15
その日は最悪だった。
自宅へ戻り、ピアノの練習室へ直行したにも関わらず、思うように音が出せずイライラした挙句、強い眠気に教われて鍵盤に突っ伏したまま眠ってしまったのだ。
そのせいか頭が割れるように痛い。
目が覚めた時、太陽が真上よりわずかに西に傾いているのに気付いて、自分を殴りたい衝動を必死に抑える。
過ぎてしまった時間は取り戻せないとは分かっているけれど、自己嫌悪に押しつぶされてしまいそうだ。
少しでも気分を変えようと私は浴室へ向かった。
シャワーではなく湯船にお湯をはり、贅沢して買った入浴剤を惜しげもなく振り入れる。
コラーゲンやらビタミンやら、肌に良いと言われている成分がふんだんに使われたセレブ御用達と言われるこの入浴剤は、モチベーションが上がらない時の必須アイテムだ。
贅沢をすることで心のどこかが満たされる気がするからだ。
しばらく甘い香りの中で手足を伸ばしているうちに、ようやく少しだけマシな気分になってきた。
大丈夫、次のレッスンまで時間はまだある。
やれるだけやって、もしできなくてもプライドなんて捨てて斉藤に泣きついてレッスン続行を頼もう。
もしそれで断られたら野田に言って何とかしてもらおう。
ふと浴室の時計を見ると大分時間が経っていた。
このままのんびりしていたらバイトに遅れてしまう。
お風呂を出て、軽く食事をとるためにキッチンへ向かうと、不意に目の前に影が立ちふさがった。
驚いて咄嗟に何か言おうとしたところ、喉がつぶれたような変な声しか出なかった。
「・・・瑠璃ちゃん」
その声を聞いて私はゆっくり息を吐き出す。
「野田さん。・・・びっくりした。仕事は?まだ3時だよ?」
声の主は野田だった。
朝リョウの会って話したせいか、私を追っていたリョウの組織が部屋の中まで侵入してきたんじゃないかと一瞬最悪な展開が頭をよぎったが、さすがに考えすぎだったようだ。
「そこに座って」
私の言葉が聞こえてないかのように、野田は無表情にリビングのソファーを指し示す。
「なあに?バイトがあるからご飯食べて支度したいんだけど」
「いいから」
有無を言わさぬ様子に何か良くないことがあったんだと直感した。
しぶしぶ座り心地の良いソファーに身を沈める。
「・・・朝、誰と会ってた?」
一緒に暮らし始めてから初めて聞くような硬い声音に、無意識のうちに身体が強張った。
「・・・昔の友達だけど」
リョウの組織が野田にコンタクトをとったのだろうか。
だったら隠すことが自分の首を絞めることになる、そう判断して私は素直に答えた。
「どうして昔の友達がここを知ってるんだ?」
「どうしてって・・・」
「俺が仕事に行ってる間にそいつを家にあげてるんじゃないのか?そいつが本命なのか?」
・・・違う。
この口ぶりからして野田はリョウの組織のことを知らない。
だとしたらまた探偵でも雇って私の様子を窺っていたのだろうか。
一体何のために。
「違う。私もビックリしたけど、自分で住所を突き止めてきたみたい。私も困って・・・」
誤解をとこうと必死に話し始めた途端、頬に大きな衝撃が走った。
殴られた・・・そう気付くまで少し時間が必要だった。
じわりと涙が浮かんだ目で彼を見つめる。
そこで目にしたのは、普段の温厚な表情からは想像がつかないような、不穏で狂気じみたオーラを発している、不機嫌そうな顔の男だった。