18
斉藤のレッスンの日がついに明日に迫った。
野田の言う通り外出もせず、私は毎日ピアノを練習するだけの日々を過ごした。
仕方なくそうした訳ではない。
バイトを辞めさせられたあの日から、ピアノを弾く以外のことに興味が全く沸かないのだ。
相変わらず練習しても練習しても、私の腕は鉛のように重かった。
頭の中でイメージするような演奏にはとうてい及ばない。
けれどほんの少しだけ前進できる日もあった。
そんな時はアドレナリンが一気に放出されるような、何事にも代え難い高揚感が身体中を駆け巡る気がした。
今の私にとってそれは信じられないほどの快感になっており、ますますピアノの前から離れることができなくなっていた。
「瑠璃ちゃん。ご飯買って来たよ」
野田の声に時計を見る。
もう20時過ぎか。外出も許されない私は食材も買いに行けなければもちろんご飯を作ることもできず、最近では野田がどこかから夕飯をテイクアウトしてくることがほとんどだった。
「今日は麻布の日本食のお店のだよ。前一緒に行ったの覚えてる?金平が美味しかったところだよ」
他愛のない野田の話は右耳から左耳へすり抜けていく。
無言の私にも気にせず、野田はお茶を淹れながらテーブルにまだ温かい惣菜容器を並べていった。
あれから野田とはまともな会話をしていない。
嫌われたくないとか、夢を叶えたいとか、そんな執着も以前より薄れてしまっていた。
そのくらい『MB』が私の中で支えになっていたとは正直自分でも意外だったが、よく考えてみれば自分で開拓していた野望が一転して、人の敷いたレールに沿って叶えるしかない状況になったのだ。
自力と他力ではかける真剣さや情熱は全く別物になってしまうものだろう。
そんな私を見て野田はひどく満足気だった。
会話がなくても、私が顔も洗わず着たきりの汚いジャージ姿を晒しても、嫌な顔はちらりとも見せなかった。
ただし少しでも野田に反抗するような素振りを見せるとすぐに手を上げるようになった。
痛い思いをするのは誰だって嫌なもので、私はいつの間にか野田に対して分かってもらおうとか反論しようとは思わなくなってしまっていた。
殴られるくらいなら黙っている方が何かと都合がいい。
「明日はもちろん斉藤先生の家まで送っていってあげるからね。朝早いんだから今日は早く寝よう」
場違いなほど美味しい煮物を口に入れながら私は頷いた。
優しげな仮面をかぶった野田の台詞は白々しく、まるで理解できない言語を話しているような錯覚すら覚え始めていた。