17
その日の明け方、バイト先の店長から電話がかかってきた。
一睡もできなかった私は自室のベッドの上で私は携帯に手を伸ばす。
その瞬間、シーツに頬が擦れて殴られた肌が痛んだ。
私の顔は誰が見ても一目瞭然なほど、無様に腫れ上がってしまっていた。
携帯は鳴り止まない。
休んでしまったことへの文句だろうか。
そもそも今日の欠勤連絡は野田が強引に電話をしてしまっていた。
何と言って休みをもらったんだろう。
話を合わせなくてはいけないのに、何も教えてもらっていなかった。
「もしもし」
けれどやっぱりきちんと自分の口から謝らなければ。
気に入っている仕事なのだから、職を失うような事だけは避けたい。
そう思い、通話ボタンを押す。
『あ、瑠璃ちゃん?体調は大丈夫?』
「はい。今日はすみませんでした。ご迷惑をかけてしまいまして・・・」
体調という言葉に私はホっとする。
どうやらまっとうな理由で休めていたようだ。
『いや、謝ってもらってもこっちとしては困るんだけどね。でもまあ事情が事情だし』
事務的だった店長の声が少しだけ複雑な色をもった。
「え・・・?」
『いや、何でもないよ。僕は君の演奏、実は好きだったよ。これからもピアノ頑張ってな。それだけ伝えようと思って』
じゃあ、と言ってあっさりと電話は切れた。
“実は好きだった”“これからも頑張れ”という言葉から連想するに、良からぬ事態しか想像できない。
私は弾かれたように部屋から飛び出し、早朝という時間も弁えず野田の部屋に入って声を上げた。
「ちょっと、どういうこと?」
寝ていたであろう野田は私の手に握られている携帯を見て状況を把握したのか、眠そうな顔は一切見せず、にやりと笑みを浮かべて見せた。
「どういうことも何も。お店に辞めますって電話しといただけだろ」
「私にとってあのお店がどれだけ大切か野田さんは分かってるでしょ?どうして?」
「いいじゃないか。いい先生を紹介したんだし、あんな店で弾くなんて無駄な時間使うことないよ。お金のことは心配しなくていいから」
「そういう問題じゃない!」
地元を捨てて上京し、頼れる人もいないままゼロから探してようやく見つけた場所だったのだ。
ピアノの弾ける仕事自体が極稀な上に、未経験の田舎娘を雇ってくれる高級クラブなんてそうそうない。
基本的には誰も聴いていなかったとしても、たまに貰える笑顔での拍手や、スタッフの労いの一言がどれだけ嬉しかったことか。
「何言ってんの?そういう問題だよ。あの店長さ、瑠璃の意志なんですか?って何度も聞いてきてうるさかったからお金払うって言ったんだよ。そしたらあっさり納得してさ。馬鹿だよね」
目の前にいる男は誰だろう。
本当にあの優しい笑顔の野田なのだろうか。
もしかしたら二重人格なのかもしれない、と私はぼんやりと思う。
「そんなわけだから明日からは毎日存分にピアノを練習してなさい。それから俺がいない間に外出することは許さない。分かったら明日も早いんだからもう少し寝かせて」
言いながらモゾモゾと布団にくるまる野田を見て、私は完全に脱力した。
このままこの家から出て行ってしまいたい。
しかし今ここで出て行っても、私には住む家も愚痴を聞いてくれる友人も仕事も何もないのだ。
ならば従うという選択肢しかない。
その事実に悔しさを噛み締めながらも、どうすることもできない自分に私は落胆した。