14
玄関から手前の部屋から順番にドアを開く音。
その乱暴な様子に心臓がキュっと縮こまるような感覚を覚える。
足音から察するに、おそらく2人か3人が侵入しているようだ。
少しずつ少しずつこちらに向かってくるのを感じて、私は手足が痺れてしまうほど緊張していた。
「ここで最後か?…物置みたいだな」
男の声が聞こえ、私は気配を消そうと息を殺した。
(入ってきませんように)
思わず祈ったが、その祈りは通じずに足音は容赦なく近づいて来る。
空気すら揺らさないように口に手を当てて耳をすます。
男らはちょうど母のいるあたりの床をドスドスと歩き、私が隠れた家具の方へと歩いてくるようだ。
(止まって…!)
そのまま進まれたら確実に見つかってしまう。
心臓が壊れてしまいそうなくらい早く鳴る中、願いもむなしく人影が視界に入った。
耳鳴りすらしてきそうな緊迫した空気の中、背中に冷や汗が伝っていく。
鼓動がうるさい。
その時、音もたてずにぬっと人の顔が目の前に現れた。
驚きのあまり声にならない声を漏らしてしまう。
マスクをしたその男は私を見つけても動じることもなく、それどころか自然な動作で唇に人差し指を当ててみせた。
どういう意味なんだろう。
まさか見逃してくれるということなんだろうか?
何かの罠なのかかと男の顔をまじまじと眺める。
そんな私の不審げな視線に気付いたのか、男は一瞬だけマスクをずらし自分の顔を空気に晒してくれた。
―――リョウ…。
それは昨日会ったばかりのリョウだった。
どうしてこんなところに。
答えは簡単な問いのはずなのに、パニックに陥った私の頭では何かを考えることができない。
「いないか?」
「はい、いません」
奥で捜索していた男の確認にリョウは堂々と答え、憎き訪問者達は足早に部屋から出て行った。
遠くで玄関のドアが閉まる音まで耳を澄まして、ようやく詰めていた息を吐き出し深呼吸をした。
すぐに床がガタンと音をたてて横にすらされ、母もゆっくりと出てくる。
お互いに長い間緊張状態が続いたせいか、すぐに言葉が出てこない。
しばらくぼんやりと思い思いの方を向いて心を落ち着かせる。
どのくらい経っただろうか。
かなり長い時間をかけて平常心を取り戻した私たちはやっとお互いを思いやる余裕ができた。
「…お茶でも淹れなおそうか」
そう母が立ち上がる。
「大丈夫なの?あいつらが戻ってきたりしたら…」
「ああ、それは大丈夫。1回来たらしばらく来ないから」
そう言いながら逞しく部屋を出てキッチンに向かう母を見て、私はそっと感服のため息を吐いた。
遅れてキッチンに入るとコーヒーの良い香りがふわりと漂った。
さっき自分の身に降りかかった捕獲劇が嘘のように穏やかな香り。
そんな日常の大切さがなんだかとても有難く、思わずそっとカップを手の中に包み込んだ。
「2人は隠れられないから絶対見つかると思ったわ」
母がミルクを注ぎながら呟く。
「あんたあの人らと知り合いだったの?」
聞かれるだろうなと予測していた疑問を投げかけられる。
「…ううん。片方の人と昔、友達で…」
どう取り繕ったところで母にとってリョウ達は父や仲間を連行していった敵に他ならない。
そう思うとどうしても歯切れの悪い説明になってしまう。
「そう。いい人ね」
母はおざなりにそう言うと、その話題に突然興味をなくしたかのように何も言わなくなった。
気まずいような空気の中、話題をそらすべく、私は明るい声を出した。
「そうそう、私ピアノのリサイタルをするんだ」
「…そう」
「そうって…もう少し驚いたり喜んだりしてよ」
「ああ…ごめんなさいね。聴きたかったなぁ、瑠璃ちゃんの晴れ舞台だものね」
分かってはいたし当然だが、行くと言ってくれない母に少しだけ寂しさを覚える。
町を離れることはできないだろうが、来てほしいと言うのはワガママだろうか。
「そんな顔しないの」
私の顔を見て母が吹き出す。
「どんな顔してた?」
「聴きに来てほしいって顔」
やはりどんな事があっても実家は実家なのだなと私は見当違いのことを考える。
普段は感情を表さないこの顔も、気が緩んでいるのか心を正直に映してしまうらしい。
「いつなの?」
重ねて母が言う。
「十一月」
「まあ、すぐじゃない」
少し驚いたような母の声。
「もしかしたら、その頃にはカタがついてるかもしれないじゃない?チケットも完売するはずないけど、一応お父さんの分と二枚受付に置いておくから」
「…そうね。ありがとう」
母が微笑む。
…すべてを諦めた顔で。
「それを飲んだらそろそろ帰った方がいいわ」
そして母は自分のカップをぐいっと傾けると中身を飲み干した。
急かされている気がして私もおずおずと口をつける。
もう少し話がしたいと思ったが、そんな子供じみた感情を感じた自分に愕然とし、一気にコーヒーを喉に流し込んだ。
「じゃあ…」
後ろ髪引かれる思いを感じながらも、立ち上がって母を見つめる。
「ええ。元気でね。あと、もうここには来たら駄目よ」
そんな私の気持ちを断ち切るかのようにきっぱり言い放ち、母も立ち上がった。
「あなたに故郷はなかった、親もいなかった、それでいいのよ。お母さんはそれでも十分幸せなんだから。だからもう一度だけ言うから聞いて。自己満足でいいから自分の幸せを追いかけるのよ」
「……お母さん」
「幸せになってね」
そう母は言うと私をギュっと胸に抱きしめた。
懐かしい母の匂いと幼い記憶の片隅にある抱きしめられた感触が蘇って、気付けば涙が溢れていた。
抱きしめられたのは一瞬だったが、大人になっても変わらぬその腕の安心感に涙腺は決壊してしまったかのようだった。