12
久しぶりに入る慣れ親しんだ家は記憶のままだった。
先日見た生々しい夢のせいで、更にそう思えるのだろう。
黙ったままお茶をいれている母の疲れた表情を見ていると、軽々しく声をかけることなんてできない気がした。
「…はい、お茶」
出てきたお茶にお礼を言い、再び私は黙る。
しばらくそうやって2人で湯気の上がる湯飲みを眺めていた。
「今までどうしてたの?」
沈黙を破ったのは当然ながら母だった。
私は何と答えようか迷う。
水商売をしていたこと、今は男の家で暮らしていること、それは言うべきではないような気がした。
「…何とか暮らしてるよ」
色々省略してそれだけ答える。
「ピアノは弾いてるの?あの日、ピアノの運送屋さんが突然来てびっくりしたのよ」
「…ごめんなさい」
「あの時は瑠璃が出て行ったことが悲しかったけど、でもピアノをわざわざ持って行ったことは、なんだか嬉しかったのよねえ」
まるで当時の映像を見ているかのように、目を細めて天井を見つめながら母が淡々と話を続ける。
「できればきちんとしたピアノの学校にも行かせてあげたいと思ってた。でもここの町の中では無理じゃない?申し訳ないなって気持ちもどこかにあった。だから瑠璃がピアノを持っていなくなったと分かった時、応援しようって心に決めたのよ」
母の言葉に胸が痛くなる。
私は故郷も家族も全て捨てようとしていたけれど、母は昔から変わらずに私を温かく見守っていてくれたのだ。
「そんなの綺麗事だよ。上の人に怒られて私のこと恨んでたんでしょ?」
ありがとう、素直にそう言えばいいのに私の口はそんな憎まれ口を叩いてしまう。
「そうねえ。もちろん咎められたりもしたけれど…でも自分でお腹を痛めて子供を生むとね、理屈や損得だけじゃない感情も沸くの。これは母親なら絶対の感覚だわ。それこそエリートだろうが望まない妊娠だろうが絶対よ」
あなたには分からないでしょうけどね、と母は苦笑した。
その幸せそうな表情に思わず眉をしかめる。
結局母は国に背いて子供を生んで喜びを感じるような反社会派の人間だと見せ付けられた気がした。
「あなたはいつ孫を見せてくれるのかしらねえ」
そう呑気にお茶を飲む母に、私は思わず机を叩いた。
「どうしてそんな事言うの!そうやって好き勝手するから追われるような事になるのよ!この世界だって終わりが近づいてるって言われてるのに!」
激情に任せて言葉を投げつければ、きらりと光る母の目の奥。
「あなた、今好き勝手がどうって言ったわね?」
急に凛とした空気を漂わせて母は私を真っ直ぐ見た。
「…言ったけど」
その様子に少し気圧されながら私は肯定する。
「世界が終わりに近づいてるとも言ったわね?」
「うん…」
そのまま母は黙る。
突然訪れた静寂に私は困惑した。
間違っているのは母のはずだ。だって法に背いているのだから。
なのに母の哀れみを含んだような視線は何なんだろう。
何故だか落ち着かなくなってお茶をひと口飲む。
不自然にごくりと大きな音が耳の中で響いた。
「…あなたはもう少し賢い子だと思ったわ」
がっかりしたような声音が胸を撃つ。
「瑠璃が言った通り世界は終わりに近づいてるのは誰でも知ってるはず。なのに何でみんな好きにやらないのかしら?どうせ、すべて、なくなってしまうのに」
「………」
何も言えない私を尻目に、母は続ける。
「子供を生んでも、誰かを愛しても、金持ちも貧乏も、失敗も成功も、すべてがなくなる。なのに何で政府は制約を増やしたのかしらね」
「それは…」
「それは?何?…ほら答えられないじゃない。大体あなたがどうして政府を庇おうとしてるの?瑠璃みたいに政府は正しいって刷り込まれてる人間がのさばってるお陰でこっちは大迷惑よ」
流れるような早口に不満が感じ取れる。
そして母の言ってることは正しいような気がして私は混乱した。
お金が、地位や名誉が欲しい、けれどそれが何になるんだろう?
でもそれならば、同じように愛する人を見つけて結婚して子供を生むこの町の組織の人々だって、それが何になるんだろう?
もっと言ってしまえば、生きるって何なんだろう?
―――だって、結局世界は終わるんだから。
―――終わる、それは無に還るということなのだから。