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帰りは美味しいご飯でも食べて帰ろうと明るく声をかけてくる野田に私は無表情で頷く。
本当は一緒にご飯なんて行きたくはない。
自分を暴力で押さえつけてくる男なんて真っ平だ。
野田に対して元々恋心があった訳ではなかったが、私の中で彼は恋愛対象の枠からも外れた存在となっていた。
けれど逃げられない。逃げるわけにはいかない。
だとしたら無駄な抵抗などせずに、さっさと用事をすませて開放されるのが賢明だ。
お茶を出すという斉藤のもてなしを野田は断り、慌てて次回のレッスンの予約をとると、すぐにタクシーに押し込められた。
まるで拉致のようだと私は冷めた頭で笑う。
「レッスンはどうだった?」
普段私に手をあげているくせに、聖人君子のような笑みを浮かべて野田が言った。
「できるだけの事はしてきたって認めてもらえたみたい」
窓の外を流れる景色を眺めながら私は素っ気なく返す。
「そう。どこにも行かずに練習した甲斐があったね」
嬉しそうな声をあげる野田だが、ちらりと横目で見やるとそんな声とは裏腹に、ほうら俺は正しいだろ?とでも言わんばかりの目をしてこっちを見ていた。
目が合う。
しばしお互い何か探るような視線を絡ませ、私から先に逸らした。
不本意ながら今回は野田の言ったことが結果的に正しい方向に転んだ。
レッスンはうまくいったというのに、それがとてつもなく不愉快だった。
「大丈夫だよ。瑠璃ちゃんさえ真面目に練習すれば、いつかきっと一流のピアニストになれるよ。・・・家から一歩も出ずにね」
その言葉に苛立ち、ぴくりと反応した私の手の甲を野田は人差し指で撫でる。
気持ち悪い。
けれど、私は自分の気持ちをぐっと押さえ込んだ。
大丈夫、感情をしまいこむのは得意分野だ。
そんな私を見て野田は満足したかのような表情を浮かべ、前へ向き直った。
沈黙がタクシーの中に広がる。
正直、どうして野田が今でも私をそばに置いているのか分からなかった。
もちろん私にとっては都合がいい。
けれどこんな状態で一緒にいたって野田にしてみても楽しいはずがないのだ。
知らずのうちにため息が漏れる。
間もなくタクシーがいかにも高級そうなお店の前に横付けされた。
野田にエスコートされながら、よそよそしさを取り繕うこともなく店内へと足を踏み出す。
と、その時後ろで激しいクラクションの音がしたので思わず振り返った。
心臓がどくっと大きく跳ねる。
そこには先ほどのタクシーの前に無理やり入り込んだかのような位置に黒い乗用車が止まっているのが見え、その脇には見覚えのある男が、リョウがこちらを向いて立っていたのだ。
私はすぐに前へと向き直り、何事もなかったかのように店内へと足を踏み入れる。
表面的にはポーカーフェイスは完璧だったと思う。
けれど私の背中には暑くもないのに汗が一筋伝っていた。