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玄関を上がるとすぐにレッスン室に通された。
野田は真っ直ぐリビングへ案内される。
彼は少し不満気な顔をしたが、レッスン中に第三者がいると集中できないからと私と斉藤に説得され、しぶしぶといった感じで引っ込んでいった。
「今日は何の曲を持ってきたの?」
「ショパンのバラード1番です」
手のひらを差し出す斉藤に楽譜を渡す。
2台並べられたうちの左側のピアノの前に座り、どうぞと言わんばかりの視線が投げられた。
私はもう1台のピアノの前におずおずと座り、ひとつ深呼吸をする。
人生がかかっていると思うと身体全体がこわばり、深呼吸する口が震えているのが分かった。
ゆっくりと鍵盤に指を乗せ、弾き始める。
暗譜は完璧だ、そう思っていたのにいざとなると不安になる。
もし無様に次の音を忘れてしまったらどうしよう。そんな不安がミスタッチを誘う。
けれど弾き直すわけにはいかない。そのまま平常心で演奏する。
頭に浮かぶいつもの情景とメロディーそのままに、私は必死に音を紡ぐ。
最後の音を鳴らし鍵盤から手を離す頃には尋常ではない量の汗をかいていた。
斉藤は「うん」と一言呟き、何も言わないずに楽譜を眺めている。
「・・・あの」
いつまでも続く沈黙に耐えられず、私はあてもなく声を発した。
けれど次の句が思いつかなくて、そのまままた黙り込んだ。
「悪くはないです。よく弾き込んでいるのと貴女がピアノを好きなことは分かったわ。けれど残念ながら貴女には基礎が足りない。感情だけではピアノは弾けないのよ」
「・・・はい」
私は目を瞑る。ずっと独学でやってきた私にとっては妥当な評価だ。
「基礎をきちんとしないと感情にすべて潰されてしまう。それではただの独りよがりの演奏に過ぎないわ。それにこのままの弾き方を続けていたら貴女の腕は多分潰れます。感情にどれだけ良いものを持っていたとしてもね」
斉藤は事も無げにそう言うと、私を見てニッコリと笑った。
まるで何でもない事のように。いや、多分彼女にとっては私の将来なんて何でもない事なのだろう。
私は表面的には無表情にその顔を見返しながら、手の平をギュっと握り締めて尋ねた。
「改善の余地はありますか?」
「さあ?それは貴女次第ね」
斉藤は面白がるように、試すように私の目を覗き込んでくる。
「じゃあ・・・私にピアノを教えてくれませんか?」
私も負けじと目を見つめ返しながら必死に言葉を繋いだ。
「いいでしょう。野田さんには私もお世話になっているのでね。ただし私も暇ではないから、レッスンの時に以前出した課題がまるでできないようならば、即終了ということでいいかしら?」
「はい。お願いします」
私はそう言って頭を下げた。
仕方のない事とはいえ、見下されているような斉藤の口ぶりに心がもやもやするのをグっと堪える。
「では頭からもう1度弾いてくれる?」
斉藤の顔から笑みが消え、眼差しが真剣になったのを見て、私は慌ててピアノに向き合った。
下らない劣等感を感じている暇はない。
斉藤から盗めるものは全て盗んで吸収してやろうと、私は一言一句聞き逃すまいとレッスンに全意識を向けた。