13
私は携帯を閉じると何事もなかったようにピアノの前に座った。
まず、どうするんだっけ。
先日のレッスンで注意書きが足され、黒くなった楽譜を見つめた。
ああそうだ、腕の力を抜いて鍵盤に指を乗せて・・・。
軸を指の第一関節に置く。
そのまま指だけを動かして音を鳴らす。
その際にきちんと鍵盤の芯をとらえるように。
そしてメロディーを弾く時は横の繋がりを意識して呼吸の中で・・・。
ピリリリリ。
突然響いた携帯のメール受信音に、集中しかけた意識が一気に散って行く。
どうしようもなく腹が立ったが、カッとするよりも何だか脱力してしまった。
もう本文は読まないで消去してしまおう、そう思って携帯を手にとった瞬間を見計らったように「ピンポーン」と、軽快にインターホンが鳴った。
嫌な予感がする。
いや、ここまできたら、予感というよりは事実だろう。
私はゆっくり立ち上がり事実かどうかを確認するべくモニターを覗き込んだ。
そこには案の定、少し難しい顔をしたリョウが立っているのを発見し、ほんの少しだけ思案した後受話器をとらずにそのまま部屋を出て1階のエントランスへ向かった。
いきなり現れた私にリョウは幾分か意表をつかれた顔をしたが、「よお」と軽く手を挙げて挨拶する様子は、私の知っている彼とは僅かに違和感があった。
私はジロジロと上から下まで遠慮なくリョウを眺め、その違和感は彼が着ているスーツが原因だと確信する。
「なに?」
いつも以上に仏頂面を隠そうともせず、私は短く尋ねた。
「メール見た?」
リョウも簡潔に用件を聞いてくる。
「見たけど何のことだか分からない。もういい?悪いけど忙しいんだよね。あともう家まで調べてくるのやめて。ストーカーは犯罪だよ」
言いたいことを全て吐き出し、私は踵を返した。
もう彼に言う言葉はない。
しかしリョウはオートロックの自動ドアを越えようとした私の手首をがっちりと掴んだ。
思いもよらない行動に驚いて掴まれた部分を私はただ見つめた。
「駄目だ。ちょっと来て」
リョウは低くそう言うと手首を掴んだまま私を引きずるようにしてマンションのエントランスを出た。
高級住宅街の出勤時間にさぞかし似合わない光景に違いない。
周囲の人の目が好奇に光るのを見て、私は腕を振り払おうと暴れたが手首に込められた力は微塵にも緩まなかった。
そのまま数メートル先のカフェに押し込まれる。
「待って、私財布持ってきてない」
「コーヒーでいいだろ?奢るよ」
リョウは口の端を歪め、独特の嫌味な笑い方をし、カウンターにオーダーをしに行った。
どうせもう家まで知られてしまっているんだから逃げることも隠れることもできない。
だったら彼の話を聞いて、私もあの町のことは隠し通して円満に解決しよう、家からこのカフェの短い道のりの間に私はそう思うようになっていた。