田の視線は繋がれたリョウと私の手に向けられた。