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その日のレッスンが終わったのは、開始から3時間が経ってからだった。
けれど曲についての指導はほんの一言たりともされていない。
ただひたすら姿勢、指の使い方、体重のかけ方を教わっていたのだ。
レッスンを終えて、野田の待つリビングに通された時には、慣れない姿勢でピアノを弾き続けたせいか身体中がミシミシいうほどだった。
けれど気分は高揚している。
斉藤のレッスンは容赦のないものだったが、彼女の指導をマスターしていけば今より確実にピアノが弾けるようになるのは明らかだった。
「彼女の希望で今後もレッスンすることになりました。もちろんお互いやる気があればだけど」
驚くほどに良い香りがする紅茶を淹れながら、斉藤が野田に報告する。
きっと私には信じられないくらい高価な紅茶なのだろう、そう思いながらひと口含んでみた。
フルーティな酸味が口の中に広がったが、美味しいかどうかはよく分からなかった。
「そうなんだ。良かったね」
野田は隣りに座る私の肩を嬉しそうに叩いき、紅茶を美味しそうに飲む。
「レッスン代は僕が払います。今日と同じ額でいいですか?」
何でもないような風に野田が斉藤に確認したので聞き逃しそうになったが、レッスンを受けるにはレッスン代が発生する事に、私はその時ようやく気付いた。
「そういうわけにはいかないから。私が払います。おいくらですか?」
「でも」
「私が働いてるお金は、こういう事のために使うのが正しいと思うから」
何かを言いかける野田にきっぱりと宣言する。
野田のメンツというものもあるだろうが、それだったら私のメンツだってある。
「・・・1回3万です」
そんな私たちを交互に見ながら、涼しい顔で斉藤は告げた。
レッスンはどの位の頻度でやるのだろう。多くて週1回くらいか。
だとすると月12万も必要になる。
安いとは言い難い金額ではあるが、今は家賃も払っていないのだ。
正直その金額ですむことにホッとした。
「分かりました。これからよろしくお願いします」
私はそう言って頭を下げる。斉藤はそんな私を一瞥し試すように言った。
「次回のレッスンなんだけど、来週の金曜の夕方は来れるかしら?」
一瞬言葉に詰まる。
金曜日の夕方ははっきり言ってバイトを休み辛い。
「申し訳ないんですが、私は働いていまして・・・。接客業なので週末は休みがとり辛いので、平日にしてもらえないでしょうか。勝手を言ってすみません」
隠しても仕方ない。
おそるおそる斉藤に、そう素直に伝えた。
「あらそう。本当に勝手ね」
冷たい声にもう一度すみませんと小さく伝える。
「では再来週の月曜の13時にまた来てください。・・・今からちょっと野田さんと話したいことがあるから、あなたはちょっと席を外してくれる?」
「・・・はい」
わがままを言ったお詫びもこめて、
「今日はありがとうございました」
と深くお辞儀をして私は斉藤の家を後にした。
きっと仕事関連の難しい話でもするのだろう。
もしくは私のピアノの見込みの話か。
私は野田に『先に帰ってるね』とメールを送り、歩き始めた。
来る時は真っ青だった空が、すでに赤く染まり始めていた。