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次の野田の休みの日に私は野田とリビングで机を挟んで向き合った。
「野田さん、こないだ言ってたリサイタルの話なんだけど」
そう切り出すと野田がかすかに嬉しそうな笑顔を見せる。
「良かった。やる気出てきたんだ?瑠璃ちゃんの夢だもんね。でも、まだホールを当たってるところでさ。ごめんね、意外に先まで予定が埋まってるものなんだね」
「…そうじゃなくて。…気持ちはすごく嬉しいんだけど」
一旦言葉を切って、ちらっと野田の表情を盗み見た。
「この間も言ったけどまだまだ早すぎるよ。ようやくまともな先生に出会えて、いちから基礎をやり直してる最中なのに」
私は丁寧に説明するよう心がけた。
野田の石頭を説得するには、頭ごなしではなく、理由をきちんと伝えた方がいいだろう。
「大丈夫だよ。僕は瑠璃ちゃんのピアノが好きだって何度言ったら…」
「野田さんがそう言ってくれるのは本当に心強いけど。でも私はまだきちんとピアノの音を出すこともできないんだ。…そのレベルなんだよ」
機嫌を損ねないように慎重に言葉を選ぶ。
不用意なことを言って暴力を振るわれるのはごめんだ。
だから私は変に自分を飾ったりせず、今の自分の実力を素直に話した。
腕に力が入りすぎて力んだ音と呼べないような音しか出せないこと、ピアノを弾くための筋肉が腕にも指にもついていないこと、斉藤の演奏において大切にしている呼吸法も教わっている最中だということ。
リサイタルを開けない理由は五万とある。
むしろ開く理由を探す方が難しいくらいだった。
「だから、もう少し待って」
媚びるような視線を作って野田を見つめる。
だが、野田の目はすっと細められた。
嫌な予感がする。
「待たない。俺がやるって言ったらやるんだよ。何がピアノの音だ。そんなの大抵の人には分からないんだからいいんだよ」
低く冷たい声。けれど私も必死に食い下がる。
「そんなわけないじゃん。わざわざクラシックの演奏会に来る人は、分かる人が多いはずだよ」
そしてその分かる人の口コミや批評が今後大事になってくるのだ、とこっそり心の中で呟く。
「へえ?じゃあMBで君の演奏に惹かれた俺は、分からない側の人間だって言うんだ?」
「………」
それは言いがかりだ、そう思ったけれど口には出せなかった。
何故なら頭のどこかで野田のことを“音楽の分からない人”と識別していたかもしれないと気付いたから。
「お前は俺のことを、お前のピアノが好きで応援してる俺のことを、そういう風に思ってたんだな」
燃えるような憎しみを湛えた目で見つめられる。そこに本気の怒りが見えた。
野田はゆっくりと腕を伸ばして私の首に両手を巻きつけると、ゆっくりと力を込めてきた。
「…ち、がう」
かろうじて出せる掠れた声で否定を伝え、首を横に振る。野田の力は緩まない。
「なにが違うんだよ。違うと思ってるなら、さっき即答できたはずだろ?結局お前は俺を馬鹿にしてるんだよ」
話が飛躍しすぎだ。
しかしそう伝える術は今の私にはない。
苦しくて野田の手を叩くが効果はなく、私はぼんやりしてくる思考を手放した。
野田の言うことは確かに真実で、それを今まで意識していなかったとはいえ、応援してくれていた野田に対して軽く罪悪感を覚えてしまっていた。
『演奏良かったよ』
初めて私の演奏を聴いた時、野田は笑顔でそう言ってくれたっけ。
私の音が好きだとそう微笑んでいた。
それはおそらく彼にとって純粋な気持ちで、今も一貫して同じ感想を私の演奏に持っているのだろう。
それを素直に受け止められなくなったのは私の方だ。
その時、突然野田の指が外され咳き込んだ。
止まらない咳の中、涙でぼやけた視界で野田を見ると、気のせいか野田の瞳も濡れているように見え、何度か瞬きをして再び彼を見た。
「瑠璃ちゃんが何て言おうが、近々リサイタルは開くから」
それだけ言うと野田は立ち上がる。
未だに荒い息をついている私を見下ろすとわずかに眉を寄せ、さっきまで自分が掴んでいた私の首元を優しく撫でた。
「それで駄目だったらもうピアニストは諦めて、すっと僕の傍でのんびり生きていったらいいよ」
優しい声音。
そして慈しむように私の涙に唇を寄せ、リビングを出て行った。
完全に野田の気配が遠くにいった事を感じてから、私は大きくため息を吐く。
演奏会は避けられない、そう悟った。
そして彼の言うような、夢に破れて余生を過ごすことだけは避けたいと心から願った。