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いよいよリサイタル当日になった。
天気は快晴。秋晴れの空気が清々しい。
マンションの窓から見える青を眺めながら私はゆっくり息を吐き出した。
そんな恵まれた天気とは裏腹に、私の精神状態はめちゃくちゃになっていた。
今日の演奏会は少ないだろうがお客さんも入る。
斉藤の名前を見て聴きに来る専門家だっているだろう。
チャンスとばかりに斉藤の門下生の肩書き飛びついたが、それが今日の演奏会で吉と出るか凶と出るか。
すべては舞台の出来にかかっている。
「そろそろスタンバイしてください」
会場のスタッフに促され、私はドレスの裾を引きずりながらノロノロとステージの袖に向かった。
色はもちろん赤。
これは『MB』の時からの験担ぎだ。
今回は初演奏会ということで、レンタルでいいと言い張る私を無視し野田が買ってきた。
肌触りのいい高級な生地をサラサラ言わせ、私は身体をほぐすために屈伸をする。
舞台袖には会場の様子が見えるモニターがあり、ちらっと目をやると思ったより多くの観客がいるのが分かった。
途端に心拍数があがってくる。胸の鼓動がうるさい。
「僕の知り合いにも声かけたら結構たくさんの人が来てくれたよ」
本番直前だというのに野田が袖に現れ、にこやかに話しかけてきた。
私の演奏が好きだといつも言ってくれた野田。
だったら客席で聴いてほしいと思うのは間違いだろうか。
「瑠璃ちゃん?緊張してる?」
黙ったまま身体を動かす私を見て、野田がからかうような声を出す。
私は虚勢をはる余裕もなく、素直にこくりと頷いた。
そんな私を見て野田は少し目を瞠り、そして安心させるような優しい動きで頭を撫でてきた。
「大丈夫だよ、そんな深く考えなくて。いつも通りに演奏しな。評価とかそういうのは気にしないでいい。だって夢の舞台でしょ?」
その言葉に私は不覚にも泣きそうになる。
夢の舞台、本当にその通りだ。
これまで色々あったしこれからだって色々あるだろうけど、今日の演奏会を楽しまなければ。
せっかくの機会を緊張で台無しにしてどうする。
「やれるだけやってきなさい。大丈夫、あなたは頑張ったわ」
振り返るといつからそこにいたんだろう、斉藤が後ろで腕組みをしていた。
彼女の大丈夫という言葉にふっと身体が軽くなる。
ずっと厳しいレッスンをしてきた斉藤から言われたからこその重く嬉しい言葉だった。
開演五分前のブザーが鳴る。
野田は客席に戻ると言って去り、きっかり五分後、私はステージのライトの中にいた。
拍手の音。
深呼吸して鍵盤に置いた手はもう震えていない。
『MB』でいつも弾いていたショパンのバラード1番。
慎重に最初の音を鳴らして弾き始める。
いつもより腕が軽く、だからといって走り過ぎないように自制しながら指を動かす。
しんとした会場に響くロマンティックな旋律。
私はさっきまでの緊張も恐怖もすべて忘れ、音を創り上げることに全てを注いだ。
完璧な演奏はやはりできない。
時間的な限界や、もちろん才能の限界だってある。
けれど出来ることは全てやろうと思い、実際この瞬間ならやれる気がした。
ステージの魔物に取り付かれた私は、夢中になって音で自分を表現し、鍵盤から腕を離した時には生気を搾り取られたかのように脱力感でいっぱいになっていた。
しかし、同じくらいの達成感に胸を締め付けられ、目の前がぼんやり霞んで見えていた。